主の教義2

主の教義2

栄化

 主は、いのちの終わりの時、すなわち主の栄化の時に至るまで、段階的、継続的に、単なる人間的なものをご自身から切り離され、脱ぎ捨てていかれた。このように、主は母親から受け継がれたものを脱ぎ捨てられることで、受胎のみならず誕生に関しても、完全に彼女の息子ではなく、神の子となられた。こうして父と一つになられ、エホバ自身になられた。(『天界の秘義』2649)

 主は、きわめて深刻な諸々の試練の戦いをとおして、ご自身の内にあるものをすべて神的秩序のもとに戻されたので、主が母親から受け継がれた人間的なものは一切残らなかった。したがって、主は普通の人間のように生まれ変わるのではなく、完全に神になられたのである。というのは、人間は再生によって新しくされるが、それにもかかわらず、自分の内部に悪への傾向は残るからである。実際、人間に悪は残るが、主の愛といういのちの流入によって、それは抑止される。これはきわめて強力な力によってなされる。しかし主は、母親から受け継がれたすべての悪を完全に脱ぎ捨てられ、ご自身を器についても、すなわち真理ついても、神にされたのである。これが聖言でいう栄化である。(『天界の秘義』3318)

栄化は十字架の受難によって完結した

 結合が十字架の受難によって完結した理由は、それが、主が地上で経験された最後の試練だったからである。そして、結びつきは試練によって可能になるからである。試練において、あたかも人はひとりで置き去りにされているように感じるかもしれないが、決してそうではない。というのは、神はその時、人の最内奥において、人のすぐそばでひそかに彼を支えられるからである。したがって、だれでも試練に勝利する時、人はもっとも深いところで神と結ばれるのである。このケースでは、主がもっとも深いところで神である主の父と結ばれたということである。(『真のキリスト教』126)

栄化において、主は人間的本質を神的なものに変えられたのではなく、人間性を脱ぎ捨て神性を身につけられた

 主には神性と人間性があったことが知られている。父なるエホバからの神性と処女マリアからの人間性である。したがって、主は神であり人間であった。このように、主には神的本質と人間的本性があった。父からの神的本質と母からの人間的本性である。このため、主は神性については父と等しかったが、人間性の点で父に劣っていた。また、アタナシウス信条が教えるように、主が母から受け継いだご自身の人間性を神的本質に転換されたわけではなかった。またそれを神的本質と混合されたわけでもなかった。人間本性は神的本質に転換することも、それと混合することもできないからである。同じ教義によれば、神は人間性をまとわれた。ちょうど魂が身体と一つになるように、主はご自身と人間性を一つにされた。それゆえ両者は二人ではなく一人であった。以上から次のようになる。主は母から受け継いだ人間性ーそれは他の人のそれと同じ物質的なものであったーを脱ぎ捨てられた。そして父からの人間性を身にまとわれた。それは本質において神性と同じであり実質であった。このようにして主の人間性は神的になったのである。(『主の教義』35)

主はマリアを母と認められなかった、主は母から受け継いだ人間性を脱ぎ捨てられたからである

 主は、人間性に関しては、かつても今も、マリアの息子であるとキリスト教世界では信じられているが、これは誤りである。主がマリアの息子であったことは事実である。しかし、現在もそうだというのは間違いである。というのは、贖いの行為によって、主は母からの人間性を脱ぎ捨てられ、父からの人間性を身につけられたからである。ここから、主の人間性は神的であるので、主において神は人間であり、人間は神であるということになる。主が母からの人間性を脱ぎ捨て、父からの人間性を身につけられたこと、そしてそれは神的人間性であることは、主が決してマリアをご自分の母と呼ばれなかった事実に見ることができよう。たとえば次のような一節がある。「母はイエスに言った、『ぶどう酒がなくなってしまいました』。イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なん係わりががありますか。わたしの時は、まだきていません』」(ヨハネ福音書2:3,4)。また別のところでは、十字架から「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをこらんになって、母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』」(19:26)。・・・上記に、次のような新事実をつけ加えよう。私は、一度、主の母親マリアと語ることを許されたことがある。彼女がたまたま通りかかって、私の頭上の天界に現れた。彼女は、白いシルクのような衣で身を包んでいた。彼女はしばし立ち止まって次のように語った。彼女はかつて主の母親であり、主は彼女からお生まれになった。しかし主は、彼女からの人間性をすべて脱ぎ捨てられて神になられた。彼女は、現在では主を神として敬っている。そして、主にあるすべては神的なので、人が主を彼女の息子だということを望んでいないと。(『真のキリスト教』102)

主の生涯は、試練と勝利の連続だった

 主の生涯は、最初期のこども時代からこの世の最後の時に至るまで、試練の連続であり、勝利の連続であった。それは、旧約聖書の多くの箇所に描かれている。また、それが荒野の試練で終わらなかったことは、ルカ福音書の次のようなことばから明らかである。「悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた」(4:13)。また、主は十字架の死に至るまで、すなわちこの世の生涯の最後の時に至るまで、試練を受けられた事実からも明らかである。したがって、主の生涯は、最初期のこども時代から、試練の連続であり、勝利の連続であった。その最後の試練は、十字架上で敵のために、それゆえ世界中のすべての人々のために祈られた時だった。

 主の生涯が描かれた聖言(福音書)においては、その最後の試練を除いて、荒野での試練以外に、試練についてはまったく触れられていない。これ以上は、弟子たちには明かされなかった。明かされたことも、文字上の意味では、ほとんど試練とはいえないほど軽いもののように思われる。というのは、言われたこと、答えられたことは、まったく試練ではないからである。しかし実際は、荒野での主の試練は、人間の心では理解できないほど、また信じられないぼど厳しいものだった。それを経験した者でなければ、試練とは何かだれも知ることができない。マタイ4:1-11、マルコ1:12,13、ルカ4:1-13に記録されている(荒野の)試練は、あらゆる試練を要約した形ですべて含んでいる。すなわち、主は人類全体への愛から、地獄に充満していた自己愛と世間愛に対して戦われたのである。

 あらゆる試練は、人にある愛への攻撃である。そして試練の度合いは、その愛の度合いと同じである。もし愛が攻撃されなければ試練はない。人の愛を破壊することは、まさにその人のいのちを破壊することである。なぜなら、愛はその人のいのちだからである。主のいのちは人類全体への愛であった。実際、それは巨大で、純粋な愛以外の何ものでもないようなものだった。これまで述べてきたように、最初の子供時代からこの世の最後の時に至るまで、この主のいのちに対して、試練は常に向けられ続けたのである。(『天界の秘義』1690)

主は天使からも試された

 主が試練において、天使と、いや天使的天界全体と延々と戦われたという事実は、今日も明かされていない秘密である。その内実はこうである。たしかに天使は最高の知恵と知性をもっているが、それはすべて主の神性から来る。天使には彼ら自身、つまり彼らの固有性(proprium)に由来する知恵や知識はない。したがって、彼らは主の神性に由来する真理と善の中にいる限り、賢明であり知的であるにすぎない。天使たちは、自分自身からの知恵や知性は一切もっていないと公言するし、実際、知恵や知性が彼らのものとされるなら、憤りさえする。なぜなら、それは主の神性を傷つけることになるし、またそれは、自分のものでないものを自分のものにする霊的窃盗の罪を犯すことになると知っているからであり、またそう感じるからである。また彼らは次のように言う。自らのプロプリウムの全体は悪であり偽りである。それらは遺伝から、また人間であった時のこの世の生活から来る。そして悪と偽りが切り離され、拭い去られて義とされることはない。むしろ、それはすべて自らにそのまま残っている。しかしながら、われわれは、主によって、悪と偽りから引き止められ、善と真理の内に留められている。以上のようにすべての天使は告白する。これらのことを知らず、また信じていなければ、だれも天界に入れられない。なぜなら、そうでなければ、彼らは主に由来する知恵と知性の光の中に、すなわち善と真理の中にいることができないからである。ヨブ記15:15に、天界は神の目には清くないと書かれているが、それも以上から理解できるであろう。

 これが実情であったので、主は天界全体を適切な天界的秩序の下に回復されるために、天使たちが主ご自身を試みることも許された。天使たちは、彼ら自身のプロプリウムから行為する限り、善と真理の中にはいなかったのである。これらの試練は、すべての試練中のもっとも深刻なものである。なぜなら、天使たちは目的だけに、気づかれないように巧妙に働きかけるからである。しかし、彼らがプロプリウムから行為しなければ、善と真理から行為するのであり、だれも試みることはできない。さらに、天使は常に主によって完全なものにされ続けているのである。とはいえ、天使の完全性は、その英知と知性が主の神的英知と知性に比べられるようなところにまで達することは決してない。彼らは有限であり、主は無限だからである。また有限と無限は比較にならないからである。(『天界の秘義』4295)

主はすべての罪科をいかに負われたか

 教会では、主は人類のために罪を背負われたということがよく知られている。しかし、罪科を負うによって意味されることは、未だ知られていない。ある人たちは次のように信じている。主は人間の罪を背負われ、十字架の死を宣告されることさえ甘受された。そして、罪に対する非難は主に向けられたので、人間は断罪をまぬがれた。断罪は、主が律法をまっとうされたことで、主によって取り除かれた。なぜなら律法を遵守しない者はすべて断罪されたからであると。しかし、「罪科を背負う」によって、そのようなことが意味されているわけではない。なぜなら、すべての人の行為は死後も変わらないのであり、その行為の性質によって、生か死か判断されるからである。行為の本質は、その人の愛と信仰にかかっている。なぜなら、愛と信仰がその人の行為のいのちだからである。したがって、愛と信仰が別の人に移転されるということはない。これらのことから、「罪科を背負う」は何か他のことを意味していることが明白である。その意味は、罪科が主によって背負われたというところから考える必要がある。主は、人間のために地獄と戦われる時に背負われる。なぜなら人間は自分の力で地獄と戦うことができないからである。ただ主だけが、継続的にすべての人間のためにそうされるのである。ただし、人が神の善と神の真理を受け入れる程度に応じて違いがあるが。

 主がこの世におられた時、主は地獄全体と戦い、それを鎮められた。その結果、正義となられた。そうすることによって、主は、神の善と真理をご自身から受け取る人々を断罪から救われた。もし主がそうされなかったら、だれも救われなかったであろう。なぜなら、主が撃退されない限り、地獄は絶え間なく人々に現れ、彼らに支配力を及ぼしていたからである。そして主は、人間が悪を抑制する限り、地獄を除去される。一度地獄に勝利された主は、永遠に勝利されるし、それを成し遂げるために、主はご自身の人間性を神的なものにされた。したがって、人間のために地獄と戦われた唯一の方、あるいは同じことだが、悪と偽りに戦われた唯一の方、なぜなら悪と偽りは地獄から生じるからであるが、その方が罪を背負われたといわれているのである。なぜなら、主は一人でその重荷を負われたからである。「罪を背負う」が、善によって支配される人々から悪と偽りを取り除くという意味であるのは、それがその結果だからである。(『天界の秘義』9937)

主の試練の効用

 主は、初めから母に由来する人間性をもっておられ、それを継続的に脱いでいかれた。それゆえ、主がこの世におられた間、主には二つの状態があった。ひとつは屈辱(humiliation)または空虚(exinanition)の状態、もうひとつは栄化(glorification)または父と呼ばれる神との結合(unition)の状態である。主が母からの人間性の中におられるかぎり、そしてそのとき、主は屈辱の状態にあった。主が父からの「人間性」の中におられるかぎり、そしてそのとき、主は栄化の状態にあった。屈辱の状態のとき、主は、ご自身とは異なる他者に祈るかのように父に祈られた。しかし栄化の状態のとき、主はご自身と話をするように、父と語られた。後者の状態のとき、主は、父は自分の中におられ、自分は父の中にいる、また父と私はひとつであると語られた。しかしながら屈辱の状態のとき、主は、試練に会い、十字架に苦しまれ、自分を見捨てないように父に祈られた。なぜなら、神は試練に会うことはありえないし、ましてや受難に会うことはないからである。(『主についての新エルサレム教義』35)

 エホバが、主ご自身の中におられたにもかかわらず、主はあたかも自分以外の他者のようにエホバなる父をあがめ、父に祈られたことが、福音書から知られている。しかし、主がそのような経験をされたのは、屈辱の状態にあったときであり、これまで述べてきたように、母に由来する弱い人間性の中におられたときだった。しかし、主がこれを脱ぎ捨てられ、神性を身に着けられるとその状態は違った。それは主の栄化の状態と呼ばれる。最初の状態においては、主はエホバをご自身以外の他者としてあがめられた。しかしながら、すでに述べたように、主の内部はエホバであるから、エホバは主ご自身のなかにおられたのである。次の状態、すなわち栄化の状態においては、主は自分に語るようにエホバに語られた。主はエホバご自身だったからである。

 しかしながら、これは、内部とは何か、内部はいかに外部に作用するか、さらには内部と外部はどう異なり、どう区別され、それにもかかわらずどう共に働いているかがわからなければ、本当のところはわからない。しかし、それはある類似物によって示されるであろう。すなわち人間の内部と、その外部への流入と、そこでの働きによって示されるであろう。・・・人の内部は、人を人間にし、動物から分かつものである。人間が死後も永遠に生きるのは、この内部によってである。そしてこれによって、主は私たちを天使の仲間に上げられるのである。それは、だれもが人間となるためのもっとも重要な第一の形である。そして主が人と結合されるのは、この内部によってである。主にもっとも近いところにある天界は、これらの内部からできている。この天界は最内奥の天使的天界の上にあるので、これらの内部は主ご自身に属している。・・・これら人間の内部は、それ自体がいのちではなく、主のいのちの受け皿にすぎない。人が悪の影響下にある限りは、自分の行いの結果か、遺伝悪の結果かを問わず、人は、主のものであり主が住まわれている内部から切り離されている。というのは、人間の内部はその人と結びついており、切り離せないものであるが、人が主から離れる場合は自分を内部から切り離すからある。しかし、そのような分離は、人間内部からの完全な切断ではない。というのは、もしそうなると、人間は死後もはや生きることができないからである。そうではなく、その下の能力の部分について、つまり合理的人間、外部人間の部分について、内部人間と調和や一致がなくなるということである。・・・

 しかし主の内部は、エホバご自身であった。主はエホバからお生まれになったからである。主は、人間の父親から生まれた息子のように、分割されたりだれかのものになることができない。というのは、人間とちがって神は分割できず、一つであり同一であるからである。この内部に、主はご自分の本質を統合されたのである。さらに、主の内部はエホバであったので、それは人間の内部とちがっていのちを受ける形ではなく、いのちそのものであった。主の人間的本質も同様に、その統合を通して唯一のものになった。したがってしばしば、主はご自身はいのちであると述べられたのである。「父がご自分のうちにいのちをお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちにいのちを持つことをお許しになったからである」(ヨハネ5:26)のように。(『天界の秘義』1999)

主の栄化は人間再生のモデルである

 主の栄化の状態は、ある意味で、人間の再生の状態から理解されるであろう。というのは、人間の再生は、主の栄化のイメージだからである。人が再生するとき、人は新しくされ、完全に別の人になる。したがって、人が再生するとき、生まれ変わり、新しく創造されると言われる。そのとき、人は同じ顔つきで、話し方も同じであるが、心は同じではない。人が再生するとき、彼の心は天界に向かって開かれている。そこには信仰とともに、主への愛と隣人への仁愛がある。それが、彼をもう一人の新しい人間にする心である。状態の変化は、人の身体には感じられず、魂において感じられるものである。身体は人の魂の覆いに過ぎない。そしてそれが脱ぎ捨てられると、その人の魂が現れてくる。そして、その人が再生しているときは、まったく別の姿になる。というのは、そのとき、それは愛と仁愛の姿をもっているのであり、ことばで言い表せないほど美しい。それは、憎悪と無慈悲の姿という、以前の言い表せない醜悪さとはちがっている。・・・このイメージから、主の栄化がいかなるものか、ある程度考えることができるであろう。主は、人間のように再生されたのではなく、神になられた。そして至高の神の愛からそうなられた。というの主は神の愛そのものになられたからである。そのときの主の姿の本質がどのようなものであったか、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、肉の目ではなく霊の目で見ることを許されたときに示された。すなわち、「その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。(『天界の秘義』3212)

主の教義3