神のことば

Swedenborg Sampler

神のことば

 神からの啓示がなければ、人は永遠のいのち、あるいは神についても何も知ることができない。神への愛や信仰についてはなおさら知ることができない。というのは、人はまったくの無知の中に生まれるからであり、それゆえ世俗の事柄から学ばなくてはならず、そこから知性を形成していかなければならないからである。(『新エルサレムと天界の教義』249)

 人は、新しいいのち、つまり霊的いのちに属することについて知らなければ、決して再生されることはできない。新しいいのちに属する事柄、霊的いのちに属する事柄とは、信ずべき真理であり、なすべき善である。前者は信仰に属し、後者は仁愛に属する。これらのことを、誰も自分自身から知ることはできない。というのは、人は感覚に明白なものしか理解できないからであり、感覚から自然の光と呼ばれるものを受け入れるからである。そこからこの世と自分以外何も見えなくなり、天界と神に関することは見えなくなるからである。これらのことを、人は啓示から学ばなくてはならない。それは次のようなことである。永遠から神である主が、人類を救うためにこの世に来られた。主は天界と地上におけるすべての力を持っておられる。すべての信仰、すべての仁愛、つまりすべての真理と善は、主から来る。天界と地獄がある。人はもし善をなせば天界で、悪をなせば地獄で、永遠に生きる。(『新エルサレムと天界の教義』177)

 人は、理性でわからないことは何も受け入れない。それは、人が神聖な秘義について抱いている観念から明らかである。世俗の事柄やそれに類する事柄からえられた考えが、いつもこれらの観念についてまわるし、それが記憶に留まる。そして思考の中で再生産される。というのは、世俗の事柄からえられる観念なしには、人は何も考えることができないからである。それゆえ、もし神に由来する真理がそのまま示されるなら、それは決して受け入れられないであろう。人間の理解力、信念を完全に超越したものになるであろう。(『天界の秘義』2320)

 聖言の文字の意味の真理は、ある程度、真理そのものではなく、真理の外観にすぎない。また自然に存在するようなものから取られた相似や比喩的表現である。このように、それは無学な人や子どもの能力に配慮し調整されているのである。しかし、それらは対応(correspondentia)であるから、真理の器であり、真理の住居である。(『聖書についての新エルサレム教義』40)

 本当の真理の教義を、聖言の文字の意味から引き出すことは十分に可能である。というのは、その意味での聖言は、衣服を着た人のようなものだからである。顔は露出しているし、手も露出している。人のいのち、つまり人の救いに関わる全ての事柄が、そこに露わになっている。しかし残りは服で隠れている。しかし多くの服を着た部分も、ちょうど顔が薄いシルクのベールを通して見えるように、透けて見えるのである。(『聖書についての新エルサレム教義』55)

 身体に魂があるように、聖言に霊的意味があるという事実を知らない人は、聖言をただ文字の意味からしか判断することができない。しかし、これは貴重なものがたくさん詰まった箱のようなものなのである。貴重なものとは霊的意味である。この内的意味が分からなければ、聖言の神聖さを判断できないが、それはちょうど、宝石が含まれているがただの石のように見える石から宝石を見つけられないのと同じである。・・・したがって聖言は神からのもので、もっとも神聖なものであることについて、人々が疑問を抱き続けることがないように、主は、本質において霊的である聖言の内的意味を私に啓示された。それはちょうど身体の中の魂のように、外的意味あるいは自然的意味の中に備わっている。この意味が、文字にいのちを与える霊魂である。したがって内的意味は、聖言が神的なものであり神聖であることを証明するし、自然的人間でさえ、もしそう望むなら納得させることができる。(『真のキリスト教』192)

 すべての思考、発話、著述は、考え、話し、書く人から、その本質といのちを得ている。その中に、その人とその人の人格がある。聖言の場合は、その中に主ただ一人がおられる。しかしながら、人が聖言を読む時に、真理の霊的情愛の中にいなければ、聖言の中の神的ないのちを感じ取り、理解することはできない。というのは、その時、人は聖言を通して主と連結しているからである。人はもっとも深いところで心と魂に影響を及ぼす何かを経験する。そして、それは光とともに知性の中に流れ入り証明する。(『啓示による黙示録解説』200)

 賢くなるため、すなわち善をなし真理を理解するために聖言を読む人は、その人の目的に応じて、また情愛に応じて、教えを受ける。なぜなら、人には知られていないが、主が流入され人の心を照らされるからである。(『天界の秘義』3436)

 聖言が照らしと教えの源泉である理由は、そもそもの起源において、聖言が主から発する神の真理そのものだからである。そして、それがこの世に下って来る途中で、すべての諸天界に適合するように調整される。したがって、天界的愛の持ち主が聖言を読むとき、その人は天界と結ばれ、それを通して主と結ばれる。その結果、人は照らしと教えを受けるのである。現世的愛の持ち主が聖言を読むときはこれとは異なる。そのような人は天界と結ばれないので、照らしも教えも受けない。(『天界の秘義』9382)

 教義といわれる教会の信仰の真理は、人生の初期に学習されて心に入り、それ以外の知識と同様に記憶される。そして、自分自身の観点から、それが真理かどうかがわかるようになるまで、そのような知識と同様にそこに留まる。そしてそれが真理だとわかると、人はそれに従って行為しようとする。人が教義をこのように見て、意志するようになると、それはもはや知識ではなく、人生の教えとなり、ついには人生そのものになる。なぜなら、このようにして信仰の真理は生活の中に入っていき、生活に適用されるからである。(『天界の秘義』5432)

 聖言は、人と主とを結びつける媒体である。というのは、そのような結びつける媒体がなければ、天界は人に流入することができないであろう。というのは媒体がなければ、いかなる結合も不可能だからである。(『天界の秘義』4217)

 聖言によって、教会の外にいる聖言をもたない人々にも光がある。もし地上のどこかに聖言をもつ教会がなければ、そしてそれを通して主が知られることがなければ、天界との結合はありえない。というのは、主は天と地の神であり、主がおられなければいかなる救いもないからである。メンバーが比較的少数であるとしても、聖言をもつ教会が疑問の余地なく存在していれば、それで十分である。聖言を通して、主は地球上のいたるところにおられる。聖言を通して、天界が人類と連結しているからである。(『聖書についての新エルサレム教義』104)

 聖言が聖言であるかどうかは、われわれがそれをどう理解するかにかかっている。もしそれを理解しなければ、もちろんわれわれはそれを「聖言」とは呼ばないし、われわれにとって聖言ではない。聖言が真理であるかどうかは、それがどう理解されるかにかかっている。というのは聖言は曲解され、偽りとなりうるからである。・・・結局、聖言の理解を通して、そして聖言の理解に応じて、教会は教会であるということになる。もし本当の真理の中にあれば、崇高な教会であり、本当の真理の中になければ、下等の教会であり、歪曲された真理の中にあれば、破滅に至る教会である。(『聖書についての新エルサレム教義』77)

➡贖い