教会

Swedenborg Sampler

教会

 人の中に天界をつくるものが、また、教会をつくる。すなわち、愛と信仰によって天界ができるように、愛と信仰によって教会ができるのである。こうして、すでに天界について語られたところから、教会とは何かが明白である。(『新エルサレムと天界の教義』241)

 教会が国民の間にあるということと、教会が国民の中にあるということは別のことである。たとえば、キリスト教会は、聖言をもち教義から主の道を説く人々の間に存在する。しかしながら、彼らが善と真理の結婚の中にいなければ、つまり、もし彼らが隣人への仁愛とこれに根ざす信仰の中にいなければ、こうして教会内部の特徴が、外部の特徴の中になければ、彼らの中にいかなる教会も存在しない。内部から切り離された外部の特徴しかもっていない人々には、教会は存在しない。また、仁愛から切り離された信仰の中にいる人々には、教会は存在しない。教えの中では主を認めつつも、いのちにおいては認めない人々にも、教会は存在しない。この例から明らかなように、教会が国民の間にあるということと、国民の中にあるということは別のことである。(『天界の秘義』4899)

 教義は、それ自体、教会の外部をつくることはないし、ましてや内部をつくることもない。主についていえば、その教えが教会を互いに区別するわけではない。教会を区別するのは、教えに従ったいのちである。その教えが本物であれば、それらはすべて仁愛をその根本においている。人間いかに生きるべきかを教えるものでなければ、教義とはいったい何であろうか。(『天界の秘義』1799)

 キリスト教世界において、教会を区別するものは教義である。教義から、人は自らを、ローマカトリック、ルター派、カルバン派、あるいは改革派、福音主義、等々と称している。教会がそのように呼ばれるのは、教義のちがいだけである。しかし、もし彼らが主への愛と隣人愛を信仰の基礎にすえるなら、そのような状況は存在しなくなるであろう。教義的なことは、信仰の神秘に関する見解の多様性にすぎない。本物のキリスト教徒であれば、それを各人の良心に委ねるであろう。そして、本心では、人がキリスト教徒として生きるとき、つまり主の教えにしたがって生きるとき、その人は本物のキリスト教徒であると言うであろう。もしそうなれば、すべての異なる教会がひとつになるであろう。そして教義だけから生じている不一致は消滅するであろう。実際、人が他の教会に対してもつ敵意も直ちになくなり、地上における主のみ国が来るであろう。(『天界の秘義』1799)

 教会に三つの本質的要素がある。主の神性の承認、聖言の神聖さの承認、仁愛と呼ばれる生活・・・もしこれら三つが教会の本質的要素と考えられていたら、知的な面での食い違いは、ちょうど光が美しい物に当たって様々に色彩が変わるように、また、いろいろな宝石が王冠を美しく飾るように、教会を分断することなく、教会に変化をつけるにすぎなかったであろう。(『神の摂理』259)

 もし、主への愛と隣人愛に全律法はかかっており、また預言書は主への愛と隣人愛について語っており、したがって、これらは全教義と礼拝の本質的要素であると認められるなら、実情はまったく異なる。そうであれば、聖言の中の無数のことがらによって、心が照らされるであろうし、そうでなければ、心は間違った原理の暗がりに隠れてしまうであろう。そのとき、教会の教義や儀式は、大いに異なるかもしれないが、異端説は消滅し、多くの教会の中からひとつの教会が出現するであろう。「古代教会」はそのような性格の教会だった。・・・もし現在がそうであれば、すべては、ひとりの人間としての主によって統治されるであろう。というのは、それらは体を構成する手足や器官のようなものだからである。それらは形も違うし、機能も違うが、すべてがひとつの心臓につながっている。あらゆるものが、それなりの形で心臓に関係しているが、どこにおいても多様である。もしそうであれば、だれもが他者について次のように言うであろう。どんな教義、どんな外的礼拝の中にいようとも、この人は私の兄弟である。この人は主を崇拝しており、善人であるとわかる。(『天界の秘義』2385)

 教会のもつ最大の真理は、主への愛と隣人愛が何よりもまず重要だということである。(マルコ12:29-31)強欲は、この真理を消滅させる。なぜなら、これら二つは正反対であるから、悪い欲望の生活を送る者は、愛と仁愛の生活を送ることができない。(『天界の秘義』4776)

 教会という信仰団体は、自分の中に教会をもっている人々から成る。また教会は、人が再生するときに人の中に入っていく。・・・人生の初期に、教会のために備えること、教会へと導くことがたくさんあるが、悔い改めという行為が動因となって、教会が人の中に入っていく。悔い改めとは、神に対する罪である悪が好まれて、なされることがないようにするすべての行為のことである。(『真のキリスト教』510)

 教会が存在するためには、教会は内部的であるとともに、外部的でなければならない。なぜなら、教会の内部にいる人と、教会の外部にいる人がいるからである。前者は少数で、後者は非常に多数である。・・・教会の内部は、心から善を欲すること、また善に好意をもつことの中にある。そして、その内部の外部は、それをなすことの中に、また人が善から知る信仰の真理にしたがってこれをなすことの中にある。しかし、教会の外部は、教会の教えにしたがって、敬虔な儀式を遂行することに、また仁愛の働きをすることの中にある。(『天界の秘義』6587)

 普遍教会と固有教会

 教会の外にいても、唯一の神を信じ、自らの宗教にしたがって、一種の隣人愛に生きている人々は、教会の人々と霊的に交流している。なぜなら、神を信じ、よい生き方をする人が、見放されることは決してないからである。このことから、主の教会は、とりわけ主が承認され聖言があるところにあるが、それはまた、世界中どこにでもあることがわかる。(『天界の秘義』10763)

 主の教会は、世界全体にあるが、固有の意味では、それは聖言のあるところにある。また、聖言によって主が知られているところにある。・・・全世界の教会は、主の前に一人の人間として現れる。というのは、それは天使的天界をもった一者になるからである。この人間の中で、聖言があり主が知られている教会は、心臓と肺のような存在である。・・・というのは、普遍教会を形成する全地上のすべての人々は、聖言のある教会によって生きているからである。なぜなら、主が愛と光をもってそこから流入するからである。そして彼らがどこにいようとも、真理の霊的情愛の中にいる人々すべてに、いのちを与え、光を注ぐからである。(『黙示録講解』351)

 主の霊的教会は、地球全体に存在することを知るべきである。というのは、その教会は、聖言をもち、聖言によって主を知り、信仰の真理を知っている人々だけに限定されないからである。それはまた、聖言をもたず、それゆえ主について何も知らず、結果的に信仰の真理を何も知らない(というのは、信仰の真理は主に関わるから)人々にも存在する。すなわち、その教会は教会から遠く離れた異教徒にも存在するのである。なぜなら、唯一の神が存在する、その神が万物を創造し維持している、すべての善と真理は神から来る、神に倣って生きる者はさいわいであるということを、理性の光によって知っている者が、異教徒の間に多数いるからである。さらに彼らは、自らの宗教にしたがって、神への愛と隣人愛のうちに生きている。彼らは、善の情愛によって仁愛の働きをし、真理の情愛によって至高の存在を崇める。異教徒の間にあって、主の霊的教会の中にいる人々とは、そのような人たちである。そして、彼らはこの世にいる間、主を知らないが、善の中にいるとき、内部において主を礼拝し、心の内で主を認めているのである。なぜなら、すべての善に主がおられるからである。(『天界の秘義』3263)

新教会

 地球上のどこかに、聖言をもち、聖言によって主が知られている教会がなければ、天界との結合はありえない。なぜなら、主は天地の神だからである。主がおられなければ救いはない。比較的少人数であっても、聖言のある教会が存在すれば十分である。というのは、この教会をとおして、主は全地球のいたるところにおられるからであり、この教会をとおして、天界は人類と結びついているからである。(『聖書についての新エルサレムの教義』104)

 教会の終わりが近づくと、後を継ぐ新しい教会を、主が用意される。なぜなら、聖言が存在し主が知られる教会がなければ、世界は存続できないからである。聖言がなく、したがって主についての知識も是認もなければ、天界は人類に連結できない。したがって、主の神性が、新しいいのちをもって流れ入ることができない。天界との連結がなく、したがって主との連結がなければ、人間は人間ではなく、けだものにすぎないであろう。このように、古い教会が終わりに近づくと、新しい教会がつねに主によって用意される。(『黙示録講解』66)

 天地創造以来、この地上には、だいたい四つの教会が次々に存在してきた。・・・最初の教会は最古代教会と呼ばれ、洪水以前に存在した。この教会の極致あるいは終焉が、洪水によって描かれている。第二の教会は古代教会と呼ばれ、アジアと一部はアフリカに存在した。この教会は偶像崇拝に至り滅んだ。第三の教会はイスラエル教会であり、シナイ山での十戒の公布とともに始まり、モーセと預言者によって書かれた聖言の期間を通じて継続し、聖言の冒涜によって極致に達し終焉を迎えた。この冒涜が充満したのが、主がこの世に来られたときだった。そのため、彼らは聖言である主を十字架に磔にした。第四の教会がキリスト教会であり、主によって、福音史家と使徒の期間に設立された。キリスト教会については、二つの期間があった。一つは主の時代から二ケア公会議までであり、もう一つはその会議から現在(1771年)に至る期間である。(『真のキリスト教』760)

 黙示録(第21、22章)に、次のように預言されている。前教会の終わりに新教会が設立されるであろう。その教会の主要な教義はこうである。位格においても本質においても、神は一者であり、その中に三一性がある。そして主がその神である。この教会が、「新しいエルサレム」によって、意味されていることである。主のみを天地の神と認める者でなければ、だれもその教会に入っていくことはできない。(『神の摂理』263)

 新教会は、これまで地上に存在したあらゆる教会の冠である。地上には、はじまりからこれまでに四つの教会が存在した。・・・すべての教会は、教会の人間が結ばれうる唯一の神についての知識と承認にかかっているが、四つの教会のすべてが、その真理を失ったので、唯一の神を知り承認する一つの教会が、これら四つの教会の後を継ぐことになるであろう。神の聖なる愛には、世界創造の際に、人を神自身に結びつけ、神自身を人に結びつけ、このようにして人とともにあること以外のいかなる目的もなかった。(『真のキリスト教』786)

 新教会の教義は天界から来る。なぜなら、それは聖言の霊的意味から来るからであり、聖言の霊的意味は、天界にある教義と同一だからである。(『新エルサレムと天界の教義』7)

➡神の摂理