聖霊
聖霊は、唯一の神に由来する神聖な真理であり、神聖な働きである。そして唯一の神の中には三一性がある。したがって、聖霊は救い主である主なる神に由来する神聖な真理であり、神聖な働きである。(『真のキリスト教』138)
神の働きは、主に由来する神聖な真理から生まれる。そして生まれたものは、その源泉である主とまったく同じ本質のものである。これは霊魂と身体と活動という三つ組のように、ひとつの本質をつくる。それは、人間の場合は単に人間にすぎないが、主の場合は、神であると同時に人間である。これらの両本質は、主の栄化の後に、前のものと後のものが一つになるように、あるいは本質と形式が一つになるように結合した。このように、父と子と聖霊と呼ばれる三要素は、主において一つである。(『真のキリスト教』139)
聖霊は発出する神性と呼ばれるが、なぜそれが「発出する」ものなのか誰も知らない。それが知られていない理由は、次のとおりである。主は天使の前に太陽として現れ、その太陽から熱と光が出てくるが、その熱は本質において神の愛であり、その光は本質において神の知恵である。それが現在まで知られていなかった。これがわからないために、人々は、発出する神性は固有の神的実体であると考えざるをえなかった。なぜならアタナシウス信条では、三一性について、父という一位格があり、子という別の位格があり、聖霊という別の位格があると述べているからである。しかし、主は太陽として現れることがわかると、聖霊と呼ばれる発出する神性についての正しい観念が得られる。それは太陽からの熱と光のように、主と一つであるが、主から発出するのである。(『神の愛と知恵』146)
聖霊に対する冒涜
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」。(マタイ12:31,32)「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。(マルコ3:28,29)「また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない」(ルカ12:10)
「聖霊に対する罪」、「冒涜」、「人の子に逆らうことば」の意味は、これまで教会では知られていなかった。それは聖霊や人の子の意味が正しく理解されていなかったからである。聖霊とは、天界にある神聖な真理としての主という意味である。すなわち霊的意味における聖言である。なぜなら、これが天界における神聖な真理だからである。人の子とは、地上における神聖な真理という意味である。したがって自然的意味における聖言である。なぜならこれが地上における神聖な真理だからである。聖霊の意味、そして人の子の意味がわかると、聖霊に対する罪や冒涜の意味、また人の子に逆らうことばの意味もわかるであろう。同様に、なぜ人の子に逆らうことばは許され、聖霊に対する罪や冒涜は許されないかがわかるであろう。聖言を否定すること、あるいは聖言の本当の善を不純化すること、その本当の真理をねじ曲げることは、聖霊に対する罪であり冒涜である。そして、聖言の自然的意味、すなわち文字の意味を外見から解釈することは、人の子に逆らうことばである。聖言を否定することは、現在も将来もそして未来永劫にわたって、なぜ許されない罪なのか、そしてそうする者はなぜ永遠に断罪されるのか。その理由は、聖言を否定する者は、神を否定し、主を否定し、天界と地獄を否定し、教会をそして教会に属するすべてを否定するからである。そしてそのように否定する者は、無神論者であり、彼らは全世界の創造を、ある最高の存在、造物主、あるいは神のおかげと口では言っても、心中ではそれを自然の結果にするからである。そのような者たちは、否定することで、主とのあらゆる連結の絆を破棄するため、天界とは切り離され、地獄と結ばれる以外にないのである。聖言の本当の善を不純化し、その本当の真理をねじ曲げることは、聖霊に対する冒涜であり、ゆるされない理由は、上述のように、聖霊によって天界の神聖な真理としての主が意味されるからであり、またこのようにして霊的意味における聖言が意味されるからである。霊的意味では、本当の善であり、本当の真理であるが、自然的意味では、同じものがいわば衣をまとっており、ところどころが露出しているような状態である。それゆえ、それは、外見から善であり真理であるといわれるが、不純化され、ねじ曲げられるものである。そして、それが本当の善と真理に反して解釈されるとき、それは不純化されねじ曲げられると言われる。(『黙示録講解』778)
旧約聖書に聖霊は登場しない
旧約聖書では、聖霊(Spiritus Sanctus)はどこにも出てこない。ただ聖なる霊(Spiritus sanctitatis)が三度出てくるにすぎない。ダビデに一度(詩編51:11)、イザヤに二度(63:10,11)である。ところが、新約聖書では、聖霊が頻繁に登場する。福音書の中に、使徒行伝の中に、そして彼らの書簡の中に出てくる。その理由は、主がこの世に来られたときに初めて聖霊が存在したからである。というのは、それは父から、主をとおって(ex Ipso a Patre)出て来たからである。というのは、「主だけが神聖」だからである(黙示録15:4)。この理由のために、イエスの母マリアに語りかけた天使ガブリエルは、「聖なるものがあなたに生まれる」と言ったのである(ルカ1:35)。聖霊がエリサベツを、ザカリヤを、そしてシメオンを満たしたと言われているにもかかわらず(ルカ1:41)(ルカ1:67)(ルカ2:25)、その後で「聖霊はまだ下っていなかった。イエスはまだ栄化されていなかったからである」(ヨハネ7:39)と言われている理由は、彼らを満たしたのは父なるエホバの霊だったからであり、それが聖霊と呼ばれたのは、その時すでに主がこの世におられたからである。これが、旧約聖書において、預言者が聖霊から語ったとは決して言われず、エホバから語ったと言われている理由である。(『真のキリスト教』158)