洗礼

洗礼

 洗礼は、人が教会に所属するしるしとして、また人は再生されなくてはならないことを記憶するために制度化された。というのは、洗礼の洗いは霊的な洗い、再生に他ならないからである。(『新エルサレムと天界の教義』202)

命じられた洗礼

 洗礼が命じられたことは、ユダヤとエルサレム全土の人々が出かけていったヨルダン川におけるヨハネの洗礼から十分に明らかである。主である救い主ご自身がヨハネによって洗礼を受けられた。さらに、主は弟子たちに、すべての国民に洗礼を施すよう命じられた。たしかにこの制度の確立に何か聖なる目的があったことを、だれでも望むものは知ることができる。それは聖言の霊的意味がこれまで明らかにされてこなかったために、今日に至るまで隠されてきた目的である。しかし今日、この霊的意味が啓示されつつある。なぜなら、キリスト教会は本質において、今はじめて始まりつつあるからである。以前の教会は、本質においても実際においてもキリスト教ではなく、名前だけにすぎなかったからである。(『真のキリスト教』668)

洗礼の第一の役立ち

 洗礼の第一の役立ちは、キリスト教会に導かれ、同時に霊界におけるキリスト教徒の親交に招かれることである。洗礼がキリスト教会への導入であることは以下のことから明白である。①洗礼は割礼の代わりに制度化された。そして割礼がイスラエル教会への所属のしるしであるように、洗礼はキリスト教会への所属のしるしである。・・・②それはキリスト教会に導かれるしるしにすぎないが、それは幼児が洗礼を受けた事実から明らかである。・・・③幼児のみならず、他民族のすべての改宗者が、老いも若きも洗礼を受けた。・・・④ヨハネはヨルダン川でユダヤおよびエルサレムから来るすべての人に洗礼を施した。それがヨルダン川で行われたわけは、この川がカナンの地への入り口であり、カナンの地が教会を表わしていたからである。・・・(『真のキリスト教』677)

洗礼の第二の役立ち

 洗礼の第二の役立ちは、キリスト教徒が、主イエス・キリストを贖い主、救い主と知り、認め、主に従うようにすることである。(『真のキリスト教』681)

洗礼の第三の役立ち

 洗礼の第三の、そして最終の役立ちは、人を再生に導くことである。この役立ちは洗礼が存在する究極の役立ちである。というのは、真のキリスト教徒は、主イエス・キリストが救い主であり、救い主であるがゆえに再生者であることを知り認めるからである。(『真のキリスト教』684)

洗礼そのものが救いの効験をもたらすわけではない

 洗礼が人の救いに何らか役立つとと信じている人は、同時に、教会の真理の内にいて、真理に従った生活をしていなければたいへんな思い違いをしているのである。なぜなら、洗礼は外部的行為であり、内部とは違い、救いに何ら役立たないからである。しかし、外部が内部と結びついているなら、それは救いに役立つ。洗礼の内部とはこうである。聖言の真理と真理にしたがった生活をすることで、悪と誤謬が主によって取り除かれ、人は再生される。マタイ福音書23-26,27で主が教えられているとおりである。(『黙示録講解』475)

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