悔い改め

悔い改め、改心、再生

悔い改め

 救われたい人は、自分の罪を告白し、悔い改めの行いをしなければならない。(『天界の秘義』8387)

 罪を告白するとは、悪を認識することであり、自分の内に悪を見ることであり、それを認めることであり、そのために自分に罪があることを認め、自分を責めることである。それが神の前になされるとき、これは罪の告白である。(『天界の秘義』8388)

 悔い改めの行いとは、このように罪の告白を行い、謙虚な気持ちで罪の許しを哀願した後、罪をひかえて信仰の命じるところにしたがって新しい生活を送ることである。(『天界の秘義』8389)

 ただ一般的に自分は罪人であると認め、あらゆる悪の責めを負うべきであると考えながら、自分自身を吟味しない、つまり自分の罪を見ない人は、告白するが、それは悔い改めの告白ではない。なぜなら、そのような人はその後も以前と同じように生活するからである。(『天界の秘義』8390)

再生前の人の本性

 人の固有性(proprium)はすべて悪であり偽りである。それは自己愛と世俗愛から出てくる。また主と聖言ではなく自己を信じるところから、そして感覚と知識によって理解されないものは無価値であると考えるところから出てくる。このようにして人はただの悪と偽りになり、すべてを歪めて眺める。悪であるものを善と見て、善であるものを悪と見る。偽りであるものを真理と見て、真理であるものを偽りと見る。実在するものを無と思い、無を実在のすべてであると思う。憎しみを愛と、闇を光と、死をいのちと、逆に呼ぶ。聖言においては、そのような人は「足が不自由」とか「盲目」と呼ばれる。人の固有性とはそのようであり、それ自体、地獄的であり忌まわしい。(『天界の秘義』210)

人の悪への傾向

 すべての人が主によって悪をなさないよう引き止められていること、そして信じられないほど強い力でそうされていることを、一部の人を除いて、ほとんどの人が知らない。なぜなら、すべての人の企て(conatus)は常に悪へと向かっており、これは生まれによる遺伝的なものと、自分自身がなしたことによって獲得したものの両方から来るからである。そしてその程度がはなはだしいために、もし主が引き止められないなら、人は常に最低の地獄に向かって真っ逆さまに落ちていくのである。しかし主の哀れみはたいへん大きいので、あらゆる瞬間にどんな些細な瞬間であっても、そこに落ちないように、人を持ち上げられ、引き止められる。これは善人についても当てはまるが、その人の仁愛と信仰のいのちに応じて違いがある。このように、主は常に人と戦われる。また人のために地獄と戦われる。人にはそのようには見えないのであるが。(『天界の秘義』2406)

なぜ人は無知の中に生まれるのか

 人が知識をもたずに生まれてくる理由は、両親から受け継ぐ遺伝悪のためである。この悪により、人の全能力は善と真理に関するかぎり、逆方向に曲げられる。したがって、善と真理が、主からの天的・霊的なものの直接的流入によって対応する形に転換されることが不可能である。これが、人の合理性がまったく異なる形で、すなわち感覚を通して入ってくる知識と認識作用によって、したがって外部の道によって、逆の秩序によって形成されなくてはならない理由である。人はこのように、主によって、驚くべきやり方で合理的にされる。(『天界の秘義』1902)

改心と再生

 人が自然的人間から霊的人間になるには、入り通過すべき二つの状態がある。最初の状態は改心(reformatio)、第二の状態は再生(regeneratio)と呼ばれる。人は第一の状態において、自らの自然性から霊的なものを眺め、霊的でありたいと願う。第二の状態において、人は霊的自然的になる。第一の状態は、信仰の一部となるであろう真理によってもたらされる。そしてこれを通して、人は仁愛に目を向ける。第二の状態は、仁愛の善を通してもたらされる。そして人はここから信仰の真理に入っていく。(『真のキリスト教』571)

改心のしるし

 それゆえ人が悪に赴くとき(若いときにはたいていの人がそうなるのであるが)、犯した間違いを振り返って何か不安を感じるなら、それにもかかわらず、それはまだ天使を通して天界からの流入を受けるであろうというしるしであり、後にその人が改心を経験するというしるしである。しかしもし犯した悪行を振り返ったときに何の不安も感じないなら、それはもはや天使を通して天界からくる流入を望まないというしるしであり、後に改心を経験することはないというしるしである。(『天界の秘義』5470)

再生のプロセス

 霊的人間の再生について、実情はこうである。人は最初に信仰の真理の中で教えられる。そのとき、人は主によって真理の情愛の中に保持される。同時に、隣人への仁愛である信仰の善が人に注がれる。しかし、それは人がほとんど気づかないようなやり方で行われる。なぜなら、それは真理の情愛の中に隠されているからである。これは、信仰の真理が仁愛の善と一つになるという目的ためである。時が経つにつれて、信仰の真理の情愛が増加する。そしてその目的のために、すなわち善のために、あるいは同じことだが、いのちのために、真理が注目される。その情愛はますます大きくなる。こうして真理が善に入り込み、これが起きるときに、人は注がれた真理に応じたいのちの善を吸収する。そして人は善から行為する、あるいは行為するように自分には思われる。このときより以前は、信仰の真理が第一であったが、その後はいのちの善が第一になる。(『天界の秘義』2979)

自然的誕生と霊的誕生の照応

 人の霊魂は母親の卵子に始まり、その後その胎内で完成し、そこで柔らかい体で包まれるが、これは、そのようにして霊魂が、それを用いて、生まれ出る世界に適したやり方で行動できるためであることはよく知られている。人が再び生まれるときも、すなわち再生するときも、実情は同じである。人がそのときに受ける新しい霊魂は、善の目的である。それは、最初は卵子の中におけるように、合理性の中で始まる。その後は胎内におけるように完成する。霊魂が包まれる柔らかい体は自然的なものであり、そこにある善である。そしてそれは霊魂の目的に忠実にふるまうようになる。そこにある真理は、体の繊維のようなものである。なぜなら真理は善から形成されるからである。このように、人の改心のイメージが、胎内における人の形成によって示されていることが明らかである。(『天界の秘義』3570)

再生の間、主は天使によって人を治められる

 人が再生される間、それは大人になって可能になるのであるが(というのは、それ以前は信仰の真理について自ら考えないからである)、人は天使を通して主によって管理される。天使は、人がそうだと確信した真理を人に保持させることによって、そしてそれらの真理を通して、真理が結びつけられた情愛を保持させることによって人を管理する。そしてその情愛(真理への情愛)は、善にその起源があるので、人は一歩一歩善に向かって導かれる。(『天界の秘義』5893)

再生は残果(reliquiae)によってもたらされる

 人はすべて、その内部で生きているものから「生きている霊魂」と呼ばれる。もし人が、内部に生きている何かをもっていなければ、すなわち何らか無垢、仁愛、慈悲、あるいはそのようなもの、それらと同等のものをもっていなければ、人はおそらく生きていけないし、いわんや人間として生きていくことはできない。この無垢、仁愛、慈悲を、人は幼児・子供期に主から受け取るが、そのことは幼児・子供期の状態から明らかである。そのときに人が受け取るものは、人の内部に保存される。そして保存されたものは、聖言においては、残果(reliquiae)と呼ばれている。それは人の中にあって主のみに属するものである。これらの保存された残果が、大人になったときに、人が人間になることを可能にするのである。(『天界の秘義』1050)

再生は瞬時にもたらされることはない

 人が生まれるとき、遺伝悪に関しては、人は最小の形の地獄である。そして遺伝悪を受け取り、さらに自分自身の悪を付け加えていく限り、人は一個の地獄になる。したがって、生まれと実際の生活から、人のいのちの秩序は天界のそれとは正反対のものになる。というのは、人はプロプリウムから、主より自分を愛し、天界よりこの世を愛するからである。天界的いのちは、なによりも主を愛し、隣人を自分自身のように愛することであるが。ここから前者のいのち、すなわち地獄のいのちは、新しいいのち、すなわち天界のいのちが植え付けられるためには、完全に滅ぼされなければならない(すなわち悪と偽りが除去されなければならない)ことが明らかである。これが瞬時になされることはありえない。なぜなら、偽りと一つになったあらゆる根深い悪は、他のすべての悪や偽りと相互に結びついているからである。また、そのような悪や偽りは数え切れないし、その関係は非常に複雑なので、天使でさえ理解できず、ただ主だけが理解されているにすぎないからである。ここから、人の地獄のいのちが瞬時に滅ぼされることはありえないことが明白である。もしそれが瞬時に破壊されるなら、人も瞬時に破壊されるであろう。また、天界のいのちも瞬時に植え付けられることはありえない。もしそうであれば、同じく人は滅んでしまうであろう。(『天界の秘義』9336)

自然界のすべてが再生を表す

 再生は、この世のいろいろなものによって表されている。たとえば、春になると地上のあらゆるものが花開く。さらに成長して、果実を生み出す。同様に、あらゆる木、灌木、花が、温暖な最初の月から最後の月まで成長する。再生の過程は、また、あらゆる果実がその最初の萌芽から熟した果実になるまでの成長に表される。それはまた、朝晩の雨、露によって表される。それが降ると花は開き、夜暗くなると花は閉じる。それは庭園や田園の芳香によって、また雲の中の虹によって表される。それはまた、日の出の燦然たる色彩によって表される。再生はまた、乳糜、動物精気、血液など身体のすべての不断の更新によって一般的に表される。血液は、常に使い古された成分が清められ、更新され、ある意味再生されるのである。地上の最下等の生き物を見ても、カイコや多くの青虫が、ニンフや蝶になり、その他の虫がやがて羽で美しく飾られる奇跡的な変態の中に、再生過程のイメージを見ることができる。さらに些細な事例をつけ加えることができよう。鳴き鳥たちは、身を清めるためにしぶきを上げて水に飛び込む。そしてその後、また自分の歌に戻る。要するに、全世界はあらゆる存在のレベルで、再生の表象と原型にあふれている。(『真のキリスト教』687)

再生は試練の戦いによってもたらされる

 再生について知らない人々は、試練なしに人が再生することが可能だと思っている。またある人たちは、一つの試練を経験すると人は再生されると思っている。しかし、試練なしにはだれも再生しないし、多くの試練が次々に続くことを知らなくてはならない。その理由は、再生は古いいのちがが死に、新しい天界的いのちが注ぎ込まれるという目的のために起きることだからである。ここから人は、疑問の余地なく戦いが不可避であることを理解するであろう。なぜなら、古い人のいのちは抵抗し、抹殺されないようにするし、新しいいのちは古いいのちが死滅しない限り入っていくことはできないからである。ここから双方の間で戦いが生じるし、それが激しいものになることが明らかである。それはいのちをめぐる戦いだからである。(『天界の秘義』8403)

試練は悪霊によって引き起こされる

 今日のキリスト教世界では、試練がどこから始まるか知っている人はほとんどいない。試練にあう人は、それは人の内部に入ってくる悪による苦痛であり、それはまず人を不安にさせ、心配させ、ついには苦しめるのだとしか思っていない。しかし、それは人についている悪霊によって引き起こされるのである。彼らはそれをまったく知らない。なぜ知らないかと言えば、人はこの世に生きている間、霊と一緒にいることを信じないからであり、自分とともに霊がいることをほとんど信じないからである。しかし、人は内部に関しては、絶えず霊や天使と交流しているのである。試練についていえば、それは人が再生の行為の中にいるときに起きる。なぜなら試練を経なければだれも再生されないからである。そして試練は、その人についている悪霊によって引き起こされる。というのは、そのとき人は現在いる悪の状態、すなわち自分自身のいのちの状態に入れられるからである。そして人がこの状態になると、悪霊あるいは地獄の霊たちがその人を取り囲む。そして彼が天使によって内的に守られていることを感じ取ると、彼らはその人が考えた偽りや行った悪を呼び起こす。しかし天使たちは内部から人を擁護する。人が試練と感じるのは、この戦いである。しかし、それは非常にぼんやりしているなので、不安感以上のものに感じない。というのは人は、とりわけ流入をまったく信じない人は、完全な暗い状態にあり、悪霊と天使が戦っている事柄の細部についてもほとんど認識していないからである。しかし、そのようなとき、その人と彼の永遠の救いをめぐって戦いが起きているのである。双方とも、その人から戦う。なぜなら、双方とも人にあるものを用いて、それをめぐって戦うからである。(『天界の秘義』5036)

悪は再生によって根絶されるわけではない。

 再生する人にある悪は、実際の悪であれ、遺伝悪であれ、消えてなくなるように根絶されるわけではない。それはただ分離され、主の配剤によって周辺に放逐されるにすぎない。したがって、それは人に留まるし、しかも永遠に留まる。しかし、主によって制止され、善の中に保持される。これが起きると、あたかも悪は取り除かれ、人は悪から清められたかのように、言うところの義とされたように思われる。天界のすべての天使は、自らについて次のように告白する。何かが自分自身から来るかぎり、それは完全に悪であり、したがって偽りにほかならない。しかし、それが主から来るものであるかぎり、それは善であり、したがって真理である。(『天界の秘義』4564)

再生した人と再生していない人の違い

 再生した人には、善と真理についての良心がある。そして良心から善を行い、良心から真理を考える。人が行う善は仁愛の善であり、人が考える真理は信仰の真理である。再生していない人には良心がない。たとえあるとしても、それは仁愛から善を行う良心ではないし、信仰から真理を考える良心ではない。それは自分自身のための愛、世俗のための愛から来るもので、それゆえ見せかけのあるいは偽りの良心である。再生した人の場合、良心にしたがって行うとき喜びがあり、良心に反して行ったり考えたりさせられるとき不安があるが、再生していない人の場合はそうではない。なぜなら、そのような人たちの多くが、良心とは何か知らないし、ましてや、良心にしたがってあるいは反して行うことが何か知らないし、知っているのは自分の愛に都合のよいことを行うことだけだからである。このとき彼らには喜びがあり、自分の愛に反して行うときには不安がある。(『天界の秘義』977)

天界的固有性(proprium)とは何か

 天界的固有性について言えば、それは主から与えられる新しい意志によって生まれる。そしてそれは人の固有性と次の点で異なる。それをもつ人々は、すべての行為において、もはや自分自身だけを顧慮することがない。また知りあるいは伝えることすべてにおいて、自分自身を顧慮することがない。そうではなく、そのとき隣人を、公衆を、教会を、主の王国を、したがって主ご自身を顧慮する。そのとき変化するのはいのちの目的である。なぜなら、より低次のもの、すなわち世俗と自己に向かう目的が取り除かれ、より高次のものに向かう目的が取って代わるからである。いのちの目的は、人の現実のいのちそのものにほかならない。目的は人の意志そのものであり、愛そのものだからである。なぜなら人は愛するものを望み、目的としてもつからである。目的はまた、人にある現実の愛である。なぜなら、人が愛するものは人の意志が欲するものであり、目的をつくるものだからである。天界的固有性を与えられる人は、また、静穏と平和の状態を享受する。なぜなら、彼は主を信頼し、いかなる悪も彼に触れることはないと信じているからである。またどんな悪い欲望も彼を害することはできないと知っているからである。それ以上に、天界的固有性を受ける人は、真の自由を享受する。なぜなら、主に導かれることは、善の領域内で、善から善へと導かれるので、自由が生まれるからである。ここから、彼らが至福と喜びを享受することが明らかである。なぜなら、彼らを悩ませるものは存在しないからである。いかなる自己愛もなく、したがって憎しみも、敵意も、復讐心もなく、世俗愛もまったくなく、したがって惑わされることも、恐れも、不安も一切ない。(『天界の秘義』5660)

教会は再生について知らない

 今日の教会人は、再生について知っていることは何もないといえるほど無知である。彼らは、それが再生される人の人生全体をとおして続く過程であり、来世においても継続するということさえ知らない。彼らはまた、再生のアルカナは非常に数が多いので、その万分の一も天使は知ることができないこと、あるいは天使が知っているのは自らの知性と知恵を構成するものだということも知らない。教会に属している人々は、今日、再生についてほとんど知らないが、それは彼らが罪の許しについて、また義認について多く語っているからであり、また罪は即座に許されうると信じているからである。ある者は、罪とは水を使って体から洗い流す汚れのようなものだと信じている。そして人は信仰のみによって、あるいは瞬時の信頼によって義とされると信じている。教会内の人々がそのように信じているのは、彼らが罪とは何か、悪とは何か知らないからである。もし彼らがそのような知識をもっているなら、だれの罪もどんな手段によっても洗い流されることはないし、ただ主が人の内部の善を保持されるときに、それらが現れてこないように分離され、脇に退けられるだけだとわかるであろう。(『天界の秘義』5398)

良い生き方をするのは難しくない

 天界に導く生活は霊的生活といわれるが、そのような生活をするのは難しいと信じている人たちがいる。というのは、彼らは、人は世を捨て、体と肉の欲望を排除し、霊的に生きなくてはならないと聞いているからである。彼らは、これは世俗の利害とりわけ富と名誉を拒絶すること、神、救い、永遠のいのちについて真剣に瞑想しつつ歩むこと、祈りや聖言・宗教的著作の読書に人生を捧げることだと理解している。これが世を捨てることであり、肉のためではなく霊のために生きることであると彼らは思っている。しかし、天使たちとの多くの経験と会話からわかったことだが、事実はまったく違うのである。実際、世を捨て、このように霊のために生活する人々は、自分のために悲しみに沈んだ人生を生きるが、それは天界の喜びを受け入れない人生である。なぜなら人生は死後も私たちに留まるからである。そうではなく、もし天界的人生を受け入れたいのであれば、ぜひともこの世で生きて、その仕事や問題に関わらなくてはならない。このように、私たちは、道徳的、市民的生活を手段として霊的生活を受け入れるのである。(『天界と地獄』528)

人のいのちと行為は明示された目的によって決まる

 人の考えや行為は数えられないほど変化するが、それが何であれ、もし明示された目的が善であれば、それらはすべて善である。しかし、もし目的が悪であれば、すべては悪である。明示された目的は、人が考え行うことすべてを統制する。人についている天使は、主の天使であるから、人の目的以外のものは一切統制しない。天使が人の目的を統制する際、彼らは人の思考と行為も管理する。それらすべては目的によって決まるからである。人の目的はまさに彼のいのちである。(『天界の秘義』1317)

帰属(imputatio)