死後のいのち1

Swedenborg Sampler

霊魂と身体

 すべて人は、心の内部において霊であり、それが物質的身体を身にまとった存在である。身体は、霊が考えたことや情愛の決めたことに従う。なぜなら、心すなわち霊が行為し、物質である身体は反応するにすぎないからである。すべて霊は、物質的身体を脱ぎ捨てた後も、この世の人間と同じように、形において人間である。(『黙示録講解』1142)

 人の内部は、死ぬことができないように創造されている。というのは、人は神を信じ、愛することができ、したがって信仰と愛によって神に連結されうるからであり、そして神に連結されるとは、永遠に生きることだからである。この内部が、生まれてくる人すべてに存在する。外部は、それによって信仰と愛に属することを実現するためのものである。内部は霊と呼ばれ、外部は身体と呼ばれる。身体と呼ばれる外部は、自然世界における役立ちに対応している。これは人が死ぬときに脱ぎ捨てられる。しかし霊と呼ばれる内部は、霊的世界における役立ちに対応しており、死滅することがない。この内部は、この世で善く生きれば善霊になり天使になるが、もしこの世で悪い生き方をすると悪霊になる。(『新エルサレムと天界の教義』223、224)

 人は、霊界と自然界に同時に存在するように創造されている。霊界は天使がいるところであり、自然界は人間がいるところである。そのように創造されているので、人には内部と外部が与えられている。内部によって、人は霊界にいる。そして外部によって、自然界にいる。この内部と外部は、人間の霊魂の内部と外部である。身体は、人がその内に存在するための追加的な外部にすぎない。(『新エルサレムと天界の教義』36、46)

 身体は、それ自体ではなにもしない。ただ知性と意志の指示に完全に従って動くだけである。それゆえ、人は考えることをなんでも、舌と口を用いて表現するし、意図することを、体と手足をつかって行う。したがって、行為者は知性と意志であって、身体自体ではない。ここから、知性と意志が人間性を構成すること、そしてちょうど内的なものが外的なものの中にあるように、それらが身体のどんな小さな部分も動かすのであるから、それらは同一の形の中にあること、そしてそれゆえ、人は内的人間、霊的人間と呼ばれることが明らかである。天界は、最大かつもっとも完全な形のこのような人間である。(『天界と地獄』60)

 天使たちは、人間の身体活動には注意を払わない。彼らが注目するのは、身体活動を生み出す意志である。なぜなら彼らは、意志を、また意志と一体になって行為するかぎりにおいて知性を、人間自身と呼んでいるからである。(『天界と地獄』61)

死と復活

 人の身体が、その霊の思考と情愛に反応して、自然界における機能を果たすことができなくなるとき(身体は、それを霊界から引き出しているのである)、人の死と言われる。これは、肺の呼吸と心臓の拍動が止まるときに起きる。しかしそのとき、人は死ぬのではなく、ただこの世の役立ちのためにもっていた身体的部分から分離されるにすぎない。というのは、人はまだ生きているからである。人は生きていると言われる。というのは、人は身体によって人間であるのではなく、霊によって人間だからである。というのは、霊が人の中で考え、情愛をもった思考が人を構成するからである。したがって人が死ぬとき、人は一つの世界から別の世界に移行するだけだということが明白である。(『天界と地獄』445)

 人が死ぬとき、人は自然界から完全に離れ、そこに属するすべてのものを残して、自然とは無縁の世界に入る。その世界で、人は自然と完全に切り離されて生きるので、純粋さや粗さの程度のような連続性による自然との交信(communication, communicatio)をもつことがない。前のものと後のもののような間での交信があるのみである。そのようなものの間には、照応による以外の交信はない。(『神の愛と智恵』90)

 この世で悪の中にいる者は、この世を離れた後、悪の中にいる。というのは、もし悪がこの世で除去されなければ、その後で除去されることはないからである。木は倒れたところにそのままある。そのように、人のいのちは、死ぬと従来と同じ状態に留まる。(『神の摂理』277a)

 この世の人間すべてがそうであるように、空間的思考に頼る人は、地獄も天界も人間から遠いところにある場所だと思っている。しかし本当はそうではなく、天界も地獄も人の近くにある。実際、それらは人の中にある。地獄は悪人の中に、天界は善人の中にある。人はだれでも、死後、自分がこの世でいた地獄あるいは天界に入っていくのである。しかしそのとき、状態が変化する。この世では知覚されなかった地獄が知覚されるようになり、この世で知覚されなかった天界が知覚されるようになる。天界は幸福で満たされ、地獄は不幸で満たされている。(『天界の秘義』8918)

 この世で知性と英知を獲得した人はすべて、その知性と英知の質と段階に応じて、天界に受け入れられ、天使になる。人がこの世で獲得するものは、なんであれ、その人の内に留まるからである。死後も、人は獲得したものをもっているし、そこでは、その人の真理と、善の情愛と、欲求のレベルまで、増加し膨らんでいくが、そのレベルを超えることはない。情愛と欲求をほとんどもたなかった人は、ほとんど受け入れないが、それでも自分自身のレベルで受け入れることができる程度までは受け入れる。大きな情愛と欲求をもった人は、多くを受け入れる。愛情と欲求のレベルは、縁まで一ぱいになる升のようなものである。それが大きな人は多くを受け入れ、小さな人は少量を受け入れる。(『天国と地獄』349)

 すべてキリスト教徒は、聖言から、人のいのちは死後もその人に留まることを知っている。というのは、人は行いと働きに応じて裁かれ、報われると、聖書の多くの箇所で言われているからである。それ以上に、ほんとうに善と真理から考える人は、良い生き方をすれば天界に行き、悪い生き方をすれば地獄に行くと考えざるをえない。しかし悪人は、死後のいのちがこの世での生き方で決まるとは信じようとしない。そして彼らは、とくに病気になると、人はどのような生き方をしたかとは無関係に、ただ慈悲によってだれでも天界に入れてもらえる、それは生活とは切り離された信仰次第だと信じるのである。(『天界と地獄』470)

 聖言で言われる「いのちの書」とは、人が行ったこと、考えたことのすべてが、その人のすべてに刻まれているという意味である。そして、それらが記憶から呼び出される時は、あたかも本を読むように現れる。そして人の霊魂が天界の光の中で見られるとき、それらは一種の映像のように現れるのである。(『天界と地獄』463)

 だれでも、この世を去るときは、同じいのちの状態であの世に入っていく。幼児は幼児の状態で、子どもは子どもの状態で、若者、大人、老人はそれぞれ若者、大人、老人の状態で入っていく。しかしその後、すべての人の状態は変化する。(『天界と地獄』330)

 子どもたちが死から目覚めると(それは死後すぐに起きる)、すぐに天界に連れていかれ、女性天使の保育に委ねられる。女性天使は、生前、子どもたちを優しく愛し、同時に神を愛した人たちである。彼女たちは、この世ですべての子どもたちを優しく愛したので、これらの新たな子どもたちを自分自身の子どもとして受け入れるし、子どもたちは、生来の傾向から、彼女らをあたかも自分の母親であるかのように愛する。(『天界と地獄』332)

 知性と英知によって天使になる。子どもたちが、まだこれらの知性と英知を持っていないなら、天使とともにいても、まだ天使ではない。しかし、彼らが知的で賢明になると、その時、はじめて天使になる。・・・その時、彼らは子どもではなく、大人のように見える。というのは、彼らはもはや子どものような精神ではなく、より成熟した天使的精神だからである。知性と英知がこれを生み出す。・・・天界の子どもたちは、青年時代を超えて年取ることはなく、永遠に青年時代に留まる。(『天界と地獄』340)

 外形的には、霊界は自然界とまったくよく似ている。陸地、山、丘、谷、平原、野原、湖、川、泉、すなわち鉱物界のあらゆるものが、自然界と同様にそこにある。そこにはまた、公園、庭園、果樹園、森があって、果実と種のなるあらゆる種類の木々、灌木、花、薬草、雑草、すなわち植物界に属するあらゆるものがある。また、あらゆる種類の動物、鳥、魚、すなわち動物界に属するあらゆるものがいる。そこにいる人は、天使と精霊である。以上のことが述べられるのは、霊界には、自然的なものは何もなく、すべては霊的であるから、自然界のように固定的、静態的ではないという違いはあるが、それ以外は、霊界は自然界にまったくよく似ているということを知らせるためである。(『神の愛と智恵』321)

精霊界

 精霊界は、天界でも地獄でもない。それは両者の中間的場所ないし状態である。そこは、人が死後最初に行く場所である。それから一定の時間を経て、そこでのいのちの状態に応じて、人は天界に上るか、もしくは地獄に落ちる。(『天界と地獄』421)

 今日ほとんどの人が、知性から、また知識から、真理を知り、真理について考えるという状態にある。人は、その多くを行う。あるいはいくつかを行う。あるいは何もしない。あるいは反対に、悪への愛から、すなわち誤謬への信仰から、真理に反して行為する。それゆえ人は、自分の中に天界をもつか、地獄をもつかするために、死後、まず精霊界に入れられる。そこにおいて、天界に上げられる人の場合は、善と真理の連結が起きるし、地獄に落とされる人の場合は、悪と誤謬の連結が起きる。というのは、天界であれ地獄であれ、だれも分裂した心の状態で、すなわち理解することと行うことは別という状態で、入っていくことを許されていないからである。人は、したいことを理解しなくてはならないし、理解することをしなくてはならない。したがって天界では、善を行う人が、真理を理解するし、地獄においては、悪を行う人が、誤謬を理解する。こうした理由で、精霊界においては、善人から誤謬が取り除かれ、彼らの善にふさわしい真理が与えられるし、悪人からは真理が取り除かれ、彼らの悪にふさわしい誤謬が与えられる。(『天界と地獄』425)

 死後の最初の状態は、この世にいるときの状態と似ている。なぜなら、人は同様に外部にいるからである。したがって人は、同じ顔、同じ話し方、同じ気質をもち、同じ道徳的・市民的生活を続ける。したがって、人が出会うものを意識しなければ、そして蘇ったときに天使によって告げられること、つまり今あなたは霊であるということを意識しなければ、人はまだこの世にいると思う。こうして人のいのちは来世に続く。死は通過点にすぎない。(『天界と地獄』493)

 外部の状態である第一段階を通過すると、霊は内部の状態、あるいは内的意志とその結果としての内的思考の状態に入れられる。それは生前、現世で人が自分自身で自由に制約されずに考えていた状態である。人は、この状態にそれと気づかずに入っていく。ちょうどこの世で、自分の発言にもっとも近い考え、すなわち発言の直接の源泉となる考えを、内的思考に引き入れ、そこでしばし思案するようなものである。したがって、この状態にあるとき、人は自分自身の中にあり、まさに自分のいのちの中にいる。というのは、自分自身の情愛から自由に考えることは、まさに人間のいのちであり、その人自身であるから。(『天界と地獄』502)

 悪霊は、この第二の状態にあるとき、あらゆる種類の悪へと突進するので、通常、しばしば厳しく罰せられる。精霊界には多くの種類の罰がある。そして、生前、国王であったか召使であったかといった考慮はなされない。あらゆる悪には、それ自体の罰が伴う。両者は結びついているので、悪の中にいる者は、その悪の罰の中にもいるのである。しかし、だれも生前に行った悪のために罰せられることはない。そのときの悪行のために罰せられるのである。しかし、それは結局は同じことになるし、同じことである。・・・というのは、だれもが死後、自分自身のいのちに戻り、同様の悪の中に戻っていくからである。人の本性は、身体のいのちの中にあったときと同一のものに留まる。悪霊は罰せられるが、それは、この状態のときには、罰への恐れが、悪を和らげる唯一の方法だからである。忠告は役に立たないし、教えも、法律への恐れも、評判が悪くなる恐れも役に立たない。なぜなら、今や、霊は自分の本性から行為するからであり、それは罰による以外に、制御されえないからである。(『天界と地獄』509)

 死後の人(精霊)の第三の状態は、教えを受ける状態である。この状態は、天界に来て天使になる人のためのもので、地獄に行く人のためのものではない。というのは、彼らは教えを受けることができないからである。したがって彼らの第二の状態が、また第三の状態になる。その結果、完全に自分自身の愛に向けられた存在になり、同じような愛の中にいる地獄の社会へと向かう。・・・しかし、善人は第二の状態から第三の状態へと導かれる。そこは教えによって天界への準備をする状態である。というのは、だれも善と真理の知識なしに、すなわち教えを受けることなしに天界への準備をすることはできないからである。なぜなら、だれも教えられなければ、霊的善とは何か、霊的真理とは何かを知ることはできないし、その反対物である悪と誤謬の本質が何かを知ることはできないからである。(『天界と地獄』512)

 死後のいのち2