永遠からの神的人間性
天界においては主の神的人間性(Divinum Humanum)がすべてである。その理由は、そこの住人はだれも、最内奥の第三天界の天使でさえ、神そのものの像を思い描くことはできないからである。ヨハネにおける主のことばによれば、「神を見た者はまだひとりもいない」。(ヨハネ1:18)「あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない」。(5:37)というのは天使は有限であり、有限なものは、無限の概念をもつことができないからである。したがって、もし天界において、彼らが人間の姿をした神の概念をもっていなければ、いかなる神の概念ももたなかったか、間違った概念をもったことであろう。その結果、信仰あるいは愛によって神と連結されることはできなかったであろう。このようなわけで、天界においては、彼らは人間の姿の神を認めているのである。したがって、天界においては神に関する洞察は、神的人間性がすべてである。ここから連結が、連結から救いが生まれる。(『天界の秘義』7211)
主の降臨以前において、エホバがこの世に出現されたとき、神は天使の姿で出現された。というのは、神が天界を通って来られる際、神はその姿、人間の姿を身にまとわれたからである。というのは天界全体は、そこにおける聖なるものによって、一人の完全な人間として存在するからである。それは巨大人(Maximus Homo)すなわち天界を論じたところで詳細に示されている。その時代においては、神的人間性がこのようにして存在したのである。エホバは天使という人間の姿で出現されたのであるから、それはエホバご自身であったこと、また実際の姿も神であったことは明らかである。それは天界における神だったのであるから。そして、これが永遠からの主であった。(『天界の秘義』10579)
受肉以前、主は天使として地上に来られた
聖言の中で、しばしばエホバの天使について言及されている。エホバの天使は、常によい意味で、主に関する、また主に由来する本質的な特性を表している。しかしそれが意味するものは、一連の関連を考えるなら、いっそう明らかになるであろう。人間に送られた何人もの天使がいた。彼らは預言者をとおして語った。しかし天使が語ったことは、彼ら自身から出てきたものではなかった。それは天使をとおして告げられたことだった。実際、そのときの彼らは、自らがエホバである、主であるということしか知らないような状態だった。しかし、話し終わるとすぐに以前の状態に戻り、普通どおりに自分から語ったのである。これが、主のことばを語った天使に起きたことだった。私は、そのことを今日、他生で同様の経験をすることによって知ったのである。これが、天使たちがしばしばエホバと呼ばれる理由である。それは、しばの中でモーセに現れた天使からも明らかである。それについてはこのように書かれている。「ときに主の天使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。・・・神はモーセに言われた「わたしは、有って有る者」。また神は言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。・・・神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と(出エジプト記3:2,14,15)。これらのことばから次のことが明らかである。しばの中の炎としてモーセに現れたのは天使であった。そして彼はエホバとして語った。それは、主あるいはエホバが、彼をとおして語られたからである。(『天界の秘義』1925)
無限そのものは、神的人間性によらなければ明示することができない
すべての天界の上にあり、また人間の最内奥の上にある無限そのもの(Ipsum Infinitum)は、主のみに存在する神的人間性による以外、明示することができない。無限と有限の交信は、それ以外の方法では不可能である。これが、エホバが最古代教会の人々に出現されたとき、続いてノアの洪水後の古代教会の人々に出現されたとき、その後、アブラハムや預言者たちに出現されたとき、神が人間の姿で来られた理由である。これは主であったと、次のように、神ご自身がはっきり教えておられる。「ユダヤ人たちはイエスに言った、『あなたはまだ50にもならないのに、アブラハムを見たのか』。イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである」。(ヨハネ57:5)(『天界の秘義』1990)
受肉
エホバ神は、人間を贖い救うために降臨され、人間性を身にまとわれた。今日キリスト教会では、神、宇宙の創造者が永遠から子をもうけ、この子が人間を贖い救うために降臨し、人間性を身にまとったと信じら れている。しかし神は一者であるということを考えると、これは誤りであるし、おのずから破綻する。そして一人の神が、一人の息子を永遠から生んだ、また父なる神、子、聖霊は別々の神であるが、一人の神であると言うことは、理性に照らして奇抜という以上におかしい。この奇妙な考えは、エホバ神自身が降臨し、人となり、救い主となられたことが聖言から明らかになると、空の流れ星のように完全に消散する。第一点、エホバ神自身が降臨し人となったについては、次の一節から明らかである。「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」(イザヤ7:14、マタイ1:22,23)「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれる。ひとりの男の子がわれわれに与えられる。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる(イザヤ9:6)。(『真のキリスト教』82)
エホバ神は、神の真理として地上に来られた
真理は善の形である。すなわち、善が知性によって理解されるように形を与えられるとき、それは真理と呼ばれる。(『天界の秘義』3049)
神の本質をなすものが二つある。神の愛と神の知恵である。あるいは、同じことだが、神の善と神の真理である。聖言においては、エホバ神によって、これら二つが意味されている。すなわち、エホバによって神の愛・神の善が、神によって神の知恵・神の真理が意味されている。したがって、聖言においては、あるときはエホバとだけ呼ばれ、あるときは神とだけ呼ばれるなどして、両者は区別されている。神の善が扱われているところではエホバと呼ばれ、神の真理が扱われているところでは神と呼ばれ、両方が扱われているところではエホバ神と呼ばれている。エホバ神は、神の真理として地上に来られた。それが聖言である。そのことは、ヨハネ福音書に書かれているところから明らかである。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。このことばは初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。・・・そしてことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った(ヨハネ1:1,3,14)。(『真のキリスト教』85)
聖言において、主は神の善に関してはエホバと呼ばれる。神の善は、神そのものだからである。そして主は、神の真理に関しては、神の子と呼ばれる。というのは、神の真理は神の善から出てくるからである。それはちょうど父から子が生まれるようなものなので、生まれると言われる。(『天界の秘義』7499)
しかし神の善が切り離されることはなかった
繰り返し述べるように、真理は善から離れて存在し実在することはありえない。ここで「子」が神の真理を表し、「父」が神の善を表す理由は、神の本質と人間の本質の結合、そして人間の本質と神の本質の結合は、神の善と神の真理の結婚であり、神の真理と神の善の結婚だからである。そしてその結婚から天界の結婚が生まれる。エホバの内部、主の内部には、無限なもの以外何もない。したがって、神はすべての善と真理の存在であり実在(Esse et Existere)であるという考え以外の何ものも生まれてこない。すなわち神は善そのもの、真理そのものである。善そのものは父であり、真理そのものは子である。聖なる結婚は、善そのものと真理そのもの、真理そのものと善そのものの結婚であるから、父は子におられ、子は父におられる。それは主がヨハネ福音書の中で教えられたとおりである(ヨハネ14:10,11)。(『天界の秘義』2803)
神は、神の真理として降臨されたが、神の善を切り離されることはなかった。そのことは、「いと高き者の力がマリアをおおう(ルカ1:35)」という受胎についての記述から明らかである。いと高き者の力とは神の善のことである。同じことが次のような主のことばからも明らかである。父は主におられ、主は父におられる。父のものは、すべて主のものである。父と主はひとつである。その他たくさんある。父によって神の善が意味されている。(『真のキリスト教』88)
受肉の理由
人間の天的なものがすべて失われた後、つまり神への愛がすべて失われた後、その結果として、善への意志はもはや存在しなくなり、人類は神から切り離されてしまった。というのは、愛よりほかに連結を可能にするものはないからである。そして、愛がなくなったときに分離が起きた。その結果が、破壊であり絶滅であった。それゆえその時に、この世への主の降臨の約束がなされたのである。主は、その人間性と神性を結合され、この結合をとおして、愛と仁愛に根ざした信仰によってご自身にとどまる人類を連結されるであろう。その最初の約束(創世記3:15)のときから、来るべき主への愛に根ざす信仰が、連結を可能にしていた。しかしながら、地上に、もはやそのような信仰が存在しなくなったとき、主は来られ、その人間的本質を神性に結合された。そして、主ご自身がはっきり言われたとおり、両者は完全に一つになった。同時に、主は真理への道を教えられ、次のことを明らかにされた。主を信じる者、すなわち主と主に属するものを愛する者、また主の愛にとどまる者、すなわち人類全体に向けられた愛にとどまる者は、連結され、救われると。主の中で、人間性が神的になり、神性が人間的になると、人間に、無限なるもの、至高の神性の流入が起きたのである。それは、他のどんな方法でも起きなかったであろう。そして、その流入によって、恐ろしい誤った信仰や恐ろしい悪への欲望が一掃されたのである。それまで霊界には、そのような信仰や欲望が充満していたのであり、この世から流入してくる人間によって充満し続けていたのであった。しかし、そのような悪や誤謬の中にいた者は、地獄に投げ入れられ、こうして切り離されたのであった。そのような悪と誤謬の一掃がなければ、人類は完全に滅んでいたにちがいない。なぜなら、主が人間を管理されるのは霊をとおしてだからである。そのような悪と誤謬の一掃は、他のどんな方法によっても不可能であった。というのは、神が合理的なものによって人間内部の感覚に働きかけることはできなかったからである。なぜなら、結合がないとき、これは至高の神のはるか下にあったからである。(『天界の秘義』2034)
その秘義は次のとおりである。主が地上に来られる以前、人間と霊にはエホバあるいは主からいのちの流入があった。それは天界をとおって、つまり天界の天使をとおって流入した。これが、当時の彼らの力の源であった。しかし、主が降臨された時、そしてそれによって、ご自身の人間性を神的なものにされた時、主はそれまで天使がもっていた力と支配をご自身のものにされた。というのは、神から天界をとおって流れたものは、以前は、人間的神性(Humanum Divinum)だったからである。その流入は、また、姿を現わされた神的人(Divinus Homo)であった。しかしこの人間的神性は、主がご自身の人間性を神的なものにされた時に終了したのである。(『天界の秘義』6371)
なぜイエスは神から出た、神から来た、つかわされたと言われるのか
霊的意味では、「出てくる」「生じる」は、人に受け入れられるような形で、その人の前に姿を現すことである。つまり同じ人が現れるのであるが、異なる形で現れるのである。この意味における「出てくる」が、ヨハネ福音書の中で主について語られている。「イエスはご自身について言われた。わたしは神から出た者、また神からきている者である」。(8:42)「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである。弟子たちは言った、・・・わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。(16:27,28,30)「彼らは、わたしがあなたからでたものであることを信じるに至った」。(17:8)
「出てくる」「生じる」の意味を説明するために、次のような例を取り上げてみよう。真理が善のもつ形であるとき、つまり真理が、理解できるような姿で存在する善であるとき、真理は善から出てくる、生じると言われる。また、知性が意志のもつ形であるとき、つまり意志が人の内的光で感知できるような姿で存在するとき、知性は意志から出てくる、生じると言われる。同様に、知性の活動である思考が発話に転化されるとき、それは出てくる、生じると言われる。意志が行為に転化されるときも、それが出てくると言われる。思考が発話に転化されるとき、それは異なる姿をとるが、それはなお、出てくる、生じる思考なのである。なぜなら、思考が身にまとっていることばや音は、思考が正しく感じ取られるように、追加されたものにすぎないからである。同様に、意志が行為になるとき、意志は別の形をとる。しかしなお、それはそのような姿で現れた意志なのである。身振り手振りや行動は、意志が見る人に正しく伝わるようにするための単なる追加にすぎない。同様に、それは外部人間についても言えるであろう。つまり、外部人間は内部人間から出てくる、生じると。いや、実質的にそうなのである。なぜなら、外部人間は、内部人間がこの世できちんと行動できるように与えられる姿にほかならないからである。これらすべての事例から、「出てくる」「生じる」の霊的意味は明らかであろう。主について「出てくる」「生じる」が語られるときは、信じる者に受け入れられるように、人間の姿を取った神性を意味するのである。(『天界の秘義』5337)
主の遺伝悪
主には母親からの遺伝悪があったと言うと、人は驚くかもしれないが、創世記13:7にはっきり述べられている。その内的意味は主に関するものなので、主に遺伝悪があったことは疑いない。だれでも、人間の親から生まれて悪を受け継がないわけにはいかない。しかし父親からの遺伝悪と母親からのそれはまったく違う。父親からの遺伝悪は、より内的であり、永続的である。それは根絶できない。主にはそのような悪はなかった。主は、エホバを父としてお生まれになったのであり、内部は神でありエホバだったからである。しかし母親からの悪は、外部人間に付随し、主にあったのである。・・・主は、このように他の人々と同じように生まれ、だれもがもつ弱点をもっておられた。
主が母親からの遺伝悪を受け継がれたことは、試練に会われたところから明らかである。悪のない人は試練に会うことがない。そそのかすのは人にある悪であって、それによって人は試練に会うのである。主は試練に会われた。普通の人がその千分の一の試練にも耐えられないような深刻な試練に会われた。そして主は一人で耐えられ、ご自身の力で悪に、悪魔に、そして全地獄に勝利されたのである。・・・
また天使は悪魔にそそのかされることがない。なぜなら天使は主の内にいるので、悪霊はたとえ遠くからでも近づくことができないからである。近づけば悪霊はただちに恐怖に捉えられるであろう。もし主が神聖なものとしてお生まれになっていたら、つまり母から受け継いだ悪がなかったなら、地獄はなおさら主に近づくことができなかったであろう。また、主は人類の罪科を背負われたと説教師たちはふつうに語ってきた。しかし、不正や悪が主に入りこむことは、遺伝的な流路をとおしてでなければ起こりえないことだった。神が悪の影響を受けることはありえないからである。したがって、主がご自身の力によって悪を克服するためにーそれはこれまでどんな人間にもできなかったことであり、現在もだれもできないことであるーそうすることでご自身を唯一正義とされるために、主は他の人々と同じように人間として生まれることを望まれたのである。そうでなければ、主はお生まれになる必要はなかったのである。というのは、主は誕生という過程を経ることなく人間的本質を身にまとうことができたからである。事実、最古代教会の人々や預言者たちによって見られたように、主はときどきそうされたのである。それゆえ、主がそれに対して戦い、克服する悪を身につけるために、そしてそうすることによって神的本質と人間的本質をご自身の中で一つにするために、主は降臨されたのである。(『天界の秘義』1573)
主はご自身の力で、人間性を神的なものにされた
主は、よく知られているように、普通の人と同じようにお生まれになった。つまり幼児期においては、他の幼児と同じように話すことを学ばれ、それから知識を増やし、知性においても、英知においても成長された。主の人間性は、生まれながらに神的なものであったのではなく、ご自身の力でそれを神的なものにされたことが明らかである。それは主ご自身の力によるものだった。なぜなら、主はエホバを父としてお生まれになったのであり、主のいのちの最内奥はエホバご自身であったからである。というのは、魂と呼ばれる人のいのちの最内奥は父から来るのであり、その最内奥が身に着ける身体は母親から来るからである。父から来るいのちの最内奥は継続的に流入し、母から来る外部に作用して、胎内においてさえ、これを自らと同じものにしようとする。このことは、子どもが父親の気質を受け継いで生まれてくる事実、孫やひ孫が祖父や曾祖父の気質を受け継いで生まれてくる事実から確認できるであろう。その理由は、父親に由来する魂は、母親からくる外部を、常にそれ自身に、自らの形にしようと欲するからである。これは人間においてそうであるから、主においては、とりわけそうであったにちがいない。主の最内奥はまさに神であった。それはエホバご自身であった。主はエホバのひとり子だったからである。そして最内奥は神そのものであったので、神はどうして人間以上に、母からくる外部をご自身の像に、似たものにされないであろうか。そして母からの人間性を神的なものにされないであろうか。主はこれをご自身の力でされたのである。なぜなら、主がそこからその人間性に働きかけた最内奥、すなわち神的なものは、主ご自身のものだったからである。それはちょうど、人間の最内奥である魂が、その人のものであるのと同じである。そして、主は神の秩序にしたがって前進されたので、地上におられるときに、ご自身の人間性を神の真理にされ、その後、完全に栄化されたときに、それを神の善にされ、エホバと一つになられた。(『天界の秘義』6716)