聖職

天界における聖職

 この世と同じように、天界にも教会がある。というのは、天界にも聖言があり、教会があり、そこでの説教もあるからである。そこには司祭の、聖職の仕事がある。というのは、天界のすべての天使はかつて人間であったし、彼らのこの世からの旅立ちはいのちの継続にすぎなかったからである。したがって、彼らはこの世で身につけた真理と善の情愛の程度に応じて、愛と知恵において完全な存在になるのである。(『啓示による黙示録解説』533)

この世における聖職

 人間には秩序づけられるべき二領域がある。すなわち、天界的な領域とこの世的な領域である。天界的なものは教会的と呼ばれ、この世的なものは市民的と呼ばれる。この世では、秩序に則ったあらゆる行いと秩序に反するあらゆる行いに目を光らせ、秩序ある行動を取る者に報い、秩序に反する者を罰する統治者がいなければ秩序が維持されない。・・・天界に関わる生活の領域を治める者は聖職者、その仕事は聖職と呼ばれる。・・・聖職者は人々に天界へ至る道を教え導くべきである。聖言に基づく教会の教義にしたがって人々を教え、それにしたがって生きるよう彼らを導くべきである。真理を教え、それによって生活の善に、したがって主に導く聖職者は、良き羊飼いであり、教えるが生活の善に、主に導かない聖職者は悪しき羊飼いである。聖職者は、人の魂に対する力を求めるべきではない。なぜなら、彼には人の内面がどのような状態にあるかわからないからである。いわんや天界を開いたり閉じたりする力を求めるべきではない。その力は主だけにあるからである。聖職者には、彼らが執り行う神聖な仕事ゆえに、敬意と栄誉が払われるべきである。しかし賢明な聖職者は、神聖さの根源である主にその栄誉を返し、自分のものにすることはない。・・・聖職者は、人々を教え、真理によって彼らを生活の善に導くべきであるが、人々を強制してはならない。なぜなら、誰も心から真理だと思うことに反して信じることを強制されることはないからである。(『新エルサレムと天界の教義』311-314)

聖職が表わすもの

 聖職は、救いの働きに関しては主を表象する。(『天界の秘義』9989)すべての王は、誰であろうと、どのような人物であろうと、彼に与えられている王にふさわしい働きによって主を表象する。同様に、すべての聖職者は、誰であろうと、どのような人物であろうと、聖職者の働きによって主を表象する。王の働きそのもの、聖職者の働きそのものは、誰がその職に就こうが神聖である。したがって、悪人によって教えられる聖言も同様に神聖であり、洗礼や聖餐あるいはそのような礼拝も同様に神聖である。ここから、いかなる王も、王の職務に伴う神聖さを自分のものにすることはできないし、いかなる聖職者も聖職に伴う神聖さを自分のものにすることができないことは明らかである。(『天界の秘義』3670)

聖職者への仁愛

 人は永遠のいのちのために生まれ、教会によってそこに導かれるのであるから、教会は隣人としてなおいっそう愛されるべきである。なぜなら、教会は永遠のいのちの道案内をし、永遠のいのちに導入する手段をわれわれに教えるからである。教会は、教えの体系における真理の手段によってわれわれを永遠のいのちに導く。教会は、良い生き方をとおしてわれわれを永遠のいのちに導く。これは、われわれが聖職者を特別に愛さなくてはならないとか、聖職者のために教会を愛すべきだというわけではない。われわれは教会の善と真理を愛すべきであり、この善と真理のために聖職者を愛すべきである。(『真のキリスト教』415)

聖職者はなぜ羊飼い(pastor)と呼ばれるのか

 「養う」は「教える」を意味することは、さらなる説明がなくとも明らかである。なぜなら、教える人々を羊飼い、教えを受ける人々を群れと呼ぶことは、聖言に由来する慣行だからである。しかし、なぜそのように呼ぶかはまだ知られていないので、説明しておこう。天界においては、目の前に現われるものはすべて表象である。というのは、それらは自然的外観の下で、天使が考え、それによって彼らが心を動かされる霊的なものを表わすからである。このように、天使の思考や情愛は、彼らの目の前に、この世にあるようなものの形で、あるいは自然的なものに類似の形で、そしてこれは主が霊的なものと自然的なものの間に存在せしめられた照応に基づいて示されるのである。・・・この照応の結果、羊、子羊、山羊の群れ、緑の牧場や庭園での飼育が天界において現われる。そしてこれらの外観は、教会の善と真理の内にいる人々、そして知的に賢明に考える人々の思考から生まれる。このため、聖言においては、群れ、飼育、牧場、羊飼いにしばしば言及されているのである。(『啓示による黙示録解説』482)

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