聖餐

悔い改める人が主だけに目を向けることができるように、主は聖餐を始められ、悔い改める人に罪の許しを保証された。このサクラメントがその確約を提供する。というのは、聖餐あるいは聖体拝領の間、参加者は主だけに集中するからである。(『神の摂理』122)

洗礼は教会への導入であるが、聖餐は天界への導入である。これら二つのサクラメント、洗礼と聖餐は、あたかも永遠のいのちへの二つの門である。すべてのキリスト教徒は、第一の門である洗礼によって、聖言から引き出される来世の生活についての教会の教えに導き入れられる。これらすべては、人が準備をし、天界へ導かれうるための手段である。第二の門は聖餐である。これによって、準備ができ、主によって導かれうるすべての人が、天界へと導き入れられる。それ以外に万人共通の門はない。(『真のキリスト教』721)

聖餐は、それよって教会と天界すなわち主との結びつきが生まれるように、主によって始められた。したがって、それはもっとも神聖な礼拝である。しかし、それによってどのように結びつきが生まれるかは、聖言の内的意味・霊的意味を知らない人々には理解されない。なぜなら彼らは外部的意味・文字の意味以上には考えないからである。それは聖言の内的意味・霊的意味、「からだ」と「血」、「パン」と「ぶどう酒」によって意味されるもの、そしてまた「食べること」によって意味されるものから知られるのである。霊的意味では、主の「からだ」、「肉」また「パン」は愛の善を表わす。そして主の「血」、「ぶどう酒」は信仰の善を、「食べること」は自分のものにすることであり結びつきである。(『新エルサレムと天界の教義』210-212)

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