聖書のシンボル 人名編 アダム~洪水

古代の人々は「名前」によってある物事の「本質(性質)」を理解した。・・・(聖書で)「名前」が言及される場合の多くは、実際の名前ではなく、そのものがどのような性質のものであったかを示している。・・・ノア、セム、などの名前をもった人間が実在したのではなく、礼拝がそのように名付けられた(そのような性質をもっていた)。セス、エノシュ・・・などの名前はさまざまな教会を意味している。(天界の秘義)

アダム(Adam)
アダムとその妻は、世界で最初に造られた人類ではなく、最古代の教会(天的な教会)、またその人々、その信仰を表している。それが「ちりから作られた」のは、再生によって人間でないものから(真の)人間にされたことを意味している。(善悪を知る木の実のエピソードについては、植物編の「木」を参照)「人」を意味するヘブル語は「アダム」と「エノシュ」の二種類あり、アダムは天的な教会の人、エノシュは霊的な教会の人を指す。(創世記2章~)

エバ(Eve)
主に対する信仰の生命(最古代教会の)がエバ、また「生けるものすべての母」と呼ばれている。(創世記4-20)

カイン(Cain)
カインとアベルは、教会における2つの本質的なものを表す。それは知恵と愛であり、また信仰と仁慈である。カインは第一子である。最古代教会で最初の供え物、すなわち最初に生まれたものは信仰であるため、カインは知恵、また信仰であり、アベルは仁慈、すなわち隣人への愛を表す。しかし特にカインは、愛から切り離された知恵、仁慈から切り離された信仰を意味している。カインの捧げものは、愛から切り離された信仰の礼拝である。愛から分離した信仰のうちにいる人々の状態が悪に変わったことが「ひどく怒り」「顔を伏せた」によって表されている。エホバがカインの額にした印は、知恵や信仰そのものが地上から失われないよう、区別されたことを指す。(自己の)救いの手段のためにのみ信仰をもち、仁慈の善を否定しこれを殺すものも、カインと呼ばれる。(創世記4-1)

アベル(Abel)
アベルは仁慈、すなわち隣人への愛を表す。そしてアベルの捧げものは、仁慈の伴った礼拝を表す。エホバがアベルの捧げものに目を留められたことは、仁慈の事柄すべて、また仁慈の伴う礼拝が主の目に喜ばしいことを表す。カインがその兄弟アベルを殺したことは、信仰から仁慈を切り離し、信仰が仁慈よりも大事なものとして優先した人々のもとで、そうした信仰が仁慈を消滅させたことを指している。(創世記4-2)

エノク(Enoch)
この名前は「教える」という意味を持つ。カインの表す教会から分かれた異端、あるいは分派はエノクと呼ばれる。イラデ(Irad)、メフヤエル(Mehujael)、メトシャエル(Methusael)、レメク(Lamech)はすべてカインから出た異端(分派)を表す。当時、最古代教会とそれに続く教会に啓示され、認知されていた事柄から教義を作り、何が善であり何が真理であるかを知らせようとした人々がいた。こうした性質を持つ人々は「エノク」と呼ばれた。その教義は当時もはや受け入れられなくなっていたが、後代の人々のために、主によって守られ、保たれた。このことを「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(創世記5-24)は表している。(創世記4-17)

セツ(Seth)
セツは、主によって与えられた、仁慈のある新しい信仰を表している。(創世記4-25)

エノシュ(Enos(h))
エノシュはセツから生まれた。セツが仁慈のある信仰を指し、そこから派正したエノシュは仁慈を信仰の中心とする教会を指す。3番目の教会。エノシュは「人」という意味をもつが、これは「アダム」のように天的な人ではなく、霊的な人である。(創世記5-7)

ケナン(Cainan)
ケナンは4番目の教会であり、「アダム」「セツ」「エノシュ」の3つの教会に比べてやや不完全なものとみなされている。(創世記5-9)

マハラルエル(Mahalaleel)
マハラルエルは5番目の教会。役立ちから来る喜びよりも、真理から得られる楽しみを好んだとされる。(創世記5-12)

エレデ(Jared)
6番目の教会。エレデと呼ばれる教会については何も記述がないが、マハラルエルの次、またエレデからエノクが出たことから、両者の中間の性質が考えられる。(創世記5-15)

メトシェラ(Methuselah)
メトシェラは8番目の教会。メトシェラとレメクは「洪水」の直前に消滅した。(創世記5-21)

レメク(Lamech)
さまざまに派生した教会の最後(9番目)であるレメクには、もはや信仰と呼べるようなものは残っていなかった。これ以降仁慈の善といったものはすべて失われていた。レメクにより、荒廃、すなわち信仰が否定されていることが意味される。(創世記4-23)

ノア(Noah)
10番目の教会であり、「洪水」以後の3つの教会の祖となった教会(古代教会)はノアと呼ばれる。教会は一般に時と共に衰退し、ついには数人の残存者になってしまうが、「洪水」の頃残存していた、最古代教会からの教義を持つ少数の者がノアと呼ばれた。この頃には人の内面は閉じられ、最古代教会のような善の意志は失われたが、合理的な真理と自然的な善を持ち、真理の理解を通して仁慈を与えられることで再生が可能である人々がノアである。(洪水は悪と虚偽の氾濫を表し、それは「再生」の前に来る「試練」である。)(創世記5-29)

セム(Shem)
ノアと呼ばれる教会から3つの教義が派生した。この3つが古代教会と呼ばれる教会を構成している。名前で呼ばれるときは教会の人間を指し、「息子」と呼ばれるときは信仰の真理、すなわち教義を表す。教会には必ず内的な人、すなわち仁慈を中心に置く人々が存在した。古代教会のそうした人々はセムと呼ばれた。セムは内的な礼拝・内的な教会をも表す。(創世記5-32)

ハム(Ham)
古代教会の中で、信仰から仁慈を切り離し、堕落した人々はハムと呼ばれる。また、堕落した教会を表す。ハムと呼ばれる人々は、もはやいかに生きるかを心にとめず、供え物を捧げるという外側だけの礼拝をした。(創世記5-32)

ヤペテ(Japheth)
古代教会には3種類の人々・・・内的な人、堕落した内的な人、外的な人がいた。古代教会の中で、内的な人(内なる人)のことはほとんど考えないが、仁慈の業を行い、教会の儀式に聖なるものを認める人々がおり、こうした人々が「ヤペテ」と呼ばれた。またヤペテは外的な教会を意味する。(創世記5-32)

ゴメル(Gomer)、マゴグ(Magog)、マダイ(Madai)、ヤワン(Javan)、トバル(Tubal)、メシェク(Meshech)、ティラス(Tiras)
内的な礼拝が何であるかを知らず、外的な礼拝をし、主を認め、隣人を愛するならば、主はその礼拝の中におられ、彼らはヤペテの息子と呼ばれる。こうした礼拝をする国々、また彼らが神聖なものとして守った礼拝の儀式(教義といっても同じ)を表している。それらから派生した外的な礼拝を持つ人々がゴメルの息子であり、ヤワンの息子である。ゴメルとヤワンの息子だけが記述されているのは、ゴメルの息子は霊的な事柄に関係しており、ヤワンの息子は天的な事柄に関係しているためである。(創世記10-2)

カナン(Canaan)
ハムの息子たちは堕落した内的な礼拝である「ハム」から派生した教義や礼拝を指す。「ハムの息子達」と呼ばれる国々では堕落した内的な教会があった。真の古代教会には「生贄」というものは知られていなかったが、ハムとカナンと呼ばれる人々の子孫から始まった。これらが許されたのは自分たちの息子や娘を捧げるのを防ぐためだったという。もし主を否定し、自分自身のみを愛するようになると、その礼拝は内的なものから分離された外的なものとなり、それらは「カナンの息子」となる。(創世記10-6)

エラム(Elam)、アシュル(Asshur)、アルパクシャデ(Arphaxad)、ルデ(Lud)、アラム(Aram)
人セムは内的な教会・内的な礼拝を表し、セムの息子達は内的な礼拝から派生したものを指す。(創世記10-22)

*ここに紹介したのは概要です。聖書の個々の部分についての解説および洪水以降の人名については、『天界の秘義』をご覧ください。