鈴木大拙

鈴木大拙とスウェーデンボルグ

【英国スウェーデンボルグ協会からの依頼】
 明治30年(1897年)3月、27才になった鈴木大拙は、ポール・ケーラス博士の道教書英訳の助手として、 彼の主宰する出版社「オープン・コート」で働くことになり、雑誌の編集、校正や、翻訳等に従事し、シカゴ郊外にあるラサールで過ごすことになった。
 しかし、この地での生活が10年経過した頃、大拙は「いつまでもこうしてはおれぬ。これからの生涯をどう生きるか」と考えるようになり、日本への帰国を決意した。大拙は「どうせならヨーロッパを廻ってから帰りたい」と考え、明治41年(1908年)、まずイギリスに渡った。すると、その宿泊先に「英国スウェーデンボルグ協会」(Swedenborg Society 以降「ソサイエティ」と呼ぶ)からの使者が大拙に会いに来たのである。
 「ソサイエティ」が大拙に会いに来たのは偶然ではない。ケーラス博士の助手をしていた大拙に、『法句経』(ダンマバグ)を英訳してはどうかという話が出た。しかし大拙は、パーリ語(インド=イラン語に属し仏典に用いた言語)は少しはできたが「どうも自分では無理だ」ということで、パーリ語のできる人を捜すことになった。そこで、ウェールズ出身のイギリス人で、当時アメリカにいたアルバート・エドモンドという学者に白羽の矢を立てた。こうして彼の協力でオープン・コート社から『法句経』の英訳が出たのである。こういう縁で、大拙とエドモンド氏は知り合いになり、いろいろ語り合った。実は、このエドモンド氏はスウェーデンボルグ主義者であり、彼から『天界と地獄』の英訳書をもらい、「読んでみろ」と言われ、読んでみると面白いというわけで、大拙はスウェーデンボルグを知ったという。一部の宗教学者の間には、禅と神秘主義という観点から大拙がスウェーデンボルグに着目したのではないかという憶測もあるようだが、そうではないことを大拙自身が語っている。


 大拙がイギリスに渡ることを、おそらくエドモンド氏が「ソサイエティ」に報告したのであろう。「『天界と地獄』を日本語に訳してくれないか。君以外に人はいない」と使者がやってきたのである。大拙はそれを引き受けたが、すぐには作業に取りかからず、予定していたフランスとドイツを旅行してからイギリスに引き返し、取りかかった。
 大拙は「自分はラテン語を知らないので」と言うと、「それなら協会でラテン語の分かる学者(牧師)を相談につける」ということになった。こうして明治41年(1908年)、大拙はラテン語原典とドイツ語訳とフランス語訳を参照しながら、英訳書から日本語に重訳したのである。
 霧の深いロンドンの冬は寒い。その中で「ともかくイギリスにいる間にやれと言うので、正味2か月足らずで(クリスマスから翌年1月にかけて)、朝から晩までこの仕事にかかりきりで、ようやく脱稿した」という。
 そして明治42年(1909年)、翻訳を終えた大拙は足かけ12年ぶりに日本の土を踏むことになったのである。
 大拙は友人の世話で学習院の教授となり、大正10年まで12年間この職にあった。
 そして翌年の明治43年3月、ついに『天界と地獄』の和訳書が出版された。出版費用は「ソサイエティ」が出した。発売元は「有楽社」であり、発行者は「英國倫敦スエデンボルグ協會代表者鈴木貞太郎」となっている。(「貞太郎」は大拙の本名)

【国際スウェーデンボルグ学会への出席】
 『天界と地獄』が刊行された3か月後、7月5日から4日間、ロンドンで「スウェーデンボルグ・ソサイエティ創立100年」を記念する「国際スウェーデンボルグ大会」が開催された。この大会には、後援者にスウェーデン国王を戴き、スウェーデン貴族院の代表を名誉総裁に迎えて、大会議長はエドワード・J・ブラッドフオード氏、その下に46名の副議長が名を連ねた。出席者総数は約400名と言われている。そして、この46名の副議長の中に、ただ一人の東洋人として大拙も入っているのである。大拙は、「『天界と地獄』の日本語版訳者、大会副議長、鈴木大拙貞太郎」として、この大会に招待されたのであった。

【その後の鈴木大拙】
 その後、引き続き「ソサイエティ」から翻訳出版の依頼を受けた大拙は、大正2年に『スヱデンボルグ』という小伝を書き下ろし、翌年には『新エルサレムとその教説』と『神智と神愛』を、さらに翌々年には『神慮論』を、それぞれ「丙午出版社」より翻訳発行した。
 このように、鈴木大拙博士によって、スウェーデンボルグという人物とその主な神学著作が日本に紹介されたのである。こうして見てみると、日本へスウェーデンボルグを紹介するにあたっては、「ソサイエティ」がかなり貢献しているようである。博士による万年筆で端正に書かれた『天界と地獄』の手書き原稿が、今もここに保管されている。

 しかし博士はこれ以降、いかなる理由か、(表面的には)スウェーデンボルグには深入りしておらず「仏教学者」として生涯を過ごしている。だがけっして博士は、スウェーデンボルグを忘れたわけではなかった。83歳の時に友人に送った手紙の中に「私は今でもスエデンボルグに関心を持っている」と書いている。また、晩年の大拙博士の自宅を訪ねたある知り合いのアメリカ人は、「数多くの禅の古写本に加うるに、キリスト教神秘主義の古典の非常にすばらしいコレクションもあった」と報告している。詳細は分からないが、これはスウェーデンボルグの神学著作のことではないだろうか。また、医学博士 渡会浩氏が1961年に翻訳出版した『天界と地獄』の題辞を書いたのは、他ならぬ当時91歳の大拙であったのである。

 晩年の博士は、あの寒いロンドンで『天界と地獄』を翻訳した頃のことを、どのように思い出していたのだろうか。  

*この記事は『JSA会報』13号、14号に山本康彦氏が投稿した「鈴木大拙とスウェーデンボルグ」を編集したものです。  

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