三一性

神の三一性

 これら三者、父、子、聖霊は、唯一の神の三つの本質的要素である。それはちょうど人間における霊魂、身体、活動のようなものである。(『真のキリスト教』166)

 これらの三要素、すなわち霊魂、身体、活動が、救い主である主なる神にあったし、現在もあることは、誰もが認めるところである。反キリストでなければ、だれも主の霊魂が父なるエホバから来たことを否定することはない。なぜなら、旧約、新約聖書のいずれにおいても、主はエホバの子、いと高き神の子、ひとり子と呼ばれているからである。したがって、父の神性は、人間の霊魂同様、主の第一の要素である。ここから、マリアの子は、神聖な霊魂の身体ということになる。なぜなら、母親の胎内で育つものは、霊魂によって宿る身体にすぎないからである。したがって、これが第二の要素である。そして活動が第三の要素となる。なぜなら活動は、霊魂と身体の協働によって生まれるからである。そしてそのように生まれたものには、それを生み出したものと同一の本質がある。人の霊魂、身体、活動が一つであるように、父、子、聖霊という三要素は主において一つである。このことは、父と主は一つである、父は主の中におられ、主は父の中におられるなどの主のことばに明確に示されている。(『真のキリスト教』167)

三一性の正しい観念をもつことの重要性

 これまで三位一体の神(Deus Triunus)について論じてきたので、ここでキリスト教徒にはなじみの主題でありながら、実際には何もわかっていない神の三一性(Divina Trinitas)について論じなければならない。というのは、これが正しい神の観念を獲得する唯一の方法だからである。そして正しい神の観念は、会衆にとって、教会の聖域や祭壇のようなものだからである。あるいは、玉座にすわる国王の冠や笏のようなものだからである。神学の全体系は、錨鎖をつける索のように、まさしくこれにかかっている。もし私を信じるなら、だれもが神について抱いている考えによって、その人の天界での場所は決まるのである。それはいわば、金や銀を調べるための試金石のようなものである。それは、人がもっている善と真理の質を調べるのである。なぜなら、人は神以外のどこからも救いに導く善を手に入れることはできないし、その深層にある善に由来しないような真理を手に入れることもできないからである。(『真のキリスト教』163)

 ・・・さらに、主は父に祈られ、父について語られ、父に話しかけられた。また、主は聖霊をつかわすと言われ、そうされたという事実がある。さらに、使徒たちは書簡の中で、しばしば父と子と聖霊に言及している。これらの資料は、父と子と聖霊からなる神の三一性があることを示している。しかしながら、理性はそれだけでは、これらのことばをいかに理解したらよいのかわからない。それは、本質と名において唯一の神であるような三人の神々がおられるということなのか。それとも、それらは一つのものの異なる特質であって、複数の名をもつ唯一の神の異なる特質や属性を意味するだけなのか。あるいはそれ以外の理解の仕方があるのか。どう考えたらよいのだろうか。唯一の道は、救い主である主なる神に頼って、その導きの下に聖言を読むことである(主は聖言という神なのであるから)。そうすれば、私たちは主によって照らされ、理性によっても認識できるような真理を認めるであろう。もし主に頼らなければ、聖言を千回読んで神の三一性と神の単一性を理解したとしても、得られるのは、ただ、三つの神の位格があり、それらはそれぞれが異なる神であり、結局三人の神がおられるという理解にすぎないであろう。・・・要するに、自分自身の知力で聖言を読もうとすれば(主は天地の神であると認めず、主に頼らず、主だけを崇めることをしなければ、われわれはすべてそうするのである。)、われわれは目隠しで直線上を歩く遊びをしている子どもたちのようなものである。彼らはまっすぐ歩いていると思っているが、少しずつ一方に曲がり始めて、ついには逆方向に進んでしまい、石につまづいて倒れる。(『真のキリスト教』164,165)

 

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