聖書のシンボル 植物編

アーモンド(Hazel)
ある種の木は、自然的な人の、外的な善と真理を表している。ポプラ、すずかけも同様。例:「ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝のところを剥き出しにし、」(創世記30-37)自然的な善の力をふるったこと。自然的な人の善を表す。(→「樫の木」を参照)

アカシヤ(材)(Shittim wood, shittah)
(注:正確にはアカシヤではなく、シッテムという材木で、アカシヤの一種と考えられる。)アカシヤ(シッテム)は山の木であり、他の木と比べ芳香を漂わすことから、杉(シーダー)の中で最も高級な木材であり、それゆえアカシヤは純粋な真理を表す。またアカシヤ材は主のみの功績による善、天的な愛を表す。例:「あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。」(出エジプト30-1)

葦(Reed)
(杖と和訳される個所もある)葦は感覚的な人間の真理を表し、霊的な人間の光から遠ざかると、それは虚偽となる。例1:「葦の中の獣、それに、国々の民の子牛とともにいる雄牛の群れを、叱ってください。」(詩篇68-30)(「葦の中の獣」=感覚的な人間の科学からくる虚偽の欲念)また葦は、杖と同義で出てくるときは、人間が自分から持つ弱い力を指す。それに対し、はかり竿は主から与えられる強い力を指す。例2:「エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。」(エゼキエル29-6)(イスラエルの葦の杖=自然的な人間の、虚偽である科学に頼ること)

亜麻(Flax)
外なる 自然的な人の真理を指す。亜麻布(linen)も同じ。天界では自然的な真理のうちにいる人々は亜麻布のように真っ白な服をまとっているためだという。例:「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる亜麻(flax)(和訳では、「燈心」)を消すこともなく、まことをもって公義を打ち立てる。」(イザヤ書42-3)彼(=主)はわずかな愛の善から生活をし始めた単純な者たちや、子ども達のもつ天の真理を破壊することがない、の意)

あわ(Millet)
より高貴な善は小麦と大麦で表され、あまり高貴でない善はそら豆やレンズ豆、あわで表している。(→「大麦」参照)例:「あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦を取り、それらをひとつの器に入れ、それでパンを作り、・・・」(エゼキエル4-9)

いちじくの木(Fig tree)
いちじくの木は自然的な善を表す。聖書ではぶどうの木が出てくるところにはよくいちじくの木も出てくるが、これらは対比した意味を持つ。ぶどうの木が内なる人の善(霊的な善)を表すのに対して、いちじくの木は外なる人の善(自然的な善)を表す。特に教会を表すときは、ぶどうの木は内的な(霊的な)教会、いちじくの木は外的な(自然的な)教会を表す。いちじくの実は自然的な善であり、実を結ばないとは、自然的な善がないことを指す。枯れたいちじくの木は特に聖書の文字通りの意義からしか真理をくみとらず、そこにはなんら霊的なものがないために、自然的な善がなくなった教会のことを指す。例:「主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木を打ち、彼らの国の木を砕かれた」(詩篇105章33)夏の近いいちじくは新しい教会のはじまりを指す。例:「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出てくると、夏の近いことがわかります。」(マタイ24章32)(主がいちじくの木を枯らされたことについては「木」を参照/いちじくの葉→「葉」を参照)

いばら(Thorn)
虚偽の悪、特にこの世や快楽の欲望(色欲)を表す。これらは他の虚偽にくらべ燃え上がりやすい。例:「わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。私は雲に命じて、この上に雨を降らせない。」(イザヤ5-6)主の頭にいばらの冠がかぶせられたのは、当時のユダヤ教会において天的な真理が欲望の虚偽によって窒息させられていたことを表象している。(→「おどろ」参照)

枝(Branch)
木は善と真理の知覚および知識を表すので、枝は真理そのものを指す。特に科学的真理を指すことがある。悪い意味では、悪を含んだ教義の虚偽を指すこともある。例:「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰ってくるのが近いからだ。」(エゼキエル書36-8)(枝は信仰の真理、実は仁慈を表しており、信仰の真理を増やし、実を結ぶことで、再生が意味されている)

大麦(Barley)
穀物は一般に真理の善を表すが、小麦と大麦はその代表的なものである。小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦は聖書ではパンと同じ意味合いを持つが、それぞれ使い分けられている。より高貴な善は小麦と大麦で表され、あまり高貴でない善はそら豆やレンズ豆、あわで表している。例:「農夫たちよ。恥を見よ。ぶどう作りたちよ。泣きわめけ。小麦と大麦のために。畑の刈り入れがなくなったからだ。」(ヨエル1-11)
大麦は善の中でも霊的な善(外的な善)を表す。(→「小麦」を参照)

おどろ(Brier)
いばらとおどろは対になって出ることがあるが、いばらは世への欲念から来る虚偽を表すのに対し、おどろは自己愛の欲念から来る虚偽を表す。例:「イスラエルの家にとって、突き刺すおどろ(brier、和訳ではいばら)も、その周りから彼らに傷みを与え、侮るとげもなくなるとき、彼らは、わたしが神、主であることを知ろう。」(エゼキエル28-24)

オリーブ(Olive, olive-tree, oil tree)
オリーブは油が取れるので、仁慈の善を表す。聖書では「油」も仁慈の善を指している。教会を指すときは、ぶどうの木が霊的な教会を指すのに対し、オリーブの木は天的な教会を指す。その実であるオリーブの実は天的な愛、すなわち主への愛を表す。オリーブ畑は天的教会、すなわち主への愛のうちにいる教会を指す。(→「ぶどう」参照)例:「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。」(ハバクク書3-17)(「オリーブの木の実りがない」=天的な善がないこと)

樫の木(Oak, oak-grove)
古代教会では、主の王国を意味する外的な礼拝において、どんな木も天的、霊的な内意を持っていた。オリーブ、ぶどう、杉、ポプラ、樫は、それぞれ天的、霊的、合理的、自然的、そして感覚的な、教会の善と真理を意味している。もみの木、ポプラ、樫、松(和訳ではすずかけ)は感覚的な光から考えた合理的な真理を表し、霊界ではこれらの葉が強い風に揺れるとき、恐怖を引き起こすという。
木は一般に知覚を表すが(→「木」参照)、樫の木は科学からの知覚を表す。また樫の木は長寿であることから永遠をも表し(「樫の木の下に」は「永遠に」の意)(創世記35-4など)、また「もつれたもの」の意味も持つことから、自然的なものの中でも最下層を指すこともある。科学、身体の感覚的な喜び、従って虚偽は最下層に属するからである。そこでよい意味では自然的なものの最下層の真理と善を表し、悪い意味では自然的なものの最下層の悪と虚偽を表す。例:「エモリ人を彼らの前から滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らの背たけは杉の木のように高く、樫の木のように強かった。しかし、わたしはその上の実と下の根とを滅ぼした。」(アモス書2-9)(=ここで、「樫の木のように強い」とは、自己愛の悪を表す)樫の木が人を表すときは、自然的な人間のことである。例:「まことに、万軍の主はの日は、・・・バシャンのすべての樫の木・・・に襲いかかる。」(イザヤ2-12~16)ここで、樫の木は自然的な人間を表し、知識は自然的な人間に属する事柄のため、バシャンの樫の木は、知識から誇る人々を指す。また、ポプラの木材が自然的な善を表すのに対し、樫の木の木材は、感覚的な善を表す。

からし種(Grain of mustard)
霊的な人間になる以前の人間の善を指す。これが種の中でも最も小さいのは、自分で善をなしたと思っており、また自己から出るものは悪以外の何物でもないからである。しかし人間が悪を罪として避けるよう闘うならば(再生)、それがどんなに小さくても霊的なものとなり、やがて信仰が愛と結合するとそれは成長し、野菜となる。ついには木になり、「空の鳥」(真理、あるいは知性)が「枝」(科学)に巣を作るようになる。

木(Tree)
木は一般に知覚(perception)を表し、そこから善と真理の知識を表す。また、人の情愛とそこから派生する知覚に関する文脈で、木は人のことを表すこともある。例:「いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。」(出エジプト10-5)(いなご=自然的な人の最外部にある虚偽、木=善と真理の知識)エデンの園の個所で「生命の木から取って食べる」とは、(知性と智慧は神から来るという信念に基づいて)すべて神からいただいた知覚(洞察)によって何が善であり、何が悪であるかの知識を得ることを指し、「善悪を知る木から取って食べる」とは、(知性と智慧が人間から来るという信念に基づき)自己や世からの知覚(洞察)によって善悪を判断することを指す。そうして感覚や科学的な事柄によって信仰の秘儀を探ろうとすると、天的な信仰(=智慧と知性)が死ぬことを指している。特にエデンの園の木は、最古代の教会に啓示されていた善と真理を指し、園の真中にある木に触るとは、自己から信仰の善と真理を考えること、すなわち感覚と科学から考えることを指す。
一般に、木の枝は人の感覚的、自然的な真理を表し、葉は人の合理的な真理を、花は合理的なものの最初の真理を表し、実は愛と仁慈の善を表し、種は人の最後のものと最初のものを表す。愛の善のうちにおり、同時に知恵の真理のうちにいる者は実を結ぶ木である。知恵の真理の中におり、合理性から語る者は葉が生い茂っているが実のない木である。また、善のうちにもおらず、知恵の真理のうちにもいない者は葉のない木、冬の状態の木である。例:「よい実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ8-19)(よい実を結ばない木とは、信仰を持っているが仁慈をもたない者を指す。)(→枝、葉、花、実、種をそれぞれ参照)

草(Grass)
(青草、茂みとも和訳される)(bush(柴、茂み)も同様)草は、科学的な真理を表す。また、草は知性および知性による改良を表す。というのも、雨のあと太陽によって地上に草が生えるが、これは天の真理の流入を通して、太陽で表される主から知性が生まれることに対応するためである。例:「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした・・・地上の三分の一が焼け、・・・青草が全部焼けてしまった。」(黙示録8-7)(=青(緑)は真理を、また真理に生きる者を表すため、科学的な真理が破壊されたことを指す。または、信仰に生きるものがいなくなったことを指す)

小麦(Wheat)
小麦は、愛と仁慈(=善)を表し、精製された小麦はその真理を表す。善の中でも、より高貴な善は「小麦」や「大麦」で表され、また穀物の中で小麦は大麦よりも高級なため、小麦は天的な愛(=内的な善)を、大麦は霊的な愛(=外的な善)を表す。例:「しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。」(出エジプト9-32)(内的な善とその真理は破壊されなかったことを指す)(→「毒麦」も参照)

穀物(Corn)
穀物は、一般に善(真理の善)を表す。(→「大麦」を参照)例:「そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下っていった。」(創世記42-3)エジプトから穀物を買うとは、科学を通して真理の善を所有することを指す)彼らの袋に穀物を満たした(同25節)(科学が、真理の善を帯びたことを指す)

ざくろ(Pomegranate)
ざくろは一般に、認識と知覚を表し、特に善と真理の知識および知覚を表すことがある。善と真理の科学と言い換えることもできる。ざくろの木は感覚的な真理と善、すなわち自然的な人の最終的なものを指す。オリーブの木、ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木と並んで出てくるときは、それぞれ順に天的、霊的、自然的、そして科学的な事柄を言っている。例:「種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。」(ハガイ書2-19)

杉(Cedar)
聖書で杉は合理的なものを指す。「レバノンの杉」というと合理性、また科学的な真理や知識を通して合理性が成長することをさしている。アカシヤ杉というときは,純粋な真理を表す。例:「見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある。」(エゼキエル書31-3)また合理的な人間やその事柄を表す。悪い意味では、合理的な人間の虚偽のことを指す。(詩篇29-5)教会を指すときは、洪水後の古代教会など、霊的で合理的な教会を指す。(→「樫の木」「アカシヤ材」参照)

すずかけ(Plane)
ある種の木は、自然的な人の、外的な善と真理を表している。ポプラ、アーモンドも同様。(→例は、「アーモンド」参照)

そら豆(Beans)
(→「あわ」参照)

種(Seed)
種は、信仰を表す。また、仁慈のないところには信仰もありえないため、種が仁慈自体の意味を持つ個所もある。アブラハム、イサク、ヤコブの「種」(和訳では、子孫)では、愛や仁慈が意味されている。例:「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の種(seed:和訳では「子孫」)と・・・」(創世記9-9)(このseedは文字通りの意味は「子孫」だが、内的な意味では信仰のこと)また、命の芽生えるもとや、初めのものと終わりのものという意味もある。

毒麦(Tares)
人の中にある悪と虚偽とを表す。あるいは、教会に蔓延した虚偽をも表す。例:「ある人が自分の畑によい種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。・・・まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい。」(マタイ13―24~30)(=人間がこの世の生活を営んでいる間に、本人の気付かぬうちに地獄からの悪が密かに流入し、虚偽を植え付けていく。・・・人間に善を基にした真理が受け入れられ、それが成長する前に、主は人間の内にある、悪から来る虚偽を選り分け、投げ捨てられることを意味する)

なつめやし(Palm tree)
なつめやしは霊的な善すなわち真理の善を表す。善を行いたいという情愛と、そこからくる喜びを指すこともある。例:「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。」(出エジプト15-27)(真理の善が豊富にあったことを表す)

根(Root)
根は、仁慈を表す。種蒔く人の喩え(マルコ4-17)で、岩地に蒔かれて根を張らない種とは、仁慈がないことである。というのも、仁慈の中にこそ、信仰は根付くからである。この根(仁慈)を喜ばない人は、誘惑に負けてしまう。例:「その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」(マラキ書4-1)(根も枝も残さない=仁慈も真理もなくなること。)

葉(Leaf)
葉は、真理を表す。例:「そこで彼らは自分たちが裸であることを知った。それで人とその妻はいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3-7)(いちじくは自然的なものを指すことから、アダムとイブが裸を隠すのにいちじくの葉を用いたことで、自らの愛や勝手な考えを道徳的な真理によって覆い隠したことが表されている。)

裸麦(Spelt)
小麦が内的な善を表すのに対し、裸麦はその真理を表し、特に知識を表している。(→「大麦」参照)

、花弁(Flower)
花は、実を結ぶ前の状態であることから、再生する前の人間の状態を表している。というのも、再生する人間を木で表すと、葉を出し、次に花を咲かせ、やがて実をつけるからである。葉は知性(すなわち信仰の真理)を表し、花は智慧(すなわち信仰の善)を表し、そして実は愛の善と行為による仁慈とを表す。葉は最初の状態、開花は次の状態、すなわち再生直前の状態であり、やがて実を結ぶが、実とは仁慈の働きである。また、実や種を善とすると、花はそれに先立つものであることから、花は真理一般、あるいは人間の合理性の初期の霊的真理、真理の科学を表すこともある。というのも、まず科学の真理があり、それがやがて智慧となるからである。この場合、枝は人間の感覚的な真理を表し、葉は合理的な真理を表し、花は合理性の最初の霊的な真理を表し、実は愛と仁慈の善を表し、種は人間の最初の事柄と最後の事柄を表している。
また、神殿の壁に刻まれた花模様は、神から来た知性を表象している。例:「神殿の周囲の壁には、すべて、奥の間も外の間も、ケルビムの彫刻、なつめやしの木と花模様の彫り物を彫った。」(列王記6-29)また、草と対比して出てくるとき、草は科学的な真理を、野の花は霊的真理を表す。(例:「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。」(イザヤ書40-7)(人間には科学的真理も霊的真理もないであろうことを指す)

ひのき(Box)
天の自然的な事柄を指す。もみの木、すずかけ(松)と出てくるときは、自然的な善と真理の理解を表す。すずかけ、ひのきと共に出てきて、それぞれ自然的な善と真理を表す。もみの木は高い自然的な真理、すずかけは低い自然的真理、ひのきはそこにある善と真理の理解を、それぞれ表している。例:「わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、ヒノキも共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」(イザヤ41-19~20)

ぶどう(Vine, fruits of vine)
ぶどうの木は霊的な善(内的な善)を表し、ぶどう園・(時にぶどうの木)は霊的な教会、すなわち隣人への愛のうちにいる教会を表す。(→いちじく参照)ぶどうの実は仁慈すなわち隣人への愛を表し、ぶどう酒はぶどうから派生してできるので、仁慈から派生した信仰・真理を表す。(悪い意味では、その逆に、ぶどう酒は悪意から来る間違った考えを指す。)ぶどうの実がないことは、内的な善がないことを表す。(→「オリーブ」を参照)
例:「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。」(創世記49-11)(ぶどうの木=霊的な教会(の知性)、良いぶどうの木=天的な教会(の知性))

ぶどう畑(Vineyard)
ぶどうは霊的な善を表すため、ぶどう園は霊的な教会を表す。ぶどう畑を作る、耕すとは、霊的な教会の事柄を耕すこと、つまり霊的な真理に教えられることを指す。例:「彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。」(アモス書9-14)

ポプラ(Poplar)
木の中には自然的な人間の外的な善や真理を表すものがあるが、ポプラもそのひとつで、ポプラが出てくるときは自然的な善を表している。(→「例はアーモンド」参照)
松(Pitch-pine)
(→「もみの木」を参照)

実(Fruit)
実は、仁慈の働き、また仁慈の愛を指す。例:「わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び」(レビ記26-4)(→「花」を参照)
「生めよ(be fruitful)、増えよ(multiply)」(創世記8-17)の前者は、愛(仁慈の善)について言い、後者は智慧(信仰の真理)について言っている。「善悪を知る木の実」については「木」を参照。アベルとカインの話(創世記4章)でカインのもってきた捧げもの「地の作物」(fruit of the ground)は仁慈を失った信仰のわざを指している。(その前(創世記3-23)に、エデンの園から追い出された人が「土を耕すようになった」とあるが、これは地上のものに執着するようになり、形体的になったことを指すため、次のカインの「土を耕すものとなった」(創世記4-2)もまた、信仰が仁慈を失ったことを指している。

ミルトス(Myrtle)
杉とオリーブの木(tree of oil)と共に出て、内なる人間の心理と善を表す。ここで、ミルトスは、低い合理的な真理を表している。例「わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え・・・」(イザヤ書41-19)(主が合理的な真理とその知覚を与えることを指す)

もみの木 (Fir)
自然的な人間の知覚、真理と善を表す。松(pine。和訳ではすずかけとなっている)、ひのきと共に出てきて、それぞれ自然的な善と真理を表す。もみの木は高い自然的な真理、すずかけは低い自然的真理、ひのきはそこにある善と真理の理解を、それぞれ表している。例:「わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、ヒノキも共に植える。主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。」(イザヤ41-19~20)

ゆり(Lily)
花は、実を結ぶに先立つ状態を表し、ゆりもそのひとつである。例:「私はイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。」(ホセア書14-5)(「ゆりのように花咲く」により、再生の最初の状態が表されている。)

りんご(Apple tree)
りんごの木は自然的な善(とその喜び)を表す。一方、なつめやしは霊的善(とその喜び)を表す。例:「ぶどうの木は枯れ、いちじくの木はしおれ、ざくろ、なつめやし、りんご、あらゆる野の木々は枯れた。」(ヨエル書1―12)主の降誕前の教会の状態が、いろいろな果実の皮に喩えられる。

レンズ豆(Lentils)
(→「あわ」参照)

*ここに紹介したのはごく一般的な用法なので、個々の文脈における意味など聖書の逐語解説については、『天界の秘義』や『黙示録講解』等を参照してください。