創造

神は無からではなく、ご自身から世界を創造された

 明瞭な理性から考える人はだれでも、全世界は無から創造されたものではないとわかる。というのは無から創造されるものは何もないとわかるからである。無は明らかに無である。無から何かをつくることは、自己矛盾である。自己矛盾しているものは、神の知恵に由来する真理の光と対立する。そして神の知恵から来るものでなければ、それは神の全能からくるものでもない。合理的に、明瞭に考える人は、すべてのものは実質そのものというべき実質(substance, Substantia)から創られたとわかる。というのはこれは存在(Esse)そのものであり、そこから存在するものすべてが実在(existere)しうるからである。神ただひとりが実質そのものであり、まさに存在(Esse)であるから、ものの存在はそれ以外のいかなるものにも由来しない。

 多くの人々が以上のことを理解するが、それは理性によって可能になるのである。しかし、彼らはそれをあえて主張しようとはしなかった。なぜなら、そのような考えは、被造世界は神から創造されたので神である、という考えに行きつくかもしれないと恐れたからである。あるいは、自然はそれ自体で存在し、その最内奥にある構成要素がいわゆる「神」であるという考えに陥るかもしれないと恐れたからである。その結果、多くの人々が、あらゆるものの起源は神と神の本質的存在に他ならないと分かっていたにもかかわらず、このことに関して、最初の思考を超えて踏み出そうとはしなかった。もしそうしていたら、人々の心は、身動きの取れない難問にとらわれてしまったであろう。人々が問題解決できなかった理由は、彼らが、神と神による世界創造を、自然世界に適した時間・空間の観念で考えたからである。自然世界の見方では、神と世界の創造を理解することはできない。しかし、内的光を享受できる人なら、神からの見方で、自然とその創造を理解することができる。なぜなら、神は時間にも空間にも存在しておられないからである。(『神の愛と知恵』283)

世界のすべては、神人(Deus Homo)の神の愛と神の知恵から創造された

 全世界は、最大のものから最小のものに至るまで、また始めのものから終わりのものに至るまで、神の愛と神の知恵に満たされているので、それは形において神の愛と知恵であると言えよう。このことは、全世界にあるすべてのものが、われわれの中の何かに照応(correspondentia)しているところから明らかである。被造世界に存在するもの一つひとつが、われわれの内部の一つひとつに照応しているので、人間は一種の宇宙であると言えよう。われわれの情愛すなわち思考と、動物界のすべてとの間に照応がある。われわれの意志すなわち理解力と、植物界のすべてとの間に照応がある。また、われわれ最外部の生活と鉱物界のすべてとの間に照応がある。

 そのような照応があることは、自然的世界にいる者にとっては必ずしも明白ではない。しかし、霊的世界に目を向ける者にとっては自明のことである。霊的世界には、自然界の三領域(動物界、植物界、鉱物界)で生じるものすべてが存在する。それらは、そこに住んでいる人々の感情と思考の表れなのである。すなわち、意志から来る感情、知性から来る思考、そしてその人々の生活の最外部の諸側面の表れなのである。彼らの感情と思考は、ちょうどわれわれがこの世でものを見るように、彼らのまわりに見えるのである。ただし、やや不完全な表象ではあるが。

 以上から、天使にとって、被造世界は神人(Deus Homo)を表す形(Imago)であること、それは神の愛と知恵であり、それが全世界における形として提示されていることが明白である。それは、被造世界が神人であるというのではなく、神に由来するものだということである。なぜなら、世界にあるものは、すべて実質と形そのもの、いのちそのもの、愛と知恵そのものではないからである。実際、人間は人間そのものではない。われわれは、人間そのもの、知恵と愛そのもの、形と実質そのものである神に由来するものである。存在そのものは、創られず無限であるが、それに由来するものは、その中に決して存在そのものを含むことはなく、創られるもの、限りあるものである。そして後者は、それが存在し実在する根拠となる神の形を表すのである。(『神の愛と知恵』52)

的世界と自然的世界、二つの世界がある

 二つの世界がある。霊的世界と自然的世界である。霊的世界には、自然的世界から来るものは何もないし、自然的世界にも、霊的世界から来るものは何もない。両者はまったく別個のものであるが、ただ照応(correspondentia)によってのみ交流している。(『神の愛と知恵』83)

二つの太陽によって、二つの世界のすべてが創造された

 二つの太陽がある。主は、それらの太陽、すなわち霊界の太陽と自然界の太陽によって、すべてを創造された。主は、霊界の太陽によってすべてを創造された。自然界の太陽によって創造されたのではなかった。というのは、後者は前者のはるか下の、中間的距離にあるからである。霊界はその上にあり、自然界はその下にある。そして、自然界の太陽は、補完的役割を果たすために創造された。(『神の愛と知恵』153)

 霊的なものは、愛以外のいかなる源泉からも出てこない。そして愛は、愛そのものであるエホバ神以外のいかなる源泉からも出てこない。それゆえ、霊界の太陽は純粋な愛であり、エホバ神から出てくるのであり、その真ん中にエホバ神がおられる。すべて霊的なものは、泉から流れ出るように、霊界の太陽から流れ出る。その太陽自体は、神ではなく、神に由来するのである。神に由来し、神にもっとも近い領域である。この太陽をとおして、全世界は、エホバ神によって創造された。この太陽によって、空の星の数だけある諸々の世界が、一つの全体になっている。(『霊魂と肉体の交流』5)

 自然の中心と広がりは、いのちの中心と広がりから来るのであって、その逆ではない。天使的天界の上に、太陽がある。それは純粋な愛である。そして、それはこの世の太陽のような火に見える。その太陽の熱から、天使と人間は、意志と愛を引き出し、その光から、知性と英知を引き出している。その太陽から来るものは、すべて霊的と呼ばれる。そしてこの世の太陽から来るものは、すべていのちの容器であり、自然的と呼ばれる。いのちの中心をもつ広がりは、霊的世界と呼ばれ、霊界の太陽から存続している。自然の中心をもつ広がりは、自然的世界と呼ばれ、自然界の太陽から存続している。さて、空間と時間は、愛と知恵の条件とはなりえず、その代わりに状態が、愛と知恵の条件となるので、天使的天界の太陽のまわりの広がりは、空間的広がりではない。しかしながら、それは自然界の太陽の広がりの中に存在する。そして、そこに生きているものの中に、彼らの受容に応じて存在する。そしてその受容は、彼らの形と状態によって決まる。この世の太陽の熱火は、天使的天界の太陽に由来する。天界の太陽は、神から直接に出てくる神の愛である。そして神がその中におられる。愛はその本質において火である。したがって、聖言、あるいは聖書において、火は霊的意味によると、愛を意味する。これが、司祭が教会で勤めを行う際、天界の火が礼拝する人々の心を満たすようにと祈る理由である。それによって、司祭は天界の愛を意味しているのである。(『真のキリスト教』35)

霊界と自然界における大気、水、大地

 霊界と自然界は似ているが、霊界にあるものはすべて霊的であり、自然界にあるものはすべて自然的であるというところだけは違っている。これら二つの世界は類似しており、どちらにも大気、水、大地がある。それらは一般的なもので、そこからありとあらゆるものが無限の多様性をもって存在している。

 霊的大気と自然的大気のちがいは次のとおりである。霊的大気は神的火と神的光の受け皿、つまり愛と知恵の受け皿である。なぜならそれらに愛と知恵が含まれているからである。他方、自然的大気は神的火と神的光の受け皿ではなく、太陽自体の火と光の受け皿である。そこにいのちはないので、霊的世界の太陽から来るものは何もない。とはいえ、それは霊的太陽から来る霊的大気に包まれている。霊的大気と自然的大気にこのようなちがいがあることは、天使の知恵でわかる。(『神の愛と知恵』173-175)

物質の起源

 最初のものと最後のものとの間には、無数の中間的諸段階があると考える人、あるいは、先立つもの、究極的には最初のものがなければ何も存在しえないと考える人は、地上の物質的諸要素が、太陽によって、大気を手段としてもたらされたことに同意せざるをえない。最初のものとは霊界の太陽であり、その太陽についての最初のものとは神的人間すなわち主である。大気は、太陽が最後のものの中に現れるための手段となるものなので、そしてそれらの先立つものは最後のものに向かって進んでいくにつれて減少していくので、次のようになる。先立つものが最後のものの中でその動きを止めるとき、それはわれわれが地上で見るような物質的諸要素になる。そしてそれらは、その起源となった大気から、役立ちを生み出そうとする傾向と働きを保持している。最初のものから無数の諸段階を経て世界と世界内のすべてが創造されたと考えない者は、事実上の根拠から断片的な一貫性のない理論をつくらざるをえない。これらの理論は、ものごとを深く考察しようとする目には、家ではなくがらくたの山に見える。(『神の愛と知恵』303)

世界創造における聖なる目的

 世界創造の目的は、天使からなる天界をもたらすことである。そして天使からなる天界が目的であるように、人間、人類もまた目的である。なぜなら天界は人類から成るからである。したがって、(その他の)被造物すべては中間的目的である。そしてそれらには、人間に、また人間をとおして主に関連する序列、段階、事項における役立ちがある。(『神の愛と知恵』329)

 創造の普遍的目的、あるいは被造物すべての目的は、創造者と被造全世界との永遠の連結である。そしてこれは、主の神性が存在し、住み続けることができるような主体が存在しなければ不可能である。これらの主体が神の住所・住まいとなるためには、それらの主体があたかも自力でそうするように、神の愛と知恵の入れ物にならなくてはならないし、あたかも自力でそうするように造物主に向かってみずからを高め、自らを神に結びつける入れ物でなくてはならない。この相互作用の能力がなければ、いかなる連結もありえない。これらの主体とは、あたかも自力でそうするように自らを高め、自らを神に結びつけることができる人間である。人間があたかも自力でそうするような主体であること、神の入れ物であることは、これまで何度も述べてきた。この連結をとおして、主はご自身が創造されたあらゆるものの中に存在される。なぜならすべては最終的に人間のために創造されたからである。このようにして、すべての創造されたものの役割は、もっとも低いものから人間、さらには創造の神に至るまで段階的に上昇していく。(『神の愛と知恵』170)

被造世界のすべては、機能的に見ると、人間の形をしている

 古代人は人間を小宇宙と呼んだ。なぜなら、人間は大宇宙、すなわち世界全体を反映しているからである。しかしながら今日では、古代人がなぜ人間をこのような名で呼んだか人々は知らない。われわれは動物界、植物界によって養われ、肉体的に生きている、そのぬくもりによって生かされている、その光によって見、その大気によって音を聞き、呼吸する。われわれは、それ以外に、全世界、大宇宙について何も知らない。しかしながら、これらのことは、世界と世界内のすべてのものが大宇宙であるように、人間を小宇宙にするわけではない。そうではなく、古代人は、むしろ最古代人が所有していた照応の知識から、また天界の天使との交流から学んで、人間を小宇宙と呼んだのである。なぜなら、天界の天使たちには、彼らを取り巻く環境から、もし機能に着目するなら、世界のあらゆるものに人間の形を見ることができるとわかっているからである。(『神の愛と知恵』319)

人間