主の教義3

復活

 主の人間性は栄化され、神聖になったので、主は死後三日目に、ご自身の身体をもって蘇られた。それはどんな人間にも起こりえないことである。なぜなら人間は霊についてだけ蘇るのであり、身体は蘇ることはないからである。私たちはそのことを知るべきである。そして、主が身体をもって蘇られたことを誰も疑わないように、主は墓にいた天使を通してそのように語られただけでなく、身体をもった人間の姿で、弟子たちにご自身を現わされ、霊を見ていると思っていた彼らに語られた。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわってみなさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。こう言って、手と足とをお見せになった」。(ルカ24:39,40、ヨハネ20:20)さらに「トマスに言われた。あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。トマスはイエスに答えて言った。わが主よ、わが神よ」。(ヨハネ20:27,28)主は霊ではなく、人間であることをはっきりさせるために、弟子たちに言われた。「ここに何か食物があるか。彼らが焼いた魚の一切れとはちみつをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」。(ルカ24:41~43)主の身体はもはや物質ではなく、神聖な実体であったので、ドアは閉まっていたにもかかわらず、弟子たちのところに入ってこられた。(ヨハネ20:19,26)また、主が見られた後で、姿が見えなくなった。(ルカ24:31)このような状態になると、主はあげられ、神の右手に座られた。なぜなら、ルカに「弟子たちを祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた」(24:51)と言われているからであり、またマルコには、「主は彼らに語り終わってから、天にあげられ、神の右手に座られた」(16:19)と言われているからである。神の右手に座るとは、神の無限の力の獲得を意味する。(『主の教義』35)

贖い(あがない)

 贖いとは、地獄を征服し、天界に秩序をもたらし、それによって新しい教会設立の準備をすることである。(『真のキリスト教』115)

 教会では、主は人類の救い主であり贖い主であることが知られている。しかし、これをいかに解釈するかについては、ほとんど知られていない。外部教会の人々は、主は、この世を、人類をご自身の血によって贖われたと信じている。それによって彼らが理解しているのは十字架の受難である。しかし内部教会の人々は、主の血によって救われるのではなく、信仰の教えに従った生活、主の聖言にもとづく仁愛によって救われることを知っている。最内奥の教会の人々は、主の血は主に由来する神的真理であると理解する。十字架の受難は主の最後の試練であり、それによって主は完全に地獄を征服され、同時にご自身の人間性を栄化された。すなわち神的なものにされた。そしてそれによって、主の聖言の教えである信仰と仁愛の戒律を守る生活によって再生できる人々を贖い、救われたと理解する。天界の天使たちは内的意味に従って聖言を読み取る。主の血は、内的意味においては、主から発する神的真理のことである。

 しかし、もし私たち一人ひとりに天界からの天使と地獄の霊がついているという事実を知らなければ、また、これらの天使や霊がいつもいなければ、人は何かを考えたり意図したりすることはできないのであり、その意味で、人は内面において地獄の霊か天界の天使かいずれかの影響下にあるという事実を知らなければ、地獄の征服と主の人間性の栄化によって、神が人間をいかに救われ贖われたかを知ることはできない。これがすべてわかれば、次のことも理解できるであろう。すなわち、主が完全に地獄を征服され、地獄と天界のすべてを整理されなかったなら、誰も救われなかった。またもし主がご自身の人間性を神的にされなかったら、そして、それによって地獄に対するご自身の神的力を獲得されなかったら、誰も救われなかった。なぜなら、神的力がなければ、地獄も天界も秩序を維持することはできないからである。何かを生じさせる力は、その何かが存在し続けるためには、永続的なものでなければならない。なぜなら存在し続けることは、永続的に生じさせることだからである。

 父と呼ばれる神ご自身は、子と呼ばれる神的人間性なしには、救いの仕事を成し遂げることはできなかったであろう。なぜなら、神ご自身は神的人間性なしには、人間に、あるいは天使にさえ近づくことができないからである。人類は神から完全に離れてしまったからである。もはやどんな信仰も仁愛も存在しなくなったときに、これが起きた。そのときに、主はこの世にこられ、主の人間性を通してすべてを取り戻された。そうすることで、人類は主への信仰と愛を授かり、それを通して、主は人類を救われ贖われた。なぜなら、主はこれらの人々を地獄と永遠の呪いから切り離すことができるからである。しかし授かった信仰と愛を主に返すことを拒否した人は、そうされることがことができない。これらは救いと贖いを拒絶するからである。(『天界の秘義』10152)

主は人間だけでなく天使も贖われた

 主の最初の来臨のとき、地獄は非常に巨大化し、天界と地獄の間にある霊の世界全体を埋め尽くしていた。こうして、地獄はいちばん下の天界を混乱に陥れたばかりでなく、中間の天界さえも攻撃したので、そこはいろいろな形で苦しめられていた。主が守られなければ、中間天界は破壊されていたであろう。そのような地獄の反逆は、シナルの土地に建てられた塔によって示されている。その頂点は天界にまで達したが、この試みはことばの混乱によって妨げられ、建設者たちは追い散らされた。その町はバベルと呼ばれた(創世記11:1-9)。・・・地獄がそのような高さにまで巨大化した理由は、主がこの世に来られたとき、地上全体が偶像崇拝と魔術の横行によって自らを完全に神から引き離していたからである。そしてイスラエルの子孫の間につくられた教会、後の時代のユダヤ人の間につくられた教会は、聖言の歪曲と不純化によって完全に滅んでいた。そしてこれら両グループのすべての人々が、死後、霊の世界に群れを成してやって来、どんどん増えていったので、ついに神ご自身が来られ、その手の力を用いる以外に、彼らを排除することができなかった。これが行われた様子は、1758年ロンドンで出版された小著『最後の審判』に描かれている。これは、主がこの世におられたとき、主によって成し遂げられた。また、同様の審判が、今日、主によって成し遂げられた。というのは上述のとおり、現在は主の再臨のときだからである。再臨については、黙示録のいたるところで、またマタイ24:3,30、マルコ13:26、ルカ21:27、使徒行伝1:11、等々で予告されている。その違いは次のとおりである。主の最初の来臨のときの地獄の拡大は、偶像崇拝、魔術、聖言の歪曲によるものだった。再臨のときの地獄の拡大は、いわゆるキリスト教徒のせいである。彼らのある者は自然崇拝に陥り、他の者は永遠からの三位格という間違った信仰、また十字架の受難を贖いの行為そのものとする間違った信仰によって、聖言を誤謬化したのである。黙示録で龍とその二匹のけものによって意味されているのは、これらの人々のことである(12,13章)。(『真のキリスト教』121)

贖罪の間違った解釈

 教会の人々は、次のことを信じている。主は人類の罪滅ぼしをするために、父によって送られた。そして主は律法の成就と十字架の受難によって、これを成し遂げられた。これによって人類の呪いは取り除かれ、罪は償われた。この贖罪、償い、懐柔がなければ、人類は永遠に滅んだであろう。そして、これは正義にかなったことで、ある人々は応報的正義と呼んでいる。(『主の教義』18)

 今日の正統的神学書にぎっしりと詰め込まれている主題、大学でいちばんしっかり教え込まれている主題、説教壇で大声で説かれている主題は、次のような信仰である。父なる神は、人類に対する怒りで、人類をご自身のもとから追い払われただけでなく、普遍的な永遠の断罪を宣告された。すなわち人類を破門された。しかし神は慈悲深いので、ご自身の怒りを鎮めるために、息子に地上に下って定められた天罰を引き受けるように促され、誘われた。ただこれによってのみ、神は人類を好意的に見ることができたのである。さらにまた、これは子を手段として成し遂げられた。たとえば、主は、人類への断罪をご自身が引き受けられるために、ユダヤ人によって鞭打たれ、顔につばを吐きかけられ、さらに神に呪われた者のように十字架につけられることを甘受された(申命記21:23)。これがなされた後で、父はなだめられ、子への愛から断罪を撤回された。ただし、子がとりなしをされた者に対してのみである。それゆえ、子は永遠に父への仲保者となられた。

 このような考えが、今日、教会内で話され、また教会の壁から、森からのこだまのように鳴り響いて、そこにいる人々すべての耳をとらえている。しかし、聖言によって照らされてまともな議論ができる人ならだれでも、神は恩情そのもの、慈悲そのものであると知っている。神は絶対的愛であり、絶対的善である。これらの属性は、神の本質である。恩情そのもの、絶対的善が、怒って人類を見て、人類すべてを地獄に落としながら、同時に神の属性を維持できるというのは矛盾である。そのような態度や行動は、邪悪な人間の特徴であって、高潔な人物の特徴ではない。それは地獄の霊の特徴であって、天界の天使の特徴ではない。それを神の属性とするのはおぞましいことである。どうしてこのような考えになったか調べてみると、人々が、十字架の受難を贖罪そのものであると理解したところに原因がある。ちょうど一つの誤りから次々と誤りが生まれるように、ここから誤った考えが流れ出しているのである。(『真のキリスト教』132)

Mediatio、Intercessio、Expiatio、Propitiatio の真の意味

 Mediatio(調停)、Intercessio(執り成し)、Expiatio(贖い)、Propitiatio(懐柔)。これらは主の人間性における唯一の神の恩恵を表現する四つのことばである。父なる神には、人間はどんな状況でも近寄ることはできないし、神も人間に近づくことはできない。神は無限であり、エホバであるご自身の存在の中におられるからである。もし神が人間に近づかれたなら、火が森を灰にするように、人間は滅んでしまうであろう。このことは、モーセが神を見たいと望んだ時に、「わたしを見て、なお生きている者はない」と神が答えられたところから明らかである。・・・モーセは、人と人が話すように、エホバと向かい合って話をしたかのように書かれているが、アブラハムとギデオンの場合と同様、それは天使という媒体をとおして行われたのである。父なる神は、元々そのようであったので、喜んで人間の姿を取られたのである。そしてこのようにして、神は人間がご自身に近づくことを許され、人間と会話をされたのである。神の子と呼ばれるのは、この「人間性」であり、また、調停し、執り成し、贖い、なだめる行為をされるのは、この「人間性」なのである。それゆえ、父なる神の「人間性」の属性とされるこれら四つの働きが何を意味するか述べることにしよう。

 Mediatio(調停)は、人が父なる神のもとに来、父なる神が人のもとに来られる時に仲介され、人の教師となり、救いへと導かれるという意味である。これが、父なる神の「人間性」を意味する神の子が、救い主と呼ばれ、地上では救いを意味するイエスと呼ばれる理由である。Intercessio(執り成し)は、絶え間ない調停である。というのは、慈悲、温情、恩恵である愛そのものは、絶えず調停するからである。すなわち主の戒めに従う者、したがって主が愛される者のために、仲介者として行動するからである。Expiatio(贖い)は、もし人が仲介なしに神に近づくなら、誰もが勢いよく落ち込む罪を取り除くことを意味する。Propitiatio(懐柔)は、誰もが罪のために地獄に落ちることがないようにする温情、恩恵の働きであり、聖なるものが冒涜されないように守ることである。これが幕屋におかれた契約の箱の蓋の意味である。

 聖言において、神が見せかけのことばで語られたことは、よく知られている。たとえば、神は怒り、復讐し、そそのかし、罰し、地獄に落とし、呪い、そして悪を行うと言われる。しかし真実はこうである。神は決して怒らず、復讐せず、そそのかすことなく、罰することなく、地獄に落とさず、呪うこともない。そのような行為は、地獄が天界から隔たっているのと同様、神からかけ離れている。(『真のキリスト教』135)

主はどのように律法全体を成就されたか

 主は律法を成就されたと言うとき、今日、多くの人々は次のように信じている。主は十戒の戒律のすべてを成就された、こうして主は正義となられた、そしてこれを信じることをとおして人を義とされたと。しかし、これはそういう意味ではない。主は、モーセ五書と預言書、つまり聖書全体にご自身について書かれていることすべてを成就されたのである。なぜなら聖書は主だけを取り扱っているからである。多くの人々がそう信じていないのは、聖書を隈なく調べ、律法の意味を知る努力をしていないからである。そこでは律法によって、狭義では十戒の十の戒律が意味されているが、広義ではモーセ五書に書かれていることすべてが、そして最広義では聖言のすべてが意味されているのである。(『主の教義』8)

 主が律法のすべてを成就されたとは、聖言のすべてを成就されたということである。それは、主によって聖言が成就された、すべては完成したと言われている次のような一節から明らかである。「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所をだされた、『主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである』。イエスは聖書を巻いて係の者に返し、席につかれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスにそそがれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた(ルカ4:16-21)」。また「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである(ヨハネ5:39)」と書かれている。(『主の教義』11)

天と地のすべての力は主に与えられている

 主ご自身が、「わたしは、天においても地においても、いっさいの力を授けられた」と言われている。(マタイ28:18)・・・天においても地においてもいっさいの力が人の子に授けられたとは、主は地上に来られる以前に、天と地のすべてに対する力をもっておられたということである。なぜなら主は永遠から神でありエホバであられたからである。主はヨハネ福音書の中ではっきりと言われている。「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」。(17:5)また、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしはいる」と言われている。(8:58)なぜなら主は、洪水以前に存在した最古代教会のエホバであり神であり、その教会の人々に出現された。主はまた、洪水後に存在した古代教会のエホバであり神であった。またユダヤ教会のすべての儀式が表したのは主であり、その教会の人々は主を礼拝した。そして天と地におけるあらゆる力が、そのときはじめて主に与えられたかのように与えられたと言われた理由は、人の子によって、主の人間的本質が意味され、それは神的本質に合体したときにエホバとなり、同時に力が主に与えられたからである。主が栄化される以前はそうではなかった。すなわち、主の人間的本質が神的本質と一体化し、いのちそれ自体を獲得し神となりエホバとなられてそうなったのである。そのことを主ご自身がヨハネ福音書で述べておられる。「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになった」と(5:26)。(『天界の秘義』1607)

主は初めから終わりまですべてを統治される

 「わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである」。これは、主がすべてのものを、最初のものから最後のものまで統治され、こうして天界のすべてのものを永遠に統治されるという意味である。これはアルファとオメガの意味から明らかである。それは初めであり終わりである。最初にあるものであり、最後にあるものである。最初のものにも最後のものにもおられる主は、中間にあるものも統治され、こうしてすべてを統治される。これは、主の神的人間性について語られている。なぜなら、それはイエス・キリストについて語られており、その名によって主の神的人間性が意味されているからである。これによって、主は初めのものにも終わりのものにもおられる。しかし、主がすべてのものを初めから終わりまで統治されていることは、未だ人間によって知られていない秘義である。というのは、人間は諸天界が区別される一連の段階について何も知らないからである。また人間の内部が区別される一連の段階について何も知らないからである。また、人間が肉と骨に関して最後のものの中にあるという事実について、ほとんど知らないからである。また、人間は中間的なものが、最初のものから最後のものに至るまでどのように統治されているかについて知らない。しかし、主はこのようにしてすべてのものを統治するために、この世に来られ、最後のものつまり肉と骨を身にまとわれたのである。主は人間性を身にまとわれ、それを栄化、すなわち神的なものにされた。主がそのような人間性を身にまとわれ、そのまま天に昇られたことは、墓にご自身の体を一切残されなかったという事実から、また主が弟子たちに語られたところから明らかである。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。(ルカ24:39)したがって、この人間性によって、主は最後のものの中におられた。そしてこの最後のものさえも神聖にされることによって、初めから終わりまですべてのものを統治する力を身につけられた。もし主がこれをなされなかったなら、地上の人間は滅び永遠の死が待っていたであろう。(『黙示録講解』41)

「神の子」と「人の子」

 主はどのような意味で神の子と呼ばれ、どのような意味で人の子と呼ばれているのかわかる人は、聖書の多くの秘義を知ることができる。というのは、主は特定の主題や状況に応じて、ご自身を子と呼んだり、神の子と呼んだり、人の子と呼んだりされているからである。主の聖性、父との一体性、主の聖なる力、主への信仰、主からのいのちが主題であるときは、ご自身を子あるいは神の子と呼ばれた。(ヨハネ5:17-26など)しかし、主の受難、審判、降臨、また一般に、贖い、救い、改心、再生が扱われているときは、ご自身を人の子と呼ばれた。(『主の教義』22)

主のさまざまな呼称

 聖言のいろいろな箇所で、主は、創造者、製作者、胎からの形成者、救世主と呼ばれている。なぜなら、主は人を新たに創造し、改心させ、再生し、救われるからである。主がそのように呼ばれるのは、主が人を創造し、胎内で形成されるからだと思われるかもしれないが、そこで意味されているのは霊的な創造、形成である。聖言は自然的のみならず霊的でもあるからである。(『黙示録講解』710)

 きわめて深遠な秘義が、聖言の内的意味の中に隠されているが、それはこれまでだれにも知られてこなかった。・・・それは、イエス・キリストという主の二つの御名の内的意味から明らかになる。この御名が呼ばれるとき、だれもが、それは神聖であるとしても、他の人間の名前と同様のふつうの名前だとしか思わない。教育を受けた人なら、たしかに、イエスは救世主を意味し、キリストは聖別された人であることを知っている。それによって彼らは、より内的な観念をいだいている。しかし、これは天界の天使たちが、その名前から読み取っているものと同じではない。彼らはさらに神聖なものを読み取っているのである。すなわち、聖言を読んでいる人がイエスの名を呼ぶと、彼らは神的善を理解し、キリストの名を呼ぶと、神的真理を理解する。そして両方がいっしょに呼ばれるときは、善と真理の、また真理と善の聖なる結婚を読み取るのである。(『天界の秘義』3004)

主について正しい考えをもつことの意味

 教会においてなによりも重要なことは、神を知り、認めることである。なぜなら、その知識と承認がなければ連結はないからである。このように、主を承認しなければ教会にはなにもない。(『新エルサレムと天界の教義』296)

 天界全体にわたって、主以外に天界の神として認められている存在はない。天使たちは、主ご自身が教えられたことを語る。すなわち、主は父とひとつである。父は主の中におられ、主は父のなかにおられる。誰でも主を見た者は、父を見たのである。すべて聖なるものは、主から出てくる。(ヨハネ10:30,38;14:10;16:13-15) 私はこれについてしばしば天使たちと語り合った。彼らの証言は一貫して次のようなものだった。天界においては神を三つに分割することはできない。なぜなら神は一者であり、その一者は主の中におられることを知っているし、認めているからである。彼らはまた次のように言った。三者の神という観念をもって地上から人々がやってくると、彼らは天界に入れてもらえない。それは、彼らの思考が、ある考えと別の考えの間で揺れ動いているからである。そして天界では、「三」を考えて「一」と言うことは許されないのである。実際、天界では、人々は考えたことをそのまま語っている。したがって、そこにはいわば思考の詰まったことば、あるいは聞き取れる思考がある。これは、もし人がこの世で神を三つに分け、それぞれ一つずつ別のイメージを抱いて、これら三者をひとつにまとめることをしないなら、天界に受け入れられることはないということを意味する。天界にはあらゆる思考の通じ合いがある。したがって、もし「三」を考えて「一」を言う人が来たら、すぐに見分けられ、追い払われるのである。(『天界と地獄』2)

主を神と認めると聖言のあらゆる部分が光を放つ

 主は父とひとつである、また主の人間性はご自身の神性によって神的であるということが、教義として受け入れられ承認されるなら、聖言のあらゆる部分が光を放つであろう。というのは、聖言を読むとき、教義として受け入れられ承認されていることは、光の中にあるからである。また、あらゆる光と力の根源である主が、そのような人々を照らされるからである。他方、もし父の神性は主の神性とは別のものであるという教義が仮定され承認されるなら、聖言の中に光るものは何もないであろう。なぜなら、そのような教義を信じる者は、唯一の神から転じて別のものに、見える主の神性から見えない神性に向かうからである。主は言っておられる。「あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない」。(ヨハネ5:37)そしていかなる形でも考えられない神を信じ愛することは不可能である。(『黙示録講解』200)

主の神的人間性の中におられるエホバご自身が唯一の救い主である

 「ヤコブよ、あなたを創造されたエホバはこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られたエホバはいまこう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなった。・・・わたしはあなたの神、エホバである、イスラエルの聖者、あなたの救い主である」。(イザヤ43:1,3)「神はただあなたと共にいまし、このほかに神はなく、ひとりもない。イスラエルの神、救い主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である」。(43:14,15)「エホバ、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍のエホバはこう言われる、わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない」。(44:6)「わたしのみエホバである。わたしのほかに救うものはいない」。(43:11)「わたし、すなわちエホバではなかったか。わたしのほかに神はない。わたしは義なる神、救い主であって、わたしのほかに神はない」。(4:21)・・・これらの箇所から、主の神性(父、ここではエホバ、神)と神的人間性(子、ここではあがない主、救い主、創造者、つまり改良者、再生者)は二人ではなく一人であることが明らかである。なぜなら、エホバ神とイスラエルの聖者は、贖い主であり救い主であると言われているだけでなく、エホバは、贖い主であり救い主であると言われているからである。まさしく「エホバであるわたしは、あなたの救い主である。わたしのほかにはない」とさえ言われている。ここから神性と主の人間性はひとつであり、その人間性は神性であることが明白である。なぜなら贖い主と世界の救い主は、子と呼ばれる神的人間としての主にほかならないからである。実際、贖いと救いは、功績、正義を喚起する主の人間性に特有の要素である。なぜなら、主の人間性こそが、十字架の試練、受難を耐え忍ばれたのであり、その人間性によって贖われ救われたのであるから。(『主の教義』34)

新約聖書の聖言では、なぜエホバではなく、主と呼ばれているのか

 新約聖書の聖言においては、福音書でも黙示録でも、エホバは用いられず、その代わりに主が用いられているが、その隠された理由は以下のとおりである。新約聖書の聖言では、エホバの代わりに主が用いられているという事実は、マルコ福音書に明らかである。「イエスは答えられた、『第一のいましめはこれである。イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」。(12:29-30) 同じことが、モーセでは次のように表現されている。「イスラエルよ聞け。われわれの神、エホバは唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、エホバを愛さなければならない」。(申命記6:4-5)ここで、エホバの代わりに主の名が用いられれていることが明らかである。同様にヨハネにおいて「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。・・・御座のまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。・・・この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。・・・そして、絶え間なくこう叫び続けていた、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神」と書かれている。(黙示録4:2,6,8)イザヤでは「わたしは主が高くあげられたみくらに座しておられるのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。互いに呼び交わして言った。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、ゼバオトなるエホバ」である。(イザヤ6:1,1-3,5,8)ここでは、エホバの代わりに主が、すなわち、ゼバオトなるエホバの代わりに全能者にして主なる神が用いられている。・・・人々がエホバを主と呼んだ隠された理由の中には次のようなことがある。主がこの世におられた時に、主は旧約聖書にたびたび出てくるエホバであると言われたとしても、人々はそれを信じることができず、受け入れなかったであろうということである。さらに次のような理由もある。主は、神的本質を人間的本質に、人間的本質を神的本質に全面的に統合されるまで、人間性に関してはエホバとなっておられなかった。両者が完全にひとつになるのは、十字架という最後の試練の後であった。この理由のゆえに、復活の後、弟子たちは常にイエスを主と呼んだのである。(ヨハネ20:2,13,15,18,20,25;21:7,12,15-17,20、マルコ16:19,20)そして、トマスは「わが主よ、わが神よ」と呼んだのである。(『天界の秘義』2921)

主はなぜ地球にお生まれになったか

 主がほかならぬ地球にお生まれになって人間性をまとわれたのはなぜか、天界から教えられたことだが、その理由はたくさんある。主要な理由は、聖言のためだった。聖言は、地球上では文字に書き留めることができた。それを書き留めて地球全体に広めることができた。そして広まったものを、将来の世代のために保存しておくことができた。こうして、神が人間になられたという真理は、あの世の全員にいたるまでも明らかにされえたのである。主要な理由は、聖言のためだった。というのは、聖言は神の真理そのものだからである。それは、神の存在、天界の存在、地獄の存在、死後のいのちの存在について教えている。とりわけ天界に入って未来永劫幸福に過ごすために、人はいかに生き、信じるべきかを教えている。啓示がなければ、つまり、この地球において聖言がなければ、これらのことはまったく知られなかったであろう。それでも、人は内部人間に関しては決して死ぬことはないように創造されているのである。・・・主によって、天界をとおして与えられたこの地上の聖言は、天界とこの世の連結を生み出す。この目的のために聖言のすべての文字と天界の神聖なものとの間に照応(correspondentia)がある。また、聖言はもっとも深い意味において、主を、天界と地上の主の王国を、主から来る愛と信仰を、主への愛と信仰を、主から受けるいのちを、主にあるいのちを扱っているということを知らなくてはならない。(『天界の秘義』9350-9357)

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