人間について

Swedenborg Sampler

人間のいのちと霊魂

 魂は人間の形(forma humana)であり、そこから何ものも除去できないし、何ものも付加されえない。そしてそれは人間全体のすべての形の中の最内部の形である。・・・一言でいうと、魂は人間そのものである。なぜならそれは最内部の人間だからである。したがってその形は、まったく完全に人間の形である。それはいのちではないが、神からのいのちをもっとも近くで受ける器であり、したがって神の住まわれる場所である。(『結婚愛』315)

 私は多くの経験から、唯一のいのちがあること、それは主のいのちであり、それが流入して人間を生かすこと、実際それは善人も悪人も共に生かしていることを教えられた。実質である形はこのいのちに照応する。そして継続的な神の流入によって、生気を与えられるので、それらの形は自分自身で生きているように見える。この照応(correspondentia)は、いのちの器官といのちそのものとの照応である。しかし受容器官の性質が、それらがもついのちのありようを決める。愛と慈善の中にいる人々は照応の中にいる。というのはいのちそのものが彼らによって素直に受容されているからである。しかし愛と慈善の反対物の中にいる人々は照応の中にいない。なぜならいのちそのものが素直に受容されていないからである。そのようにいのちは彼らの性質に応じて存在するのである。このことは太陽光が流れ入る自然の形によって描写できよう。容器の形に応じて入る光は変形する。(『天界の秘義』3484)

 神のいのちは善良で崇高な人間だけでなく、邪悪で不遜な人間にも、また天界の天使にも、地獄の霊にも最大限に存在する。神は最高の領域におられるが、違いは、邪悪な人間が、神が心の低い領域に入ってこないように道をふさぎドアを閉じるのに対し、善人は道を用意しドアを開けて、神を心の低い領域に招き入れるところにある。このようにして善人は、愛と慈善の流入のための意思の状態、知恵と信仰の流入のための知性の状態をつくり、結果として神を受け入れるのである。(『真のキリスト教』366)

 ものごとを正しく考える人はだれでも身体は考えないとわかる。というのはそれは物質だからである。むしろ考えるのは魂である。なぜならそれは霊的であるからである。人間の魂(anima)はその人の霊(spiritus)である。というのはこれはあらゆる点で不死だからである。・・・身体に現れる理性的ないのちは、すべて魂に属し身体に属するものではない。というのは身体は物質であり、身体に固有の物質は霊に付加され、いわば接合されるのである。それは人間の霊が自然世界で生活し役立ちをなしうるようにするためである。自然世界のものごとは、それ自体物質的でいのちを欠いている。(『天界と地獄』432)

 身体にあっていのちがあり、そのいのちから行い感じるすべては、霊のみに属し、身体に属するものではない。したがって霊は人間そのものである。いいかえると、人間は本質的には霊であり、まったく同じ形を有している。というのは、人間の中にあって生き感じているものはすべて霊に属するからであり、頭上から足先まで、人間の中にあるものすべてが生き感じているからである。したがって、身体が霊から離れるとき、それは死と呼ばれるが、そのときも人間は人間であり生きている。(『天界と地獄』433)

意志(voluntas)と知性(intellectus)

 人間は自らのいのちを形づくる二つの能力をもっている。ひとつは「意志」、もうひとつは「知性」と呼ばれる。これらは相互に異なるが、ひとつになるように創られている。そしてそれらがひとつになるとき「心」と呼ばれる。それゆえに、これらが人間の心を構成し、いのちのすべてがそこにある。(『新エルサレムと天界の教義』28)

 愚かな人々は、人間はその外面的形から人間であると考える。・・・話すことができるから・・・考えることができるからなど。しかし人間はこれらのことから人間であるわけではなく、真理を考え、善を意志することができるから、そして真理を考え、善を意志するときは神を見上げることができ、知覚力によってそれを受け入れることができるから、だから人間なのである。(『天界の秘義』5302)

 意志こそ人間を形成する。そして思考は、それが意志から出てくる限りにおいて人間を形成する。行為や働きはその両者から出てくる。同じことであるが、愛が人間を形成する。そして信仰は、それが愛から出てくる限りにおいて人間を形成する。行為や働きはその両者から出てくる。したがって、意志あるいは愛が人間そのものである。・・・このことから愛から切り離された信仰は、信仰ではなく単なる知識にすぎず、その中に霊的いのちは存在しない。同様に愛のない行為や働きは、いのちのない死んだ行為あるいは働きにすぎない。悪への愛と誤謬への信仰に由来する見せかけのいのちがあるにすぎない。(『天界と地獄』474)

 思考に入り込む悪は人間に危害を加えない。というのは悪は地獄の霊によって絶え間なく注ぎ込まれ、天使によって絶え間なく排除されているからである。しかし悪が意志に入り込むと、それは危害を加える。というのはそのとき、外的拘束力によって抑えられないかぎり、悪は行為へと進んでしまうからである。悪は思考の中に保持され、是認されると意志に入り込む。しかし悪はとりわけ行為とそれに伴う喜びによって入り込む。(『天界の秘義』6204)

 人間は多くを知り、考え、理解するかもしれない。しかしひとりになって考えるとき、自分の愛と合わないものは自分で退ける。それゆえ人間は、身体のいのちが終わって、霊になったときもそれらを退けるのである。なぜなら自分の愛の中に入ったものだけが霊の中にとどまるからである。(『新エルサレムと天界の教義』113)

 真理は善がなくては人間の内部にあるとはいえない。それは単に記憶の中に記憶知(scientificum)としてあるだけである。それがいのちの一部とならない限り、それは人間の内部に入って人間形成をすることはない。そして人間が真理を愛し、愛からその真理にしたがって生きるときに、それはいのちの一部となる。そしてこれが起きるとき、主が彼とともにおられる。(『天界の秘義』10153)

 人間が再生されうるように、人間は知性から考え、同時に意志から考えないことができるように定められている。というのは人間は知性に属する真理によって再生されるからである。意志については、人間はあらゆる悪の中に生まれており、自分自身以外の誰にも善を望まないからである。・・・これが正され改善されるように、人間は真理を理解できるようにされており、これによって意志から生まれる悪の情愛を抑制できるようにされているのである。(『天界と地獄』424)

善と真理

 全世界のすべては、神の秩序に従い、善と真理に関わる。天界にも現世にも、これら二つに関わらないものはない。そのわけは、善と真理は神から来るからである。すべては神に由来する。(『新エルサレムと天界の教義』11)

 全世界のすべてが、神の秩序に従って善と真理に関わるように、人間にあるすべてが意志と知性に関わる。というのは人間の善は彼の意志に属し、真理は彼の知性に属するからである。というのはこれら二つの能力、あるいはこれら二つの人間のいのちは、人間の容器であり主体だからである。意志は善に属するすべての容器であり主体である。知性は真理に属するすべての容器であり主体である。(『新エルサレムと天界の教義』29)

 善と真理は結ばれていて、分れてはいけないということ、したがって、それらはひとつであり、二つであってはならないということは神の秩序にかなっている。というのは、それらは結合して神から出てくるのであり、天界において結合しているのであり、それゆえに教会においても結合しているべきだからである。(『新エルサレムと天界の教義』13)

 善と真理の結合は結婚のイメージである。・・・善は真理を愛し、他方、真理は善を愛する。一方は他方と連結されることを欲する。そのような愛や願望をもたない教会人は、天界的結婚の中におらず、結果的に教会はまだ彼の中に存在しない。なぜなら善と真理の結合が教会をつくるからである。(『新エルサレムと天界の教義』15)

 善と真理の関係は、その反対の悪と誤謬でもまったく似通っている。すなわち全世界のすべてのものは、神の秩序に従って善と真理に関わるが、神の秩序に反するすべてのものは悪と誤謬に関わっている。善は真理に連結されることを愛し、真理は善と連結されることを愛するように、悪は誤謬に連結されることを愛し、誤謬は悪に連結されることを愛する。また、すべての知性や知恵は善と真理の連結から生まれるように、すべての狂気や愚行は悪と誤謬の結合から生まれる。悪と誤謬の結合は地獄の結婚と呼ばれる。(『新エルサレムと天界の教義』17)

人間における善と真理

 人間が主から受けるあらゆる善は、真理をとおして彼に与えられる。というのは人間は絶対的な無知の中に生まれるからである。そして成長しはじめるとき、自分からは霊的なことに関しては完全な暗闇のなかにいる。というのは彼は神について、主について、天界と地獄について、あるいは死後のいのちについて何も知らないからである。彼が自分から知っていることは、すべて現世と自分自身に関わる。彼はこの世で自分の利益になるものを善と呼び、それを確認するものを真理と呼ぶ。それゆえに彼が天界的な善をもつためには、そしてそれを自分自身やこの世以上に愛するためには、聖言からあるいは聖言に由来する教会の教えから真理を学ぶ必要がある。これらの真理を知るまで、彼はそれらを愛することができない。というのは知らないものを愛することはできないからである。このように、真理は人間が善を獲得する手段なのである。人間にある真理は、彼がそれを愛するとき善になる。なぜならすべて愛されるものは善だからである。愛することは意図することであり、行うことである。というのは人間は愛することを意図し為すものだからである。このようにして真理は善になる。(『天界の秘義』10661)

 真の知性や英知は、善と真理を理解し認めることであり、したがって誤謬と悪を理解し認めることであり、両者をはっきり区別することである。・・・まちがった知性や英知は神を認めない。というのは神を認めない人々は、神のかわりに自然を認め、すべてを身体の感覚から考えており、単に感覚的であるにすぎないからである。どんなに博学で学識があるといっても、彼らは現世の中にいると考えられる。(『天界と地獄』351,353)

 善を欲しない人々にあっては真理は滅びる。・・・善と結合した真理には、その中に常に善をなそうとする欲求がある。同時に、善をなすことによっていっそう善と結びつこうとする。あるいは同じことであるが、真理の中にある人々は、善をなそうとし、それによって善を自らの真理に結びつけようとする。(『天界の秘義』9207)

 確信をもった生き方で悪の中にいる者、したがって誤謬の中にいる者は、善と真理が何であるかを知らない。というのは、彼は自分自身の悪は善であり、自分の誤謬は真理であると信じているからである。しかし確信をもった生き方で善の中に、したがって真理の中にいる者はだれでも、何が悪で何が誤謬であるかを知るであろう。(『新エルサレムと天界の教義』19)

信仰

 真理を知ることと真理に同意することとは異なる。そして真理を信じることは、さらに別のことである。真理を知ることは再生の第一段階、同意は第二段階、それを信じることは第三段階である。知識、同意、信仰をもつことの違いは、最悪の人間は知っても同意しない、・・・誠実な人間以外だれも信仰をもつことはないというところから明白である。(『天界の秘義』896)

 信仰は、人が真理に従って生きることによって形成される。なぜなら霊的生活は、真理に従った生活であり、また真理は、行為に移されるまでは、実際には生きていないからである。行為と分離した真理は、単なる思考物であり、それが意志に属するものにならなければ、それは人の入り口にあるにすぎず、人の内部に入っていない。なぜなら意志がその人自身であり、思考は自らに意志を接合するかぎりで、量的にも質的にも、人であるから。真理を学んで実践しない人は、畑に種をまいてすきこまない人のようなものである。結果的に種は雨でふくれ、だめになってしまう。しかし真理を学んで実践する人は、種をまいてそれを覆う人のようなものである。種は雨で成長し、作物に育ち、食料として役立つものとなる。主は言われる。もしこれらのことを知り、もしそれを行うならば、あなた方は幸いである。ヨハネ福音書13-17(『真のキリスト教』347)

 現在、信仰ということばで理解されているのは、教会によって教えられているから、そしてはっきりと理解できないからそうであるという観念にほかならない。というのは、「信じなさい、疑ってはならない」と言われるからである。そして「私はこれが理解できない」という返答が来ると、まさにその理由のゆえに信じなくてはならないと言われる。したがって現在の信仰は、分からないことへの信仰であり、盲目の信仰と言えよう。・・・本当の信仰は、それが真理であるからそうだという是認にほかならない。(『信仰についての教義』1&2)

 信仰は天界の愛から来るのでなければ人にとどまることはない。・・・身体的、この世的な愛の中にあって、天界的あるいは霊的な愛の中にいない人には、まったく信仰がないし、信仰をもつことは不可能である。彼らには知識あるいはあることが真理であるという信念があるにすぎない。なぜならそれは自分の愛に都合がよいからである。・・・単に真理を信じること、聖言を信じることは信仰ではない。信仰とは天界的愛から真理を愛することであり、内的情愛からそれを意図し行うことである。(『天界と地獄』482)

 慈善の善と信仰の真理という観念を、太陽の光と熱からつくることができよう。春と夏には、太陽の光と熱がひとつになって、地上のあらゆるものが芽を出し花を開かせる。しかし冬には光は熱を失い、地上のすべては活力をなくして死んでしまう。霊的光は信仰の真理であり、霊的熱は愛である。(『新エルサレムと天界の教義』114)

慈善(charitas)

 慈善とは、報酬以外の理由で善をなそうとする内的情愛である。これをなすことが、彼のいのちの喜びである。内的情愛から善をなす人々にあっては、考え、語り、意図し、行うことの一つひとつに慈善がある。善が彼の隣人であるとき、人や天使は、彼の内部に関しては、慈善であるといえよう。(『新エルサレムと天界の教義』104)

 慈善とは、だれもが従事している仕事、職務、勤めにおいて、また周りのだれに対しても、公正に誠実に行為することである。・・・なぜならこのようにすることすべてが社会への役立ちになるし、役立ちは善だからである。(『真のキリスト教』422)

 慈善は日々継続的に隣人に、個人にも団体にも、善を行うことと定義できよう。このように慈善を実践する者は、ますます形において慈善になっていく。というのは正義と忠誠が彼の心を形成し、その実践が彼の身体を形成するからである。それゆえ時間の経過とともに、彼自身の形から、慈善に属するもの以外何ものも意図したり考えたりしなくなる。こうしてついには、聖言で心に戒律が刻まれた人と言われるような人物になっていく。(『真のキリスト教』423)

 それが善だから善を愛する人、それが真理だから真理を愛する人は、なによりも隣人を愛する。というのは彼は善そのもの真理そのものである主を愛するからである。善への愛、真理への愛、したがって隣人への愛は、他のいかなる源泉からも来ない。このように隣人への愛は天界を起源として形成される。(『真のキリスト教』419)

 良心的で、良心から隣人をたとえ敵でも良い人と見て、報いを求めずに彼に善を望む人々は、すべて慈善の善の中にいる。公正公平なもの、善と真理から、まさに正義公平、善と真理のゆえに、いささかも外れようとしない人々は良心をもっている。というのはこれは良心に由来するからである。(『天界の秘義』2380)

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