森有礼、新井奥邃へのスウェーデンボルグの影響
江戸時代末期、ペリーが艦隊を率いて日本に来航してから5年後、日本はアメリカやイギリスなどの5カ国と修好通商条約を結んだ。このとき、ロ一レンス・オリファント(Lawrence
Oliphant,1829~1888)という人物がイギリス外交官の1人として来日した。1858年のことである。
オリファント家はスコットランド中部のパースシャー地方の名門で、彼の両親はともに熱心なキリスト信者であった。オリファントは22歳のときに法律を学び、25歳のときカナダ総督エルギン伯爵の秘書官となり、エルギン使節団として日本にやってきたのである。そして彼は「日本人は、私がこれまで会った中で最も好感の持てる国民であった」と、日本人に対して好印象を持った。
帰国後、オリファントはスウェーデンボルグの教義に触れる。そして2年後、トーマス・レーク・ハリス(Thomas Lake Harris,1823~1906)という人物に出会った。
ローレンス・オリファント(Lawrence Oliphant, 1829~1888)
ハリスはイギリスに生まれたが、5歳のときに両親とともにアメリカへ移住した。彼は20歳のときに普遍救済主義派の牧師となり布教活動をしていた。しかし、24歳のころにスウェ一デンボルグの教義を知り、その均整のとれた思想に心酔してからは、ニユ一ヨ一クにおいてスウェーデンボルグ派として布教活動をするようになった。しかし、やがてハリスはそれに満足できなくなり、そこに独自の解釈を加えるようになった。そして「新生同胞教団」(The
Brotherhood of the New Life)と称する、いわば原始共産制コミュニティを設立し、信者とともに生活するようになった。
オリファントは、このハリスの教説を聞き、その人物と教義に魅せられたのである。
さて、オリファントは1861年に憧れの日本に外交官として再来日した。ところがその数日後、領事モリソンとともに水戸浪士の襲撃を受け(東禅寺事件)重傷を負い、わずか10日あまりで帰国せざるを得なくなってしまった。しかし、日本人によって命を狙われたオリファントであったが、彼の日本人を愛する気持ちが変わることはなく、むしろ日本への愛着を深めていった。オリファントは日本民族を世界史的にある使命を帯びていると信じ、その将来に大きな夢を託していたのである。
オリファントは、それからおよそ3年後、下院議員となった。そして「新生同胞教団」の正式メンバーになろうと考えはじめていた。
このころ日本では、薩摩藩士によるイギリス人殺害事件が原因で、薩摩藩とイギリス艦隊との間で砲撃戦があった(薩英戦争)。この戦いで近代兵器の威力を見せつけられた薩摩藩は、本格的な洋学
振興方針をとることになった。そしてイギリスと親密な関係を結び、1865年3月、15人の若き薩摩藩士たちを留学生としてイギリスへ送り出したのである。
この日本から来る留学生を好意的に迎えた人物こそ、オリファントだったのである。彼は2年前に来ていた伊藤博文や井上馨ら長州藩留学生の世話もしていた。
オリファントは留学生たちに、新生日本を造り上げていくために必要な知識を教え、学ばせた。そして、このチャンスに在英日本人留学生を1人でも多くハリスのもとへ導こうと考えていた。
薩摩藩英国留学生 後列左から 畠山義成 高見弥市 村橋直衛 東郷愛之進 名越平馬 前列 森有礼 市来勘十郎 中村博愛
さて、留学生たちがイギリスにやって来てから2年後、彼らに薩摩藩から帰国命令が届いた。いよいよ倒幕の機が熱したことと、留学費用の捻出が困難になったことがその理由であった。そのため、彼らは志し半ばにして帰国しなければならなくなったのである。
ちょうどそのころ、ハリスがパリ万博見学を兼ね、自著の出版交渉のため、たまたまロンドンにやって来た。このとき、オリファントを通じ日本人留学生の窮地を知ったハリスは、留学生たちに提案をした。それは、自分の教団に来るなら半日労働をすれば半日は勉学の時間を与える。教団内には多方面の高度な知識を持った人たちが集まっているから諸君らの勉学の相手にもなってやれる。さらに専門を深めたければ大学への道も斡旋してやろう、というものであった。
ハリスもまた、彼独自のキリスト教による王国の建設は日本が最も適していると考えており、日本人に大きな期待を寄せていたのである。
オリファントやハリスが日本人に注目していた理由は、スウェーデンボルグの神学著作の中に、神による新しい教会(新教会)の建設は、キリスト教世界から離れた国民に期待されていると書かれていたからであろう。
1868年7月、オリファントは母と妻を連れて、ついにアメリカへ旅立った。そして、その1か月後、6人の留学生が藩の帰国命令を無視して、オリファントのあとを追って「新生同胞教団」に入団したのである。
この6人の中には、後年、初代文部大臣となった森有礼、初代フランス公使となった鮫島尚信、カリフオルニアで大きなぶどう園の経営者となり「ぶどう王」と呼ば長沢鼎らがいた。
彼らは、アメリカに来ていた薩摩藩や長州藩の留学生たちにも声をかけ、この教団で学ぶことを勧めた。その結果、メンバーは11名になった(最も多いときで13名いた)。
この「新生同胞教団」では、信者は無報酬でハリスが「The Use」と呼んで計画した厳しい労働に従事した。ここでは、ハリスの許しがなければ外出はもちろん、夫婦であろうと会うことは許されなかった。
ここでの生活の中で彼らは、スウェーデンボルグのことも話題に挙げ関心を寄せているが、ハリスはスウェーデンボルグの職業などに関しては正しい認識を持っていないようだった(『長沢鼎英文日記』参照)。
しかし、神のためではなく、日本のために戦うベきだと考える留学生たちは、やがてハリスの発言に躓き、多くの者は教団を去ることになり、残ったのは4人であった。
ハリスは、有能な日本人の多くが去ったことに落胆した。やがてハリスは自分を最後まで信じて教団に残っていた森有礼と鮫島尚信も日本に帰すことにした。彼らを教団内に引き留めておくよりも、日本に帰して祖国再建の任務に就かせる方が良いと考えたからである。
森と鮫島は、1867年6月、戊辰戦争さなかの日本に帰国した。森は22歳、鮫島は24歳であった。3か月後、元号は「明治」と改められた。森と鮫島が帰国してから3年後(1870年)、海外で学んだ知識を生かして、鮫島はヨーロッパへ、森はアメリカへ、それぞれ青年外交官として赴任することになつた。森はこのとき新井奥邃(1846~1922)を一緒にアメリカへ連れて行った。目的は、新井を「新生同胞教団」に入れ、ハリスのもとでキリスト教を学ばせるためであった。
新井奥邃の「謙和舎」
新井奥邃は仙台の出身で、榎本武揚の軍に身を投じ、1868年(明治元年)の函館戦争に参加した人物である。彼はまた、ギリシャ正教会修道司祭のニコライに出会い、キリスト教を知っていた。
森は、新生日本を造り上げてゆくためには、ハリスの教義をマスタ一していることが不可欠であると信じていた。そして、新井ならそれができる資質と学識を持っていると森は見ていたのである。留学費用は、森がポケットマネーから捻出した。
新井は当初5年間の留学予定であった。しかし、結局およそ30年間にわたり「新生同胞教団」にとどまったのである。新井が帰国したのは、1899年8月、54歳のときだった。新井は帰国して3年後に「謙和舎」という塾舎を建築し、1922年(大正11年)6月に他界するまでの18年間、ここで塾生たちと共同生活をしながら暮らした。ここには田中正造や内村鑑三も訪れていた。
森 有礼
一方の森は、アメリカからの帰国後、福澤諭吉など当時の代表的な洋学者たちを集め「明六社」を結成した。「明六社」は演説会を開催し、その演説筆記をまとめた機関誌『明六雑誌』を発行した。この機関誌はわずか20ペ一ジ前後の小冊子であったが、毎号3000部あまりも売れ、日本人の思想の革新に大きな影響を与えたと言われている。森はこの中で"契約結婚"を積極的に勧め、1875年には自らそれを実行して世間の評判になった。この結婚式は、新郎新婦が約200人の参会者の面前で夫婦の誓約書を読み上げ、これに署名するというものであった。証人には福沢諭吉が立ち会った。こうしたやり方は、スウェーデンボルグの『結婚愛』の記述(307番)に一致している。その後、森は外交官として清国やイギリスに赴任してさらに経験を積んだ
1885年(明治18年)12月、日本政府は内閣制度を設置し、第一次伊藤博文内閣が生まれた。このとき、森と交流のあった伊藤博文は彼の才能を認め、文部大臣に任命した。森は、社会状況の変化に即応して、多様な教育要求に応え得る学校制度を造り上げようとした。
しかし彼の活躍は長くは続かなかった。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日、森は国枠主義者に襲われ重傷を負い、翌日他界した。42歳であった。
森は、自分の内面を打ち明けることはなかったが、彼の身辺にいる者たちは、彼が後までハリスを信じていたと証言している。しかし森の政治思想や行動を見ると、ハリスの教義や「新生同胞教団」が理想とするような社会を認めている様子はない。むしろ森の政治的な考え方は、ハリスよりもイギリス留学のときにおけるオリファントによる指導が大きかったのではないか、と言われている。しかし森の言動は、やがてオリファントよりも、その源流であるスウェーデンボルグの思想に近くなっているのである(『異文化遍歴者
森有礼』(木村力雄著/福村出版)参照)。
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文責 山本康彦
* 「森有礼とスウェーデンボルグ」については、『JSA会報』8号に、「新井奥邃とスウェーデンボルグ」については、『JSA会報』5号に、それぞれ瀬上正仁氏による研究論文がある。
* 明治時代におけるスウェーデンボルグの日本への影響については、瀬上正仁氏が『明治のスウェーデンボルグ』としてとりまとめ、「春風社」より発行しておられる。