スウェーデンボルグ小伝

Emanuel Swedenborg

スウェーデンボルグ小伝

 1688年1月29日、エマヌエル・スウェーデンボルグは、スウェーデンのストックホルムに聖職者の次男として生まれた。「スウェーデンボルグ」という名前は、彼が31歳のとき、貴族になったことで、改姓されたもので、それまでは「スヴェードベリ」であった。幼少期のスウェーデンボルグについては、ほとんど記録がないが、スウェーデンボルグ自身が後年、次のようなことを記録している。

スウェーデンボルグの家(サマーハウス)

私は(幼少期のころ)朝タの祈りのときに、その深い瞑想を助けるために自分の息を止めることを面白半分にやっていた…。またそのような呼吸がなければ、真理の集中的な思索は可能ではない。
【1748年(60歳)10月4日】(『霊界日記』3464番)

 この呼吸法は、現代ではよく知られているヨーガの基本的な技法の一つであろう。この技法で得られた集中カは彼の学問の研究にはもちろんのこと、後年における霊界への誘導にも役立つたようである。

 さて、11歳でウプサラ大学に入学したスウェーデンボルグは、ここで哲学、数学、天文学を学んだ。そして大学卒業後―22歳から約5年間―ヨーロッパ各地で一流の科学者たちと接し、自らの学問を築上げていった。
 28歳のときに帰国した彼は、当時のスウェーデン国王カルル12世により鉱山局の監督官に任命され、59歳までその職にあって、スウェーデンの鉱業の発展に力を尽くすかたわら、科学と哲学の研究を続けた。

スウェーデンボルグの飛行機(自筆スケッチ)

 この間、スウェーデンボルグは48歳のころから「脳の働きはどのように肉体に及ぼされ、人間全体を活動させているのか」といった問題に関心を持ち、活動の主体と考えられる"霊魂"を探求するために解剖学や生理学を学びはじめている。スウェーデンボルグはその研究のために鉱山局から2年の休暇をとり、ヨーロッパ各地をまわり研究に専念した。

 それらの研究を経て、1743年(55歳)、人体の器官や組織の全てを体系的に取り扱う『霊魂の王国』―彼の構想では17巻に達する大著であった―を刊行するために、出版設備の整っているオランダへ向かった。
 このとき、スウェーデンボルグは(いつもそうしていたように)旅行日記を書いていた。ところがその内容は突然、自分の見はじめた不思議な夢の記録に変わった。この中でスウェーデンボルグはイエス・キリストを何度か幻視し、これを機にこれまでの研究を方向転換するのである。

 まず、スウェーデンボルグは物理的な研究では"霊魂"を見つけることはできないことを悟り、『霊魂の王国』の第3巻まで刊行した後、これらの研究を放棄した。彼は残りの人生を聖書の内的意義を明らかにする神学著作の執筆に捧げることを決意し、聖書の徹底的な研究を開始する。そして、幼少期にやっていた「自分の息を故意に止める」技術を駆使することにより、やがて死後の世界―すなわち霊界―へ自由に出入りできるようになっていった。

 こうして3年以上に渡る聖書の研究と霊界での体験を経たスウェーデンボルグは、1749年(61歳)から1756年(68歳)にかけて、旧約聖書の「創世記」と「出エジプト記」の釈義書である『天界の秘義』(全8巻)を匿名で出版した。
 スウェーデンボルグはこの中で、神とは不可分な力としての無限者だとし、神の本性と位格(ペルソナ)における絶対的統一を主張し、キリスト教の伝統的な三位一体説を批判した。また、全ての事物は神の愛と知恵によって創造されたため、物質的な存在は霊界の現実に対応しているという原理をもとに、聖書の新しい解釈を行なった。

  スウェーデンボルグの紋章


 『天界の秘義』を完成させた翌年の1757年、スウェーデンボルグは霊界において"大事件"を目撃する。そのころのキリスト教は、「聖人」と呼ばれる人を作って崇拝させたり、神の名のもとに善や真理を弾圧するなど大きく衰退していた。そして、その虚偽は許容しがたいものになったとして起きたのがこの"大事件"であり、これこそが「最後の審判」だったとスウェーデンボルグは言う。
 スウェーデンボルグによれば、「最後の審判」はこの世ではなく、霊界における出来事であり、約1年間で成就した。

 翌年の1758年(70歳)の夏、スウェーデンボルグは『天界と地獄』『宇宙の諸天体』『最後の審判』『新エルサレムと天界の教義』『黙示録の白馬』の5冊を出版するためロンドンへ向かった。これらは『天界の秘義』を基本に、新たに「最後の審判」という霊界での体験を加えて書かれた著作であり、やはり匿名で出版された。

 ロンドンでの出版を果たしたスウェーデンボルグは、その帰国途中、スウェ―デンの西海岸にあるイェーテボリにおいて、ある商人の家の夕食に招待された。その食事中、彼は突然席を立ち上がり、夕食に招かれた客たちに「今、ストックホルムで大火事が起こっている」と告げ周囲を驚かせた。後日、ストックホルムからその火事のニュースが伝えられた。それは彼が述べたことの細部に至るまで一致していたのである。この出来事は、多くの見聞者がいたということもあり、噂はたちまちヨーロッパ全土まで広まった。そして何人かの者は、『天界の秘義』などの並でない本の著者はスウェーデンボルグではないか、と気づきはじめていた。そして、スウェーデンボルグ自身も人々のそうした質問に対し、否定しないで事実を認め、霊界への出入りをしていることも明らかにしていった。

 翌年の1760年(72歳)、スウェーデンボルグは通貨問題に関する建白書を国会に提出した(可決)。彼は,スウェーデンの財政問題についても意見を述べ、政治家としても活躍したのである。

 1763年(75歳)、スウェーデンボルグは再び神学著作の出版活動を開始する。まず、その年に『主の教理』『聖書の教理』『生命の教理』『信仰の教理』『続・最後の審判』『神の愛と知恵』を、翌年には『神の摂理』を刊行した。1766年(78歳)には、草稿のまま残されていた『黙示録講解』をコンパクトにまとめた『啓示された黙示録』を、1768年(80歳)には『結婚愛』を、1769年(81歳)には『新しい教会の教義の簡潔な解説』と『霊魂と肉体との交流』を、それぞれ出版した。

 83歳のスウェーデンボルグ 

1年後、スウェーデンボルグはそれまでの主要な神学著作を総括した最後の大作、『真のキリスト教』の草稿を持ってアムステルダムへ向かった。そして1年後に出版を果たしたスウェーデンボルグは祖国スウェーデンには帰国せず、青年時代を過ごしたロンドンに向かい、残された時間をここで過ごした。そして自ら予告していた日に84歳で他界した。生涯独身であった。

 ➡「スウェーデンボルグとその時代」