信仰

信仰とは何か?

 信仰とは真理の内的承認である。今日、信仰とは教会が教えるもの、そして知性には明白ではないものに他ならないと考えられている。というのは、私たちは「信じなさい、疑ってはいけない」と言われ、「理解できません」と答えると、だからこそ信じるのですと言われるからである。したがって、今日、信仰とはわからないことを信じることであり、盲目的信仰と言えよう。・・・以下で、それは霊的信仰ではないとわかるであろう。(『信仰の教義』1)

信仰の本質は仁愛である。

 仁愛と信仰は、意志と知性のように一つになることを知らなくてはならない。仁愛は意志に属し、信仰は知性に属するからである。・・・したがって、次のことがあきらかである。仁愛のない信仰は、本質のない形式のようなものであり、それは何ものでもない。また信仰のない仁愛は形式のない本質であり、それも同様に何ものでもない。(『信仰の教義』18)

信仰は、その真理が求められ実現されるまで信仰にはならない。

 「長男」によって意味される信仰のすべての事柄は、仁愛の善からくるものである。なぜなら信仰はこの善から出てくるからである。というのは、真理が聖言から得られるか教会の教義から得られるかにかかわらず、それらが移植される善がなければ、それらはおそらく信仰の真理になることができないからである。その理由は、まず最初に真理を受け入れるのは知性だからである。知性は真理を見て、それらを意志に導入する。そしてそれらが意志の中にあるとき、それらは人の中にある。意志は人そのものだからである。したがって、人がこれらの真理を求め、求めるがゆえにそれらが実現される以前に、信仰は人にある信仰であると思っている人は大いに間違っている。これより前は、信仰の真理にはいかなるいのちもない。意志に属するものすべてが「善」と呼ばれるのである。なぜならそれは愛されるからである。このように意志の中で、真理は善になり信仰は仁愛になるのである。(『天界の秘義』9224)

人は悪を罪として避ける限りにおいて信仰をもつ。

 人が悪を罪として避ける限りにおいて信仰をもつ。なぜなら上述のとおり、その限りにおいて人は善の中にいるからである。このことは、その逆から確認できる。悪を罪として避けない者は、信仰をもつことがない。なぜなら、その人は悪にとらわれ、悪は内的に真理を憎むからである。(『生命の教義』45)

外観上は、信仰が教会の第一原理であるが、実際は仁愛が第一である。

 教会を構成する二つのものがある。仁愛と信仰である。仁愛は情愛に属し、信仰はそこからの思考に属する。情愛はまさに思考の本質である。なぜなら情愛がなければだれも考えることができないからである。思考の中にあるいのちに属するものすべては、情愛からくる。ここから、教会の第一のものは仁愛または愛に属する情愛であることは明らかである。しかし信仰が教会の第一のものと言われている。なぜならそれが最初に現れるからである。(『黙示録講解』229)

信仰はいかに仁愛から形成されるか。

 すべての人に自然的心と霊的心がある。自然的心はこの世のために、霊的心は天界の生活のためにある。人は知性に関しては両方の世界にいる。しかし意志に関しては、悪を罪として避けそこから遠ざからない限りそうではない。人がこれを行うときに、人の霊的心は意志に関しても開くのである。そしてそれが開かれると、霊的ぬくもりが天界から自然的心に流入する。それは本質において仁愛であるぬくもりであり、それが人がそこにもっている真理の諸概念と善にいのちを与え、それらから信仰を形成するのである。(『信仰の教義』32)

真理はそれを行うことによって心の中に根づく。

 あらゆる真理は内的人間の中に種がまかれ、外部人間の中に根づく。したがって、それは実践することによって根づくのであるが、もしまかれた真理が外部人間の中に根づかなかったら、それは地面の中ではなく地面の上に置かれた木のように、太陽の熱によってすぐにしおれてしまう。この根は、その人が真理を実践していたら死後に獲得するものであるが、信仰においてのみ知り承認していた人にとってはそうではない。(『啓示による黙示録解説』32)

信仰のみ、あるいは仁愛なき信仰

 信仰のみの教義の中にいる人々は、実際は、いかなる信仰ももっていない。これはいかなる霊的信仰ももたない、いかなる教会の信仰ももたないという意味である。しかし彼らには自然的信仰がある。それは信じ込ませる(persuasivus)信仰といえるであろう。というのは、彼らは、聖言が神聖であると信じているし、永遠のいのち、罪の許し、多くのその他の事を信じている。しかし、仁愛のない人々にあっては、この信心は信じ込ませる信仰である。それは知らないことを信じることにほかならない。考えることも理解もされないが、信用するに足りる人が言っているという理由で、世間の他の人々から聞いて信じることにほかならない。このように、それは彼らの中にある他者の信仰であって、彼ら自身の信仰ではない。(『黙示録講解』232)

信仰のみの中にある人の間違い

 救いは信仰のみの中にあって、同時に信仰の生活、すなわち仁愛の生活にあるわけではないと考えている人々は、どのような生活を送ったかとは無関係に、だれでも天界に入り、主のもとに来ることができると思っている。彼らは、人のいのちが何であるか知らない。これを知らないので、いのちが重要であると思っていない。それゆえ、悪人が善人の間に存在しうるかと問われるなら、彼らは神の慈悲によって存在しうると答える。それは全能の働きだからというのである。実際、もし悪魔が天界の天使になることができるかと聞かれたら、彼が信仰を欲するなら、そうだという。またそれを受け入れる能力についても疑問を持たない。しかし、もし人にあっては悪が善に転換されることはない、地獄が天界に変えられることはない、またそれは秩序に反する、したがって神の真理に反する、ゆえに秩序そのものである神ご自身に反するので、そのような転換は不可能だと告げられるなら、彼らはこれに対して、そのようなことは救済についての間違った推論であり、どうでもよいことだと答える。これらのまたそれ以外の考察すべてから、信仰のみの教えによって、救済と永遠のいのちについて、いかに膨大な無知が生まれるかがわかる。(『天界の秘義』8765)

霊的光の源泉

 すべての人に外的思考と内的思考がある。内的思考は天界の光の中にあり、直覚(perceptio)と呼ばれる。外的思考はこの世の光の中にある。また、すべての人の知性は天界の光の中にも上げられるようにつくられており、もし喜んで真理を見たいと欲するなら上げられる。これが現実であるのは、私の長い経験からわかったことである。・・・というのは、愛と知恵の喜びは、思考を上昇させ、あたかも光の中にあるように、何かがそうであるとわからせるのである。たとえそれをかつて聞いたことがなかったとしても。(『啓示による黙示録解説』914)

主イエス・キリストへの信仰

 私たちが救世主である神イエス・キリストを信じるべき理由、すなわちキリストへの信仰を持つべき理由は、それが目に見える神への信仰だからである。そして目に見える神の中に、見えない神がおられる。そして人間であり同時に神である目に見える神への信仰は、人の中に入っていく。というのは、信仰は本質において霊的であるが、形式においては自然的だからである。したがって、信仰は人間にとって霊的自然的である。すべて霊的なものは、人にとって意味あるものであるためには、自然的なものにおいて受容されなくてはならない。あらわな霊的なものは、たしかに人に入っていくが、受け入れられることはない。それは何の効果もなく入っては出ていく空気(aether)のようなものである。効果が生み出されるためには、それは感じ取られ受容されなくてはならない。これらの両方が、人間の心の中のプロセスであるが、これは自然的レベル以外では人に起きないのである。(『真のキリスト教』339)

肯定的態度と否定的態度

 二つの基本的態度がある。一つはまったくの愚かさと狂気をもたらすもの、他方は完全な知性と英知をもたらすものである。前者はすべてを否定するときに生じる。つまり、それは心でつかみ感じとることによって納得できなければ何も信じることはできないと心の中で言う。これはまったくの愚かさと狂気につながる態度であり、否定的態度と言わなくてはならない。後者は聖言から引き出される教えを肯定的に見るときに生じる。つまり、それは主が語られたことであるから真理であると心の中で思い信じる。これは完全な知性と英知に導く態度であり、肯定的態度と言わなくてはならない。(『天界の秘義』2568)

信仰の果実

 信仰のみによる救いを広言する人々は、これらのことばを次のように言うことによってしか説明できない。すなわち、主が善行(opus)について語られたことは信仰の果実を意味するが、主がそれに言及されたのは、秘義について知らない単純な人々のためであったと。しかし彼らの意見によっても、信仰の果実は死後人を聖別し幸福にするものであるということになろう。信仰の果実とは、信仰の教えに調和したいのちにほかならない。そしてそれゆえに、これらの教えに調和したいのちこそ人を救うのであり、いのちのない信仰はそうではない。なぜなら、死後、人はあらゆるいのちの状態を自分にもっているからであり、したがって人は身体の中にいたときと同様なのである。(『天界の秘義』4663)

⇨仁愛と善行