死後のいのち2

Swedenborg Sampler

天界

 天使であれ人間であれ、主に由来する愛と信仰を受け入れる者すべてに天界がある。したがって、この世にいるときに、自分の中に天界をもっている人は、死後、天界に入っていく。(『天界の秘義』10717)

 主は天界におられるだけでなく、天界そのものでもある。なぜなら、愛と知恵が天使をつくるのであり、これら二つは天使の中にある主の属性だからである。したがって、主は天界なのである。天使は、自分自身のものによって天使であるわけではない。天使の中にあるのは、人間の中にあるものと同じであり、悪である。天使のプロプリウム(固有性)がそのようなものである理由は、天使がかつて人間だったからであり、そしてそのプロプリウムが、生来彼らに備わっているからである。それはただ脇に移されるにすぎない。そして脇に移されると、それに比例して、天使は愛と知恵、すなわち主を自らに受け入れる。(『神の愛と知恵』114)

 真理に伴う善は、誤謬に伴う悪を破壊し、取り除く。なぜなら、善は神から来るものであるから、善にはあらゆる力がある。他方、悪は地獄から来るものであるから、まったく力がない。・・・しかし、この世で仁愛を実践し、(神から来る)その力を受けなければ、誰も悪を抑えて、善に留まることはできない。これは善い生活、あるいは信仰の真理にしたがった生活、すなわち善の情愛ないし善の愛によってもたらされる。(『天界の秘義』8206)

 天界をつくっている天界の神は愛である。なぜなら、愛は霊的結合であるから。愛は天使と主を結びつける。また、天使たちを互いに結びつける。愛がそのように彼らを結合するから、主の目には、彼らはひとつである。さらに、愛はあらゆる個人的いのちの本質的実体である。それゆえ、それは天使と人間のいのちの源泉である。そのことを考える人は、だれでも、愛こそいのちの核心であることがわかるであろう。(『天界と地獄』14)

 天界では、あらゆる形の善が互いに共有されている。あらゆる平和、知性、英知、幸福が、天界の一人ひとりに分け与えられている。また、一人ひとりの平和、知性、英知、幸福が、すべての人々によって共有されている。しかしながら、それは主に由来する愛と信仰を受け入れる程度に応じて共有されるのである。(『天界の秘義』10723)

 天界にいる者にとって、喜び、至福を他者に分け与えることは、この上ない喜びである。そして、天界にいる者すべてがそうであるから、天界の喜びがどれほど大きいか明白である。・・・そのような共有は、天界における二つの愛から生じる。すなわち、主への愛と隣人愛である。これらの愛は、本質的に喜びを共有することを欲する。主への愛がそのようなものである理由は、主の愛が、もてるものをすべての人に分け与える愛だからであり、すべての人の幸福を願う愛だからである。まったく同様の愛が、主を愛するすべての者の中にある。なぜなら、彼らの中に主がおられるからである。(『天界と地獄』399)

 天界においては、もっとも小さい者がもっとも大きい。というのは、能力や英知がない者、自分自身の能力や英知ではなく、ただ主に由来する能力や英知だけを求める者が、もっとも小さい者と呼ばれるからである。このようなもっとも小さい者に、最大の幸福がある。そして、このような人に最大の幸福があるから、もっとも重要ということになる。なぜなら、彼らはこのように、すべての能力とほとんどすべての英知を主からいただくからである。また、最大の幸福以上に、どんな大きいものがあるであろうか。最大の幸福は、力ある者が力によって、富める者が富によって追い求めるものである。天界は、もっとも大きい者になるために、もっとも小さい者になりたいと願うところではない。そのような人々は、もっとも大きい者になることを願っている。そうではなく、天界は、自分自身のためではなく、他者のためによりよくありたいと心から願うこと、他者の幸福のために他者に仕えること、報酬を顧慮せず、愛からそうすることの中にあるのである。(『天界と地獄』408)

 この世にいる間は、善と真理の情愛の中にいる人が、永遠のいのちの幸せを感じることはできない。ある程度の喜びを感じることができるだけである。そのわけは、人が身体の中に閉じ込められているからである。身体の中にいるときは、人は世俗の心配事に支配され、不安を免れない。・・・しかしながら、人が身体を、そして世俗的事柄を脱ぎ捨てると、内部人間の内にぼんやりと隠されていた幸福が、解放されて姿を現す。(『天界の秘義』3938)

 天使は、英知の面で絶え間なく完全なものにされている。しかし、天使の英知と主の神的英知の間に比例関係があり得るほど完全になることは、永遠にない。なぜなら、主の神的英知は無限であり、天使の英知は有限だからである。無限と有限の間にはいかなる比例関係もない。(『天界と地獄』273)

 天使は愛に関して、常に同じ状態にいるわけではない。したがって、英知に関しても、常に同じ状態にいるわけではない。天使の英知は愛に由来し、愛に一致しているからである。情熱的な愛の状態にいるときもあれば、情熱的ではない愛の状態にいるときもある。その状態は、最大の強度から最小の強度へと段階的に低減する。最大の愛の中にいるとき、彼らは自らのいのちの光と熱の中に、あるいは聡明さと歓喜の中にいる。しかし最小の愛の中にいるときは、夕闇と寒気の中に、あるいは曖昧さと失意の中にいる。そこからまた、彼らは最初の状態へと戻っていく。このような変化が、多様性をもちながら続いていく。(『天界と地獄』155)

 なぜ天使にそのような状態の変化があるかについては、多くの理由がある。第一に、主の愛と知恵からいただくいのちの喜び、天界の喜びは、もし彼らが常にその中にいるなら、ちょうどわれわれが変化のない楽しみと喜びの中にいるときと同じように、徐々に価値を失ってしまう。もうひとつの理由は、天使には人間と同じように、プロプリウム(固有性)があるからである。これは自己愛を生み出す。天界のすべての人々は、自らのプロプリウムが抑えられている。そして主によって、抑えられるかぎり、彼らは愛と知恵の中にいる。抑えられなければ、それだけ自己愛の中にいる。そして誰もがプロプリウムを愛し、それに引きつけられるがゆえに、継続的に交代する状態の変化をもつことになる。第三に、このようにして彼らは完成されていく。なぜなら、このようにして主の愛のうちに保持されること、自己愛を抑えることに慣れていくからである。そして、そのような喜びと失意という変化によって、彼らの知覚作用、感覚作用はさらに最上のものになっていくからである。(『天界と地獄』158)

 人が内的に神の真理を愛し、それにしたがって生きれば生きるほど、死後の人間的形は美しい。あらゆる人の内部は開かれており、その人の愛といのちにしたがって形成される。情愛がより内的で、天界に適合的であればあるほど、その顔は美しい。(『天界と地獄』459)

 天界の住人は、常に人生の春に向かって進んでいく。何千年と生きれば生きるほど、人生の春は楽しい幸福なものになるし、それは、彼らの愛、思いやりおよび信仰の成長とレベルに応じて、永遠に増えつづける。年を取って亡くなった老婦人も、主を信じ、隣人に慈悲深く、夫との幸福な結婚愛に生きたのであれば、年を重ねるほど、青春の全盛期に、またこの世のあらゆる美の概念を超えた美しさに近づいていく。・・・要するに、天界で年を取ることは若返ることである。(『天界と地獄』414)

 主の御国には、数えきれない多種多様な善と真理がある。しかし、それらから一つの天界ができている。善と真理の種類は非常に多いので、どんな社会も決して類似していない。つまり、どの社会も同じ善と真理の中にあるわけではない。天界の統一性は、多種多様なものが調和するように主が整えられることによってつくりだされている。この多くのものの和合や調和は、すべてが主にかかわりをもつことの結果として、主によってもたらされている。(『天界の秘義』3241)

 天界、天界に行く方法、天界的生活について教えを受けていない人々は、次のように考えている。信仰をもつ人々は慈悲のみによって天界に受け入れられる、彼らのために主がとりなす、こうして恩恵だけで天界に入れられると。彼らは、すべての人が例外なく主の温情によって救われると思っている。さらに、これは地獄の住人についても当てはまると思っている人さえいる。しかしこのような人々は、人間について何も知らない。人の性格は、その人のいのちで決まるし、いのちは愛で決まることを知らない。このことは、意志と知性という深層レベルについてだけでなく、身体という外面についてもあてはまる。身体的形は、人間の内面が実際に姿を現す外部の形にほかならない。その意味は、人間の愛は、その人の全体だということである。(『天界と地獄』521)

 人が天界に行くことを、主は禁止されない。すべての人が、もし望むなら、天界に入り、そこに留まることを許される。天界的本性をもたない人々が、そのように望んで天界に入ることを許された。しかし最初の入り口のところで、天界の熱と光の流入によって心が苦しくなった。その熱は天使たちがその中にいる愛であり、その光は神の真理であった。そのため、彼らは天界の喜びではなく地獄の苦しみを感じた。そしてそのショックで、結局、真っ逆さまに落ちていった。(『天界と地獄』525)

 主の慈悲は、人類全体に向けられた、人類全体の救済を目的とする純粋な慈悲である。それは常に、あらゆる人に向けられており、取り去られることはない。それゆえ、救済可能な人はすべて救われる。しかしながら、みことばにおいて主が啓示された神聖な手段によらなければ、だれも救われない。神聖な手段とは、神の真理と呼ばれるものである。それは、救われるための生き方を人に教える。主は、これらの真理によって、人を天界へと導かれる。そしてこれらによって、人に天界のいのちを植えつけられる。主は、これらをすべての人になされるが、人が悪をやめなければ、天界のいのちが植えつけられることはない。なぜなら、悪が道を妨害するからである。したがって、人が悪を慎むかぎり、主は神聖な慈悲心から神聖な手段によって人を導かれる。それは、幼児期からこの世の人生の終わりまで、そしてその後も永遠に続くのである。これが神聖な慈悲の意味である。したがって、主の慈悲は純粋な慈悲であるが、無条件のものではないとわかる。どんな生き方をしても温情からすべてが救われるということはないのである。(『天界と地獄』522)

 天界の愛は、善く、誠実で、正しいことを、それが善く、誠実で、正しいからという理由で愛することであり、またその愛からそれらを行うことである。この愛をもつ人々は、善く、誠実で、正しいいのちをもっている。それは天界的いのちである。これらをそれ自身の理由で愛し、行い、生きる人々は、何にもまして主を愛する。なぜなら、これらは主に由来するからである。彼らはまた隣人を愛する。なぜなら、これらは愛されるべき隣人だからである。(『天界と地獄』481)

 愛と知恵は、役立ちがなければ何ものでもなく、単なる観念的存在にすぎない。あるいは、それらが役立ちになるまで、それらは実在していない。愛、知恵そして役立ちは、分割しえない三者である。なぜなら、もしそれらが分割されるなら、いずれも何かではないからである。愛は知恵がなければ何かではなく、知恵とひとつになることで何かになるからである。この何かとは役立ちである。それゆえ、愛が知恵によって役立ちの中にあれば、そのときにそれははじめて実在するのである。このように、それらはちょうど目的、原因、結果のようなものである。(『啓示による黙示録解説』875)

 役立ちを行うとは、共通善のために他者の幸福を願うことである。共通善のためではなく、自己のために他者の幸福を願うことは、役立ちを行うことではない。(『天界と地獄』64)

 まさにその喜びは、報酬を目的とすることなく善を行う愛の中にある。そしてその喜び自体が、永遠に続く報酬である。なぜなら、天界と永遠の幸福が、主によってその善の中に注ぎ込まれるからである。(『新エルサレムと天界の教義』156)

 天界の喜びは、すべて役立ちと結びついているし、役立ちの中にある。なぜなら天使は愛と仁愛の中におり、その善き結果が役立ちだからである。したがって、各人の喜びの本質は、その人の役立ちの本質に対応しており、その強さは役立ちへの情愛の強さに対応している。(『天界と地獄』402)

地獄

 人にある悪が、その人の地獄である。というのは、悪と言っても、地獄と言っても同じことだからである。ところで、人は自らの悪の原因であるから、主ではなく、自分自身によって地獄に導かれる。主は決して人を地獄に導かれることはない。人が悪を求めたり、悪の中にいることを愛好したりしなければ、主は人を地獄から救い出される。人の意志と愛は、死後もその人に留まる。この世で悪を求め悪を愛する者は、他生においても、同じ悪を求め愛する。そして、もはやそこから苦労して引き上げられようとは望まない。したがって、悪の中にいる者は地獄に拘束されており、実際、霊的には地獄にいる。そして死後は、自分の悪がある場所にいることを何よりも望む。結局、死後、人は地獄に身を投じる。主が地獄に落とすわけではない。(『天界と地獄』547

 主は地獄の責め苦を許される。なぜなら、悪はそれ以外の方法で抑制され制圧されることができないからである。悪を抑制し制圧する唯一の手段、地獄の一団を拘束しておく唯一の手段は、罰への恐れである。それ以外の手段はない。というのは罰と苦痛の恐怖がなければ、ちょうど法と刑罰のない地上の王国のように、悪は狂気の沙汰に突き進むであろうし、すべてが破壊されるであろう。(『天界と地獄』581)

 地獄の責め苦は、良心の呵責とは違う。地獄にいる者は良心がなく、良心に関して苦しむことがないからである。良心をもっていた人々は、祝福された者の中にいる。(『天界の秘義』965)

 来世では、誰も遺伝悪のために罰せられることはない。というのは、それはその人自身のものではないし、その人の過ちというわけではないからである。人は、自分自身の悪、実際の悪ゆえに罰を受ける。したがって、実際の生活において遺伝悪を使うならば罰せられる。(『天界と地獄』342)

 すべての悪は、自己愛と世間愛から来る。またすべての悪がそこから来るのであるから、すべての誤りも同様である。一方、すべての善は主への愛と隣人愛から来る。またすべての善がそこから来るのであるから、すべての真理もそこから来る。というわけで、人が自己愛と世間愛の中にいればいるほど、隣人愛の中にはいないし、主への愛の中にはなおさらいない。それらは正反対だからである。(『天界の秘義』7488,7489)

 自己愛は、他者からあらゆる喜びを奪い取って、それを自分のものにしようとする。自己愛は、自分がよければそれでよいからである。世間愛は、隣人のものをわがものにしようとする。したがって、これらの愛は他者の喜びにとって破壊的である。(『天界と地獄』399)

 自己愛の中にいる人々の悪とは、一般的に、他者への侮辱、嫉妬、自分を好きにならない者への憎悪、そこから来る敵愾心、いろんな種類の嫌悪、復讐、狡猾さ、欺瞞、無慈悲、残酷さである。宗教的なものに関しては、神、神聖なもの、すなわち教会に属する善と真理への侮辱だけでなく、それらに対する怒りがある。(『天界と地獄』562)

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