スウェーデンボルグとウェスレー

スウェーデンボルグとウェスレー−−アタナシウス信条をめぐって
                                        林 昌子

 18世紀、英国国教会の司祭でメソジスト運動の創始者であったジョン・ウェスレーが、スウェーデンボルグを激しく批判したことが、彼の日記や『アルミニアン誌』等の文献に残されている。私は長年、ウェスレーについて学んできた者であるが、スウェーデンボルグに興味をもつようになったのは、ウェスレー研究を通してというわけではない。今の時代に「死後の命」に関心を持ち、それを考察したいと思うと、どこかで必ずスウェーデンボルグに突き当たってしまうのだ。
 スウェーデンボルグの思想を少しずつ知るにつれ、両者の違いよりも、むしろ共通点の方が際立っているという印象を抱くようになっていった。それだから、『アルミニアン誌』等におけるウェスレーのスウェーデンボルグに対する激しい批判には、違和感を拭い切れない。なぜウェスレーは、彼の高潔さからすると考えられないような悪口をスウェーデンボルグに浴びせたのか。
 そこには、たとえば、ロンドンにおけるフェター・レーン協会でのモラヴィア派の友人ジョン・ポール・ブロックマー(John Paul Brockmer)や、ロンドンのスウェーデン系教会の牧師アーロン・マテシウス(Aaron Mathesius)などによる、スウェーデンボルグに対する妬みや嫌悪に由来する悪口 を鵜呑みにしてしまったウェスレーの浅慮など、いくつかの要素が絡み合っているのであろう。
 モラヴィア派は、ドイツ神秘主義に棹さすプロテスンタントの一派であり、フェター・レーン協会(Fetter Lane Society)は、英国におけるモラヴィア教会の最初の展開であった。フェター・レーン協会とは、ウェスレー1738年から遅くとも1740年まで、そしてスウェーデンボルグは1744−5年および1748−9年に関わりをもった。両者の、当会との関わる時期がずれていることもあり、二人には、当会を通しての直接的な関わりがなかったという方が正解であろう。しかし、かなり近接した時期に、両者が似た宗教的関心を抱いていたとは言えそうである。
 その約30年後の1770−1年、ウェスレーはスウェーデンボルグの『真のキリスト教』に対して賞賛を書き残している。1772年、スウェーデンボルグが死去する直前に、ウェスレーは伝道旅行の直前にスウェーデンボルグからの手紙を受け取るが、とうとう両者が会うことは叶わなかった。
 その後ウェスレーによる、“常軌を逸した”スウェーデンボルグに対する悪口(ここはあえて「批判」とは言わない)が『アルミニアン誌』に掲載されるのは、スウェーデンボルグの死後七年後以降、数回にわたる。実は私には、この間のウェスレーの変化が理解できない。大胆な予測ではあるが、アルミアン誌に掲載されたウェスレーによるという記事が、実はウェスレー自身による記事ではなかったのではないかとさえ思える。その根拠として、他の記事は記名記事が多いのに対して、一連のスウェーデンボルグに対する批判記事には、記名がなされていないのだ。
 スウェーデンボルジャンたちからは、「ウェスレーの焦り」がしばしば指摘される。少数ではあったがメソジストの伝道者や信者たちが、新エルサレム教会を信奉し出したことに対しての、ウェスレーの妬みや焦りのせいではなかったかという。だが、その指摘は的を射ていない。ウェスレーは、クウェーカー教徒はじめ非国教派(separatists)と呼ばれる人々や、国教会とは距離を保ちつつ土着の異教に親近感を抱いているような人々とも交流した。それは、ウェスレーが「世界が私の教区である」(The world is my parish. )と公言して、英国全土、スコットランド、ウェールズ、アイルランドをくまなく伝道旅行で回った中での交流であった。ウェスレーはこのような伝道活動の中で、彼なりの多様性への寛容を育んでいったと思う。そのようなウェスレーが、メソジストの伝道者や信者の離脱を食い止めようとするあまり、碩学スウェーデンボルグの悪口を公にするという像はなかなかに描きにくい。対立にはもっとも本質的な要因、ウェスレーの神学的立場から由来する要因にあったのではないか。
 「メソジスト宗教箇条二五箇条」という教規がある。これは、英国国教会の宗教箇条三九箇条を礎として、ジョン・ウェスレーによって作られた。18世紀後半、アメリカでの急激なメソジスト教徒数の増加に迫られ、ウェスレーがアメリカのメソジストのために書き送ったのであった。1776年アメリカがイギリスから独立した時には、アメリカのメソジスト教徒は1万5千人であった。1784年11月3日、ウェスレーは英国国教会司祭として、すでにアメリカに渡りメソジスト運動を展開していた3人の説教師たちに按手礼を施し、監督教会の設立を許可した。そして同年クリスマスの年会で、『祈祷書』とともに、メソジストが守るべき宗教箇条を書き送ったのであった。
メソジストの二五箇条と国教会の三九箇条を比較すると、ウェスレーが削除や修正した条項にこそ、着目すべき神学的問題点が浮かび上がってくる。中でも、「キリストの冥府下り」「三位一体論」の論点は、スウェーデンボルグとの関係で重要である。

 削除された国教会宗教箇条第八条「三信条について」の内容は、「三信条、すなわちニケヤ信条、アタナシウス信条、およびいわゆる信徒信条は、全面的に受け入れられ、また信ぜられるべきもの(以下略)。」である。これを削除して構わないと判断したウェスレーの意図は何であろうか。
三信条の主要論点は、三位一体、イエス・キリストの神人同一性、聖霊の神性と人性である。ウェスレーの場合、とりわけ使徒信条におけるキリストの冥府下りが問題とされる。これをウェスレーが問題視していたことは、彼が国教会宗教箇条第三条「キリストの冥府下りについて」を完全に削除したことからも明らかである。
 ウェスレーが、地獄の存在を前提とする「キリストの冥府下り」を否定したのは独善ではなかった。2世紀に遡ることのできる「ローマ信条」に、キリストの冥府下りの教理は見られない。イエスの埋葬から復活の間にそれが挿入されたのは、4世紀になってからである。そして周知のとおり、これは16世紀宗教改革以降のプロテスタンティズムによって広く疑問視されてきた教理である。ウェスレーは、この「聖書的でない」教理を容認することができなかった。
 宗教改革者たちは、中世後期のカトリック教会がその権威を高めるために(あるいは金儲けのために)、脅しとして地獄を利用したという教会の腐敗に対して正鵠を射る批判を展開したのであった。この点において、ウェスレーは宗教改革者の路線を引き継いでいる。

 一方、スウェーデンボルグは『アタナシウス信条について』(1759年)において、当信条について独自の見解を述べている。この時までには、彼は『霊界日記』の執筆を始めていたのであり、したがって冥府あるいは地獄は「体験したもの」として当然に存在する。ただし彼の描く地獄が、従来のカトリック教会が展開した世界観とは異なっていることはいうまでもない。
 当信条に対するスウェーデンボルグのアプローチは、一言でいえば、アタナシウスの教義そのものにではなく、主にカトリック教会のアタナシウス信条の理解の仕方への批判である。スウェーデンボルグはアタナシウスに賛成して三位一体論を受け入れる。ただし、教皇主義者(papists)、つまりカトリック教徒とは違ったやり方で、という点では彼の地獄の理解とも共通する。
 この点、当信条を完全に教規から削除しても差し支えないとしたウェスレーは、スウェーデンボルグと比べて相当ラディカルだといえる。ウェスレーが受け入れ難かったのは、(アタナシウス信条に)同意しない者は「疑いもなく永遠に滅びるだろう」という、アタナシウス信条の最後の部分であろう。先行の恵みの教理がその神学にとって大きな柱のひとつであり、カルヴァン主義的な二重予定論に真っ向から対立するウェスレーにとって、このような予定論を彷彿とさせる内容は受け入れられないことは明らかである。
 実はウェスレー自身はアタナシウス信条を、その趣旨に関する限り受け入れている。この点は、スウェーデンボルグの立場と共通するといえるだろう。ウェスレーは、そこに含まれる聖書にない表現、とくに「人格」と「三位一体」について反対したのであり、さらに、「冥府への下り」の条項を取り下げた。
 当たり前であるが、ウェスレーもスウェーデンボルグも、現代の聖書学や、原始や初代キリスト教史の研究成果を知らない。両者の生きた18世紀においては、たとえば新約聖書の「聖霊」(πνεῦμα ἄγιον)について、聖書記者によってその意味するところに違いがあることなどの研究成果は、まだ登場していない。それが明らかになるには、少なくとも19世紀後半から20

世紀にかけての宗教史学派の登場まで待たなければならない。現代の言葉や用語を持たない彼らが、当時どのようなことを志向し、そして何を真実として伝えようとしたのか。それを、私たちが現代の言葉や用語を用いて論究する自由を、ウェスレーやスウェーデンボルグは共に許容し、あるいは奨励するのである。

この記事は、JSA会報第31号(2019)に掲載された林昌子氏論文を転載したものです。