自由意志
もし自由がなければ、人は改善されない。なぜなら、人はあらゆる種類の悪の中に生まれるのであり、救われるためには、それらは取り除かれなくてはならないからである。自分自身の中に悪を見て、それらを確認し、次には望まず、最後に退けなければ、それらは取り除かれない。そのときに初めて悪は取り除かれるのである。これは、人が悪の中にいるのと同じく善の中にいなければ行われない。なぜなら、悪を見ることができるのは善からだからである。しかし、悪から善を見ることはできない。人は、考えることができる霊的善を、こども時代からの聖言の読書から、また説教から学ぶ。また道徳的、市民的善をこの世の生活から学ぶ。これが、人が自由でなければならない第一の理由である。もう一つの理由は、愛の情愛の結果でなければ、自分のものにはならないからである。・・・一言でいえば、自由の状態で入ってくるものでなければ、人の中にとどまることはないということである。なぜなら、それは愛あるいは意志に属するものではないからである。そして、愛あるいは意志に属するものでなければ、人の霊魂の中にはないからである。人の霊魂にあるものは愛あるいは意志だからである。(『天界と地獄』598)
自由の状態
人の情愛と思考に関して、実情は次のとおりである。人であれ、霊であれ、天使であれ、だれも自分自身から欲し考えることはできない。他者から欲し考える。これらの他者も、自分から欲し考えることはできない。彼らもまた他者から欲し考える。この繰り返し。こうして各人はいのちの始まりから、つまり主から欲し考えるのである。つながっていない者は存在しない。悪と偽りは地獄とつながっている。悪と偽りの中にいる者の意志と思考は地獄から来る。彼らの愛と情愛と喜びも、したがって彼らの自由もそうである。しかし善と真理は天界とつながっている。善と真理の中にいる人々の意志と思考は天界から来る。彼らの愛と情愛と喜びも、したがって彼らの自由もそうである。以上から、ある自由はどこから来て、もう一つの自由はどこから来るかが明らかである。実情がこのとおりであることは、あの世では明らかであるが、この世ではまったく知られていない。(『天界の秘義』2886)
あたかも自分から
人間はいのちの器官であり、神だけがいのちである。そして、太陽が木やそのあらゆる部分に熱を注ぐように、神はご自身のいのちをその器官とそのあらゆる部分に注がれる。神は、人が自分の中にあるいのちをあたかも自分自身のものであるかのように感じることを許される。神は人がこのように感じることを望まれるが、それは、人があたかも自分自身から神の計画の法則(すなわち聖言内の戒律)にしたがって生きるように、また、自ら神の愛を受け入れるにふさわしい心の状態に整えるようにするためである。しかし、神は常にご自身の指を秤の針の上に置かれ制御されている。しかし、強制によって自由意志を乱されることはない。・・・人の自由意志は、自分のうちにあるいのちが自分のものであると感じるところから、そしてつながりが生まれるように、神は人がそのように感じることを許されるところからくるのである。(『天界と地獄』508)
人は自分を強いて善をなすべきであるが、そこに自由がある
人は自ら強いて善をなし、神の命令に従い、真理を語るべきであるが、そこには簡単に説明できない秘密(arcana)がある。・・・自分自身を強制して悪と偽りに抵抗した人々は(彼らは最初は自分自身で、自分の力でこれをなしたと思っていたが、後に照らされて、彼らの努力はどんなささいなことも主から来ることを知った)あの世で悪霊に導かれることはありえず、祝福された人々の間にいる。このように、人は自分を強制して善をなし真理を語るべきであるとわかるであろう。ここに含まれる秘密は、人はこのように主から天界的固有性(proprium)を授けられるということである。この天界的固有性は、人の思考の努力の中で形成される。そしてもし人がこの自己強制による努力を続けないとすれば(これが努力が継続するやり方であるように思われるが)、自己強制をやめることによって努力を続けないのである。(『天界の秘義』1937)
天界的自由と地獄的自由
天界的自由は主から来る自由であり、天界の天使はすべてその中にいる。前述のとおり、これは神への愛と相互愛に属する自由であり、したがって善と真理の情愛に属する自由である。この自由の特質は、この自由の内にあるすべての人が、自分の幸福と喜びを心の底から他者に伝えるという事実、そしてそれを伝えることができるというのが、その人の幸福であり喜びであるという事実に見ることができよう。そして普遍的天界はそのようであるから、一人ひとりが全体の幸福と喜びの中心であり、同時に、全体が各人の幸福と喜びの受け手であるということになる。その伝達そのものは、主による、理解を超えた天界的な形の驚くべき流入によってもたらされる。これは天界的自由の本質を、そしてそれは主だけから来ることを示している。(『天界の秘義』2872)
天界的自由(それは善と真理の情愛から来る)は、地獄的自由(それは悪と偽りの情愛から来る)からいかにかけ離れているかが、次の事実から明らかである。すなわち天界の天使は、悪と偽りから来るような自由を考えるだけで、また同じことだが、自己愛と世俗愛の強欲さから来る自由を考えるだけで、すぐに内部的苦痛に襲われる。一方、悪霊が善と真理の情愛から来る自由を考えるだけで、あるいは同じことだが、相互愛の欲求からくる自由を考えるだけで、彼らは直ちに苦悶する。また注意すべきことだが、一方の自由と他方の自由は正反対なので、自己愛と世俗愛の自由は善霊にとっては地獄であり、他方、主への愛と相互愛の自由は悪霊にとって地獄である。(『天界の秘義』2873)
なぜ主は人を思考ではなく情愛によって導かれるのか?
なぜ主は人を思考ではなく情愛によって導かれるのか、いま語られるであろう。人が情愛を手段として主によって導かれるとき、人は主の神の摂理の全法則にしたがって導かれることができるが、もし思考を手段として導かれるならそうではない。情愛は人に明瞭にならないが、思考は明瞭になる。また情愛は思考を生むが、思考は情愛を生まない。思考が情愛を生むように思えるとしても、それは誤信である。そして情愛が思考を生むとき、それは人に属するすべてを生みだす。なぜなら、これらは人のいのちを形成するからである。さらに、このことはこの世で知られている。もし人を情愛においてつかむなら、彼を拘束し、思いのままに導くことができるし、たった一つの理屈でさえ千の理屈より強力である。しかしもし人を情愛においてつかまないなら、理屈は役に立たない。彼の情愛がそれらの理屈と不協和であれば、それはそれらの理屈を歪めるか、拒否するか、あるいは消し去るかするのである。もし主が人を情愛ではなく思考によって直接導かれようとされるなら、同じようなことが起きるであろう。一方、人が主によって情愛を手段として導かれるときは、人は自分で自由に考え、自由に話し、自分から自由に行動するように思えるのである。(『黙示録講解』1175)