神の摂理

Swedenborg Samler

 神の摂理とは、主が神の愛と知恵によって統治されるということである。(『神の摂理』1)

 神の摂理は、それが働くとき、つねに、それ自身から派生する無限かつ永遠なものに注意を払う。とりわけ人類の救済においてはそうである。それ自身において無限かつ永遠なものとは、神性そのものである。すなわち本質における主である。しかし、それ自身から派生する無限かつ永遠なものとは、神から発出するものである。すなわち人間や天使のように、ご自身によって創造された他者の中の主である。この神性は神の摂理と同じである。なぜなら、主は、この派生的神性によって、すべてのものを、それが創造された秩序に保持し整えられるからである。(『神の摂理』55)

 人は、決して自分の知恵によって、自分自身で改心するということがない。主から、主の神の摂理によって改心するのである。したがって、もしどんな瞬間においても、主が人を導かれなければ、人は改心の道からはずれ、滅びることになるであろう。(『神の摂理』202)

 神の摂理は普遍的である。普遍的であるのは、それがどんな小さなことにも存在するからである。したがって、髪の毛一本さえ頭から抜け落ちることはない。つまり、小さすぎて予見されず、準備されないようなことは何もないのである。(『天界の秘義』2694)

 神の摂理は、人の意志の中の愛と共に働くことは決してなく、いつもそれに逆らって働いている。というのは、人は遺伝悪から、常に最低の地獄を望んでいるからである。しかし主は、神の摂理によって、常に人がそこを離れるように導かれ、そこから人を引き出されている。最初はよりましな地獄に、次は地獄の外に、最後は天界におけるご自身に導かれる。この神の摂理の働きは、永続的である。したがって、もしわれわれが、人を引き離し、導くこの働きを、はっきり見たり感じたりできるなら、われわれは怒り、神を敵と見なすであろう。そして、この人間のプロプリウム(固有性)の悪から神を否定するであろう。それゆえ、人にこのことがわからないように、人は自ら自分自身を導いているという以外は何も知らない自由の状態に保持される。(『神の摂理』183)

 神の摂理は、人のこの世の安寧ではなく、人の永遠の救いをその目的にしている。(『天界の秘義』6481)

 神を信頼している人々は、明日のことを気にかけるが、しかしまた、気にかけない。なぜなら、明日のことで心配することはないし、ましてや不安に陥ることはないからである。彼らは、欲するものを手に入れようが、手に入れまいが、平常心でいる。自分のものを失っても嘆き悲しむことはなく、与えられたものに満足している。たとえお金持ちになっても、富に心を置くことはない。栄誉を与えられても、他者より自分に価値があるとは思わない。たとえ貧乏になっても、悲しむことはない。たとえ取り巻く環境がきびしくても、心は打ちひしがれることはない。神を信頼する人々にとって、万事は永遠の幸福に向かって進んでいくこと、ゆくゆく何が降りかかろうとも、なおそこへ至ることを彼らは知っている。(『天界の秘義』8478)

 もし(悪が)許されていなければ、われわれは主に導かれて悪から離れることができない。したがって、改心し、救われることができない。というのは、もし悪が表面化することが許されないなら、われわれは悪を見ることができないし、悪を確認し、悪に抵抗するように導かれることもできない。これが、神の摂理の働きによって、悪が抑圧されない理由である。もし悪が抑圧されるなら、それは内部に留まり、癌や壊疽の病気のように拡がり、生きているもの、人間的なものすべてを破壊するであろう。(『神の摂理』251)

 神が(悪を)許されるというとき、それは神が望まれるというわけではない。救いという目的のために、神はそれを妨げることができないということである。(『神の摂理』234)

 われわれは、理性に従って自由に行為すべきであるというのが、神の摂理の法則である。(『神の摂理』71)

 われわれは、外部人間にある悪を罪とみなして、あたかも自分からそうするように取り除かなくてはならない。このようにして、主は外部人間の悪と同時に、内部人間の悪も取り除かれるのである。それ以外の方法はない。これが神の摂理の法則である。(『神の摂理』100)

 われわれは、外部の力によって、宗教的なことを考え願うように、つまり信じ愛するように強制されてはならない。そうではなく、自分が自分を管理すべきであり、ときには自分自身を強制すべきである。これが神の摂理の法則である。(『神の摂理』129)

 われわれは、主によって、天界から、みことばとみことばの教義と教戒を手段として、導かれ教えられなければならない。そしてこれをあたかも自分自身で行うようにしなければならない。これが神の摂理の法則である。(『神の摂理』154)

 われわれは、神の摂理の働きを何も感じとれないとしても、それを知り認めなくてはならない。これが神の摂理の法則である。(『神の摂理』175)

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