Swedenborg Sampler
贖い
贖いとは、地獄の征服であり、天界の管理であり、このようにして新しい霊的教会のための準備をすることであった。(『真のキリスト教』115)
そのような贖いがなければ、だれも救われなかったであろう。また天使も無傷であり続けることはできなかったであろう。(『真のキリスト教』118)
最初の降臨
主は、人類を救うためにこの世に来られた。さもなければ人類は滅び、永遠の死が訪れたであろう。主は、この世に来る人この世を去る人すべてを悩ませていた地獄を征服することによって、そして同時に、ご自身の人間性を栄化することによって人類を救われた。というのは、このようにして主は地獄を永遠に支配下に置かれたからである。地獄の征服、同時に、主の人間性の栄化は、母親に由来する人間性が試練に会うというやり方で、そしてそれに継続して勝利することによって成し遂げられた。十字架の受難は、最後の試練であり勝利の完成であった。(『新エルサレムと天界の教義』293)
この愛の天界的な本質は、自分自身のために生きるのではなく、すべての人のために生きることを願う。このように自分自身のものを他者に分け与えることを願う。天界的愛の本質は、まさにここにある。主は愛そのものであり、天界におけるすべての人の愛の本質であり、いのちであるから、ご自身のすべてのものを人類に分け与えることを望まれる。それが、「人の子は多くの人の罪の贖いとして自分のいのちを与えるために来た」と主が語られたときに意味されていたことである。(『天界の秘義』1419)
主は、継続的に母親に由来する人間性を脱ぎ捨てられ、主の神性に由来する「人間性」を身につけられた。それが神的人間性であり、神の子である。(『主についての新エルサレム教義』35)
主は、初めから母に由来する人間性をもっておられ、それを継続的に脱いでいかれた。それゆえ、主がこの世におられた間、主には二つの状態があった。ひとつは謙遜(humiliatio)または空虚(exinanitio)の状態、もうひとつは栄化(glorificatio)または父と呼ばれる神との結合(unitio)の状態である。主が母からの人間性の中におられるかぎり、そしてそのとき、主は謙遜の状態にあった。主が父からの「人間性」の中におられるかぎり、そしてそのとき、主は栄化の状態にあった。謙遜の状態のとき、主は、ご自身とは異なる他者に祈るかのように父に祈られた。しかし栄化の状態のとき、主はご自身と話をするように、父と語られた。後者の状態のとき、主は、父は自分の中におられ、自分は父の中にいる、また父と私はひとつであると語られた。しかしながら謙遜の状態のとき、主は、試練に会い、十字架に苦しまれ、自分を見捨てないように父に祈られた。なぜなら、神は試練に会うことはありえないし、ましてや受難に会うことはないからである。(『主についての新エルサレム教義』35)
主は、ご自身の霊についてのみならず、身体についても蘇られた。なぜなら、主はこの世におられたとき、ご自身の全人間性を栄化された、つまり神的なものにされたからである。主が父から受けられた霊は、それ自体神そのものであった。そして身体は、霊の類似物、つまり父的なもの、神的なものにされた。したがって、主は、他のどんな人間ともちがって、その両方について蘇られたのである。(『天界と地獄』316)
その教義によれば、主の中で、神と人は二人ではなく一人である。ちょうど霊と体がひとつであるように、完全にひとつであることは、主ご自身が語られた多くのことから明らかである。たとえば、父と主はひとつである、父のすべてのものは主のものである、主のすべてのものは父のものである、主は父の中にあり父は主の中にある、すべてのものが主の手に与えられている、主はすべての力をもっている、主は天と地の神である、誰でも主を信じる者は永遠のいのちを得る、のように。(『主についての新エルサレム教義』60)
人間性は、それ自体、神からのいのちを受容する形にすぎない。しかし、主の栄化された人間性、主の神的人間性は、神からのいのちを受容する形ではなく、いのちの存在(Esse)そのものである。そしてそこから出てくるものがいのちである。(『天界の秘義』5256)
主がこの世におられたとき、主に、全人類への愛のいのち以外のいのちはなかった。主は全人類を永遠に救いたいと強く願われた。このいのちは、それ自体、天界的いのちそのものであり、それによって主は、ご自身を神に、神をご自身に結合された。というのは、存在(Esse)それ自体、すなわちエホバは、慈悲以外の何ものでもないからである。そして慈悲は、全人類への愛の現れである。そしてそのいのちは、純粋な愛のいのちであった。そしてそれは、他のどんな人間にも存在しえないものであった。いのちが何かを知らない人々、いのちの本質は愛の本質によって決まることを知らない人々は、このことがわからない。(『天界の秘義』2253)
人が主と結ばれるとは、人が主の至高の神性そのものと結ばれるのではなく、主の神的人間性と結ばれるということである。なぜなら、人は主の至高の神性について、いかなる観念ももつことができないからである。それは人間の観念をあまりに超越しているので、視界から消え、無に帰する。しかし、主の神的人間性については、ある観念をもつことは可能である。・・・したがって、ヨハネによる福音書に、いまだかつて神を見たものはいない、生まれたひとり子だけが神をあらわしたと言われているのである(ヨハネ、1:18)。また主によらなければ、父に至る道はない、したがって主は仲保者であると言われているのである。(『天界の秘義』4211)
再臨
主の再臨とは、われわれが目にする天空と住むに適した大地を滅ぼし、新天新地を創造するために来られるという意味ではない。しかし、多くの人々は、聖言の霊的意味がわからないので、そのように考えている。今日の教会に一般に受け入れられている見解によると、主が最後の審判を行うために来られるとき、主は多くの天使を伴って、ラッパの音とともに、天の雲に乗って来られるであろう。そして地上の住人を、これまで亡くなった人とともに、すべて集められるであろう。そして羊飼いが羊とヤギを分けるように、善人と悪人を分けられるであろう。そして主は、悪人あるいはヤギを地獄に投げ込まれるであろう。そして善人あるいは羊を天界に上げられるであろう。同時に、主は新しい天と地を創造されるであろう。主はここに新しいエルサレムという都市をもたらされるであろう。・・・すべての選ばれた人々は、そのときに生きている人も、世界のはじまりからすでに亡くなっている人も、この都市に集められるであろう。彼らはもとの自分のからだに戻り、その壮大な都市で、永遠に続く喜びを経験するであろう。それが彼らにとっての天界となるであろう。これが現在のキリスト教会における主の再臨と最後の審判についての支配的な見解である。(『真のキリスト教』768)
主の再臨は、悪人が善人から分離されるために、そして主を信じてきた人々、現在も信じている人々が救われるために、そして新たな天使的天界と新たな地上の教会が、かれらから形成されるために起きる。この再臨がなければ、だれも救われないであろう。(『真のキリスト教』772)
主の再臨の目的は、これまで主を信じてきた人々からなる新しい天界をつくるため、また、これから主を信じるであろう人々からなる新しい教会を設立するためである。これらが主の再臨の二つの目的である。主が全世界を創造された目的は、まさしくここにあった。つまり人類から成る天使的天界をつくるためである。そこでは主を信じるすべての人々が、永遠の喜びの内に生きるであろう。神の有する神聖な愛、それが本質的に神であるが、それは、これ以外の何ものも意図することができない。そして神の有する神聖な真理、それが神であるが、それは、それ以外のどんな結果も生み出すことができない。(『真のキリスト教』773)
主の再臨は、主本人の再臨ではなく、聖言における再臨である。というのは、聖言は主から来ており、主ご自身だからである。多くの箇所で、主は天の雲に乗って来られると書かれている。しかしこれまで、誰も天の雲の意味がわからなかった。そのため人々は、主ご自身が雲に乗って来られると信じてきた。しかし、天の雲によって、文字の意味における聖言が意味されており、主が来られる際の力と栄光によって、聖言の霊的意味が意味されている。そのことが、今日まで明らかにされることがなかった。それは、これまでだれも、聖言に霊的意味があるということを考えることさえなかったからである。実はこの例にみられるように、本当は霊的意味があるのである。これまで、主は私に聖言の霊的意味を啓示され、私が霊界であたかもその世界の一人であるかのように、天使や霊たちと交流することを許されたので以下のことが明らかになった。天の雲は、自然的意味における聖言である。栄光は、霊的意味における聖言である。力は、聖言を通した主の力を意味する。(『真のキリスト教』776)
この主の再臨は、一人の人間を使って行われる。主は、ご自身の聖言を使って新教会の教義を教えるために、その人物の前にじかに姿を現され、彼をご自身の霊で満たされる。・・・主は、主の僕である私の前に姿を現され、この使命のために私を送られた。そしてその後、私の霊の視力を開かれ、こうして私を霊界に招き入れられ、私が天界と地獄を見、また天使や霊と話をするようにされた。そしてこれが、今や何年もの間続いていること、そしてこの召命の最初の日から、その教会の教義に属するどのようなことも、私が聖言を読んでいるときに、天使からではなく、主のみから与えられたことを事実として証言する。(『真のキリスト教』779)