Swedenborg Sampler
再生の必要性
霊的いのちを受けない者、すなわち主によって新たに生まれない者は、天界に入ることはできない。このことを主はヨハネ福音書で教えておられる。まことにあなたに言う。人は新たに生まれない限り、神の国を見ることはできない。ヨハネ3-3(『新エルサレムと天界の教義』173)
人は両親から、霊的いのちの中ではなく、自然的いのちの中に生まれる。霊的いのちは、主が聖言の中で教えられた信仰の戒めに従い、何ものにもまして神を愛すること、自分と同じように隣人を愛することの中にある。しかし自然的いのちは、隣人よりも、また実際、神ご自身よりも、自分自身と現世を愛することの中にある。(『新エルサレムと天界の教義』174)
人は常に遺伝に由来するものへと傾き、その中に陥る。そして自分自身の悪を固め、さらなる悪を自分からつけ加える。そのような悪は、霊的いのちと完全に対立し、それを破壊する。したがって、もし人が主から霊的いのちという新しいいのちを受けなければ、そしてこのようにして、新たにいのちを受け、新たに生まれ、新たに教育され、新たに創造されなければ、彼は地獄に落ちてしまう。なぜなら、彼は自分自身とこの世のもの以外、何も意図しないし何も考えないからである。ちょうど地獄でそうするように。(『新エルサレムと天界の教義』176)
愛は人のいのちである
人間の真のいのちは、彼の愛である。愛があるように、いのちがあり、人間全体がある。しかし人間をつくるのは、支配的愛、優越的愛(amor dominans seu regnans)である。その愛は、派生物として諸々の愛を下にもっている。これら諸々の愛は、たとえ異なるように見えても、支配的愛の中にあり、それとともにひとつの王国をつくっている。・・・支配的愛に属するものが、何ものにもまさって愛される。(『新エルサレムと天界の教義』54)
人が何ものにもまして愛するものが、常に、彼の思考と意志の中にある。そしてそれが、まさに彼のいのちをつくっている。たとえば、何よりも富を愛する者は、それがお金であれ所有物であれ、どのようにしてそれを手に入れるかということに常に思いを巡らしている。それを得たときは心の底から喜び、それを失ったときは心の底から悲しむ。彼の心はその中にあるからである。(『新エルサレムと天界の教義』55)
人は、他の何ものにもまして愛するものを目的として持っており、すべてにおいてそれを考えている。それは川の隠れた流れのように意志の中にあり、たとえ他のことをしていようとも、彼を引き寄せ運んでいく。なぜならそれこそが彼を生かしているものだからである。(『新エルサレムと天界の教義』56)
二つの愛がある。まさに泉のように、それらからすべての善と真理が流れ出る。また二つの愛がある。そこからすべての悪と誤謬が出てくる。すべての善と真理が出てくる二つの愛は、主への愛と隣人愛である。すべての悪と誤謬が出てくる二つの愛は、自己愛と世間愛(amor mundi)である。後者の二つの愛は、前者の二つの愛と正面から対立する。
自由意志
人は自由意志がなければ改善されない。というのは、人はあらゆる悪の中に生まれており、救われるためには、それらは取り除かれなくてはならないからである。しかしながら、もし自分自身の中に悪を見て、悪を確認し、さらに悪を意図することをやめ、最後にはそれを嫌悪するということがなければ、悪は取り除かれない。(『天界と地獄』598)
もし人が強制力によって改善されるなら、全世界に救われない人はいないであろう。なぜなら、主にとって、人を強制して神を恐れさせ、崇拝させ、さらには愛させるほど簡単なことはないからである。その手段は数えきれないほどある。しかしながら、強制されてなされることは人に結合されないし、自分のものにならないので、主はだれかを強制するようなこととはまったく無縁の存在である。(『天界の秘義』2881)
人が改善されるように、彼には悪と誤謬について考える自由がある。そして法律が制限しないかぎり、それにしたがって行為する自由がある。なぜなら、善と真理が彼のいのちになるためには、それらは彼の愛と意志に植えつけられる必要があるからである。彼に善と真理について考える自由があるように、悪と誤謬についても考える自由がなければ、これを行うことはできない。(『新エルサレムと天界の教義』143)
自由に植えられたものは存続するが、強制的に植えられたものは存続できない。というのは、強制されたものは、その人の意志からではなく、強制する人の意志から来るものだからである。(『新エルサレムと天界の教義』143)
人は宗教的なことを、外的手段によって考え意志するように、すなわち信じ愛するように、強制されるべきではない。そうではなく、人は自分自身を導くべきであり、ときには自分自身を強制すべきである。それが神の摂理の法則である。(『神の摂理』129)
すべての自由は愛に属する。なぜなら、人が愛すること、これを彼は自由に行うからである。したがってまた、すべての自由は意志に属する。なぜなら、人が愛すること、これを彼はまた意志するからである。そして愛と意志が人のいのちをつくるから、自由もまた人のいのちをつくる。(『新エルサレムと天界の教義』141)
人間を人間にする唯一のもの、そして彼が主と連結される唯一の手段は、あたかも自分からするように、すなわち彼自身の意志から、彼自身の判断に従って、善をなすことであり、真理を信じることである。もしこのひとつの能力が取り去られたら、人と主との、また主と人とのすべての連結も、同時に取り去られるであろう。というのは、これが主が人に生まれた者すべてに与えられ、人生の終わりまでも保持され、そしてその後永遠に保持される愛の相互関係だからである。(『啓示による黙示録解説』541)
人の自由意志は次の事実の中にある。人は自分の中で、いのちは自分のものと感じるということ。神が、連結が生み出されるように、彼をそのようにされているということ。連結は相互関係でなければ不可能であり、そして人が自由に、あたかも自分から行為するときに、相互関係でありうる。もし神が人間にこれを残されなかったなら、彼は人間ではないであろう、永遠のいのちをもつこともないであろう。神との相互的連結が、人を獣ではなく人にし、死後永遠に生きることを可能にするのである。霊的ことがらにおける自由意志がこのことを可能にする。(『真のキリスト教』504)
人が神に近づけば近づくほど、そしてあたかも自分自身からそうすればするほど、神は人に近づかれ、人の最内部でご自身を彼に結びつけられる、というのが秩序の法則である。(『真のキリスト教』89)
地獄的自由と天界的自由とがある。悪いことを考え、意図し、市民法、道徳法によって制止されない限り、それを話し行うことは、地獄的自由から来る。しかし、善いことを考え、意図し、その能力の範囲で、それを語り行うことは、天界的自由から来る。何であれ人が自由に考え、意図し、語り、行うことは、その人には自分のものと感じられる。だれにとってもすべての自由は、愛に由来するからである。それゆえ、悪の愛の中にいる者は、地獄的自由のみを自由そのものと感じるし、善の愛の中にいる者は、天界的自由のみを自由そのものと感じる。(『神の摂理』43)
悔い改めと罪の許し
人は自分で悪を清めるべきで、主から直接そうしてもらおうと待つべきではない。というのは、それはススや汚物で顔や服の汚れた召使が、主人のところに行って「旦那様、私を洗ってください」と言うようなものだからである。主人は彼に「愚かな召使よ、何を言っているのだ。見よ、水と石鹸とタオルがある。自分の手はないのか、力が入らないのか。行って自分で洗いなさい」と言わないだろうか。また、主なる神は言われるであろう。「私は清める手段を与えている。意志と力も与えている。これらの私の贈り物と自分自身の能力を使いなさい。そうすればあなたは清められる」と。(『真のキリスト教』436)
人は自分自身を調べ、自分の悪を、行為における悪のみならず、思考や意図にいたるまで見て、確認しなければならない。そしてその後、悪を慎み、悪を避け、新しい生活を送らなければならない。そしてそれは善の生活でなければならない。(『黙示録講解』250)
善そのもの、真理そのものである主は、人から悪と誤謬が取り除かれない限り、人に入って行かれることはできないと、だれでも理性だけからわかる。というのは、悪は善と対立し、誤謬は真理と対立しているからであり、二つの対立するものが混じり合うことは、決してないからである。一方が他方に近づくと戦いが起きる。それは一方が他方に場所を譲り、譲った側は出ていき、他方が後に座るまで続く。天界と地獄、主と悪魔は、そのような対立状態にある。だれが、悪魔が支配するところに主が入っていける、あるいは地獄があるところに天界が存在しうると、理性で考えることができようか。(『神の摂理』100)
自分の能力と力で、悪から自らを清めることができる人はいない。しかしまた、あたかも自分のものと思える能力と力を使わずに、人間が清められることもない。もし自分の能力と力が、自分のものと思えないなら、だれも肉欲と渇望に対して戦うことはできないであろう。だれもがそのように戦うことを求められているのであるが。(『真のキリスト教』438)
人は再生されるまで、ものを知らないので、「善と真理は一切自分からは出てこない、すべての善と真理は主から来る、またいかなる悪と誤謬にも自分の力で抵抗することはできないと知っている、認めている、信じている」と言うことができない。・・・しかし再生後は、すべての善と真理は主だけから来るという知識が、次第に彼に入ってくる。・・・たとえこの世ではそうならないとしても、他生においてそれを知ることになる。(『天界の秘義』1661,2946)
信仰の生活をしている人は、日々悔い改めている。というのは、彼は自分の中にある悪を反省し、悪を確認し、悪に対して自己を防御し、そして主に助けを願い求めるからである。というのは、人間は自分自身で常に落下し、主によって常に引き上げられているからである。人は悪をしようとするとき、自分で落下している。そして悪に抵抗するとき、つまり結果として悪をしないとき、彼は主によって引き上げられている。(『天界の秘義』8391)
実際の悔い改めとは、人が自分自身を調べ、罪に気づき、罪を確認し、主に願って新しい生活を始めるということである。(『真のキリスト教』528)
自由な状態で行う悔い改めは役立つが、強制されて行う悔い改めは無益である。強制の状態とは、病気の状態、不幸があって落胆している状態、死が差し迫っている状態、一言でいうと、健全な理性の役立ちを取り去るあらゆる恐れの状態である。強制されている状態の悪人が悔い改めを約束し、善を行ったとしても、自由の状態になると、彼は以前の悪の状態に戻ってしまう。善人にあっては実情は異なり、そのような状態は試練の状態であり、それを彼は克服する。(『天界の秘義』8392)
罪が許されたしるしには次のようなものがある。神のために神を礼拝すること、隣人のために隣人に仕えることに喜びを感じられる。こうして善のために善をなすこと、真理のために真理を信じることに喜びを感じられる。慈善と信仰に属する行為によって報いを受けようと思わない。恨み、憎しみ、復讐、虐待、不義などの悪、要するに神と隣人に背くすべてのことを避け嫌悪する。(『天界の秘義』9449)
再生、あるいは天界的いのちの移植は、人間において、幼児期に始まりこの世の人生の終わりまで続き、死後も彼の完成はさらに続いていく。・・・そしてこれは秘義であるが、彼のこの世での再生は、終わりなきいのちの完成の土台づくりにすぎない。良い人生を送った人は、次の人生で完成を経験する。(『天界の秘義』9334)