ドストエフスキー

 ドストエフスキーはスウェーデンボルグの著作の愛読者であった。スウェーデンボルグのドストエフスキーの作品への影響について考察した論文を以下に紹介する。

「罪と罰」ロジオン・ラスコーリニコフ
  デーブ・シンプソン

 あらゆる小説中の最高傑作であるドストエフスキーの『罪と罰』について、評論は数多くあるものの、その著者とスウェーデンボルグの著作との関連について触れたものはほとんどない。ドストエフスキーの蔵書カタログ中に、一八六四年のロシア語版『天界と地獄』があるが、それ以外に、証拠がたくさんあるわけではない。したがって、もはや故人となってしまった二人が、このようなきわめて深い文学作品を産み出すために協力したはずだと考えるのは、あまりに大胆すぎる推測であろう。しかし、『罪と罰』を書く際、ドストエフスキーはスウェーデンボルグの『天界と地獄』を手元に置いていたという学者もある。
 ノーベル賞受賞者のミウォシュは「ドストエフスキーとスウェーデンボルグ」で、『罪と罰』はスウェーデンボルグの著作の付帯的な作品であると示唆している。しかし、一般にはそのように考えられていない。とはいえ、これらの二つの著作のテーマ間の類似性はきわめて大きいのであるから、ドストエフスキーの古典小説がスウェーデンボルグの著作の派生的作品としての正当な位置を占めるよう、さらなる研究がなされるべきである。
 多くの点で、『罪と罰』は現代版『天路歴程』である。ただし、それはイデオロギー的にはポスト・キリスト教時代の、霊的真理にはまったく無知の、現代の一世俗的人間の内部の霊的再生の過程にかかわるものである。スウェーデンボルグが示唆するように、この(世俗的人間の)霊的再生は、それ以外の場合よりはるかに大きな困難を伴う。「空虚な政治的イデオロギーや取って代わった宗教的教義の荒廃状態と戦う人間」とは、ドストエフスキーの時代、すなわちポスト・キリスト教の科学技術の時代に特徴的なものであるが、われわれがそのような人間と触れ合う道を探そうとするとき、この最高傑作の霊的重要性が、われわれの関心をひくにちがいない。なぜなら新教会の教義に由来する霊的テーマや心霊状態の描写がここに表れているからである。

 この小説の複雑かつ真剣な諸テーマで示されるのは、内部の心理的霊的状態が、同時並行的に恐ろしい事件に、驚くべき偶然の一致に、そして最後の再結合に外的に顕現するという相応的な迷路である。しかしながら、この作品をスウェーデンボルグの視点を通して解釈するなら、われわれは、スウェーデンボルグが『天界と地獄』で、扱っているテーマを見ることができる。とりわけ精霊界、あるいは死後よみがえった人間の状態との関係で描いている現実を反映し敷衍する相互連関的霊的テーマを見ることができる。
 『罪と罰』において、われわれはロジオン・ラスコーリニコフという人物を知る。(ロシア語のラスコルは分離、分裂を意味する。)最初に彼は、壮大さ、尊大さ、怒りっぽさという考え・気持ちにいやいや追随する人間としてわれわれの前に現れる。それが彼の無意識の内的な霊的本性であり、そして、それが彼の外的ペルソナを構成する。名前が示唆するように、彼は「分れたる家」なのである。そして彼の内面の会話を聞きつつ、われわれは、偉大でありたいという欲求を実現し満たそうとしながら、常に自らの思考と夢につきまとって悩ませる良心の声と戦っている人物を見る。彼は多くの点で、完全になぞの人物であるが、そのことが彼を完全なる人間にしている。もっとも、自分自身は「異常」だと感じているのであるが。
 ラジカルな学生として勤勉に執筆していた時期に、ラスコーリニコフは「罪について」という題目の論文を書いていた。それを彼は出版するつもりだった。この論文の中で、彼はドストエフスキーの時代のロシアに流行していたニヒリズムと物質主義的功利主義の感情と観念を論じた。彼の哲学の基礎は次のような認識に根ざしていた。ある人間、あるいは「超人」は、彼らの非凡な才能ゆえに与えられた道徳的卓越によって、「普通」の人間が従わなくてはならない善悪の倫理的、法的制約を超越する。ラスコーリニコフは、自らをそのような人間、「新しい言葉を発すること」を恐れない人間だと考えた。彼が作り出したその言葉は、疑いなく世界を再定義し、彼に新秩序における適切な場所を与えるのである。しかし、彼がもくろんでいた言葉は、自分自身の神格化であり、本当のロゴス、み言葉、すでに神から発している神人とは敵対する結果となる自己愛の言葉であった。この心に抱かれた「自己愛」は、無意識の魂においては背信の行為であるが、それがまた彼の内的葛藤の源であり、それが意識的行為への動機として姿を現すのである。

この小説全体を通して、サンクトペテルブルクは病的性格を表しているが、それは主人公の心の状態の反映である。異常な蒸し暑さは、ラスコーリニコフの良心の熱を象徴する。悪臭漂う運河は、彼の心を奪い取る誤謬の奔流を表す。崩れ落ちそうな建物やみすぼらしい市民などはすべて、あの世の何かを示す超現実的な属性によって、彼の心の内部の状態を表している。ラスコーリニコフの小さな屋根裏部屋は、お墓として描かれている。
 ラスコーリニコフは顔立ちのよい、有能な若者であるが、貧しさゆえに大学で学ぶことをあきらめざるをえなくなった。彼の境遇を考えると同情したくなるかもしれない。しかし彼の友人のラズミーヒン(ラズムは理性や知性を意味する)とは対照的に、友人によって紹介された仕事を自分より下の仕事だとして拒絶する。そして仕方なく無為に過ごすことを選ぶ。それが彼の心を現実的な事柄に向けさせ腐らせる。一ヶ月の孤独な生活を送った後、ラスコーリニコフは無意識のうちに、自分の心中の永遠の精神世界へと引き込まれ、そこで見つけたものと直面せざるをえなくなる。われわれは、彼が返済不能なほど借金をしている女家主を避けようとして、お墓のような屋根裏を出て階段を急いで下りていくところに遭遇する。一方で、彼はもう一人の人間を殺すという最近取り付かれた考えを頭の中で何度も反芻する。
 ラスコーリニコフは自分の意図にもとづいて行動し、殺人者になると、その直後に自分の犯罪への刑罰は逃れようのないものだと気づく。なぜならそれは彼の内部から出てきたからである。ろうばいと不安の中で彼は叫ぶ。「ああ、もうそろそろ始まったのだろうか。早くも刑罰がやってきたのだろうか?そうだ、やっぱりそうなのだ!」犯罪自体のいまわしさは別として、あるレベルで、彼がやったことは、自分自身の魂における裏切り行為であったことを彼は知っているのである。ここにおいて、ドストエフスキーは、罰は悪から切り離すことができないというスウェーデンボルグの原理をドラマチックに示し活用しているのである。
 それに続いて一連の偶然のできごとがあり、事件が展開していく。しかしこれらの事件は、登場人物や彼ら間の関係がそうであるように、ラスコーリニコフの内面の状態の相応ないし表象なのである。スウェーデンボルグが内部の状態と外部のできごととの相互作用や相応について明確にしたように、「精霊界」の現実はそのようなものである。外的経験として示されるものは、実際、内的経験の反映である。なぜなら、いのちを構成するものが思考や意図であるように、その思考や意図は外部化されうるからである。

 罪を犯した後、ラスコーリニコフは結局、彼のお墓のような部屋で「目覚め」、女家主、彼の召使、ラズミーヒン、ラズミーヒンの友人の医者に取り囲まれていることを知るが、彼らが自分のめんどうをみていたことには気づかない。彼は4日間、つまりラザロがよみがえるまで死んで横たわっていたのと同じ期間、意識を失い、うわごとを言っていた。後に、ラスコーリニコフが告白する必要性を感じるときに、ラザロへの言及が強く表れる。その場面はまた、スウェーデンボルグが死後の人間の第一の状態で復活の期間として描いているものと不思議によく似ている。その期間は、天使たちが霊につきそって霊界に導く。
 この時点で、ラスコーリニコフは、理性的能力と感情的能力を完全に失っているため、因果の物質的世界で意識的に生きることも、いのちを修正することもできない。事実上、彼が自らの悪を動機として殺人を決意し実行したときに、ラスコーリニコフであった人間は死んだのである。彼に残されているのは、その効果を断ち切る霊的機会のみである。いまや、自分の永遠の精神世界に没入しているその男は、スウェーデンボルグが描く「霊の世界」の存在に近いいのちに入ったのである。そこでは、もし可能であれば、自分のいのちを修正する機会が与えられる。ここは以前なら甘受しなかったはずの刑罰が始まる場所である。そのため彼は、自分が意識的に育て、人生の指針となることを許してきた地獄的情愛が、実際に自らを導いているという苦痛に満ちた状態を十二分に味わうことになる。
 小麦と毒麦、羊とヤギ、救われる者と救われない者という単純な二元論によれば、悔い改めない者は罪のゆえに神に忌避される。そのような見方によれば、彼が地獄の永遠の苦しみにふさわしい悔い改めない破滅者であることは明白である。しかし、ドストエフスキーは、スウェーデンボルグの影響を受けて、われわれをそこに導くことはしない。彼の明白な悪行にもかかわらず、ラスコーリニコフは、哀れみから、救済という希望のために罰を受けることを許される。それは単なる応報的非難ではない。この罰は、ラスコーリニコフが経験する地獄という状況においても、哀れみに由来するのである。それは彼の自由を尊重するから慈悲深い。なぜなら、スウェーデンボルグがいうように、「自分は地獄にいる、そこから導き出されたい、と願わないかぎり、主は誰も地獄から引き出されることはない」からである。(『神の摂理』二五一番)

 ラスコーリニコフが犯罪へと導かれていく部分では、彼の怒りっぽい性格と狂気の妄念から、彼は孤立し、他者との接触を断ち切られるが、犯罪の後では、すぐに、彼の生活に積極的に関わろうとする人物が次々に登場して、もし彼が望めば、救いの道が開けていると促す。
 「霊の世界」は外観が内面の現実を反映する場所であるから、それはまた、人あるいは霊が自らのいのちの外観を見ることによって、内面の現実に向き合うことができる場所でもある。最初に、ラスコーリニコフは母親や妹など自分にとって大切な人々を避け、助けを断り、一人になろうとする。新来の霊には天使たちがやって来るが、情愛が違うので去ってほしいと霊が望めば去っていく、とスウェーデンボルグは『天界と地獄』四五○番で述べているが、それを髣髴とさせる。
 最後に、ラスコーリニコフは「ソフィア」に導かれる。彼女が売春を強要されているのは、彼が真理を「冒涜」していることを表す。その名が示すように、「ソフィア」は「英知を求める内的情愛」を意味する。それは真理に命を与えようとする欲求、神的女性性(divine feminine)の本質、ほんとうの贖いに導く情愛である。彼女は従順ですぐにまごつく女性であるが、強い信仰をもっている。この意味で、売春は彼女の家族愛から出てきたものであるから、仁愛の行為なのである。ルカにおける主の言葉を思い起こさせる。「それであなたがたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そしてイエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心していきなさい」。(ルカ七章、四七、五○節)

 ラスコーリニコフは、最終的に、罪を告白する気になるが、その結果を恐れる気持ちを克服できない。彼は、警察が物的証拠(それはほとんどない)のみならず、彼の挙動不審ゆえに彼を疑っていることを知る。救われるためには、彼はまず裁きを認めなければならない。善との関わりで真理を求める情愛がなければならない。そのためには「ソフィア」が必要だと彼は直感的にわかり、彼女のもとへ行く。しかし真実告白の結果に直面すると、ソフィアへの一種の激しい憎悪の念が彼の心をよぎる。それにもかかわらず彼はやりとげる。彼は告白する。彼女の胸から悲痛の叫びがほとばしる。「おお、なんということを!なんということを自分自身にしたの?」絶望の中で、彼女は立ち上り、彼の首をかき抱き、しっかりと彼を抱きしめる。つまるところ、救われるためには何をなすべきかを彼に指し示すのはソフィアなのである。ドストエフスキーは彼女を通して、真に生まれるための道は情愛であることをはっきりと示す。内気で辱められた「ソフィア」は、ラスコーリニコフの真理への冒涜的情愛を表わすが、それは今や真理のことばと一つになろうとする燃えるような情愛になる。仰々しいスーパーマンの「新しいことば」ではなく、真の正義に不可欠の裁きを承認する真理のことばであり、それに伴う再生である。ラスコーリニコフは警察署に向かうが、近づくと迷いが生じる。しかし、遠くから見守っているソフィアを見て決意を新たにする。彼は「十字路」で大地に口づけし告白する。刑罰ゆえに彼は天界への道を見いだしていた。ドストエフスキーは結論づける。「しかし、それは新しい物語の始まりである。人間のゆるやかな更正、段階的再生、ひとつの世界からもうひとつの世界への移行、新しい知られざるいのちの開始の物語である。それは新しい物語の主題かもしれない。しかしわれわれの現在の物語はここで終わる」。                      

 『罪と罰』は、スウェーデンボルグの『天界と地獄』に描かれた霊界の実例から取られた個人の再生の物語である。それを通して、ドストエフスキーは正義と審判とが争い、ぶつかり、再結合するという原理を示している。ここで正義と審判は、再生が生じるために不可欠となる意思と理解を表わす。ラスコーリニコフによって表わされる「分離」「分裂」の問題は、それが来世で避けえない問題であるかぎり、この世では無視することも否定することもできない。「霊たちの世界」から取られた装置を用いることによって、われわれはドストエフスキーの小説の中に、もし可能なら自分の人生を修正する機会をすべての人に与えようという主の意図とはげましを見ることができる。
                                          (大賀睦夫訳)

 本稿は、カナダの新教会がインターネットで公開しているInformation Swedenborg, 2008.April から著者の承諾を得て翻訳、掲載しています。

森有礼と新井奥𨗉