第三の教会はイスラエル教会であった。それはシナイ山上での十戒の宣言から始まり、モーセと預言者により書かれた聖言によってさらに存続した。それは、主がこの世に来られた時に、人々の聖言への冒涜が頂点に達して終わりを迎え、終了した。そのために人々は聖言である主を十字架に磔にしたのである。(『真のキリスト教』760)
イスラエル教会は真の教会ではなく、教会を表象するものであった
ユダヤ人の間に設立された教会は、彼らについていえば教会ではなく、教会を表象するものであった。なぜなら教会が存在するためには、教会に属する人々に隣人愛とともに主への信仰、主への愛がなければならないからである。これらが教会をつくるが、ヤコブと呼ばれた人々にはこれらがなかった。というのは彼らは主を認めず、主への信仰について耳を傾けようとせず、いわんや主への愛について、また隣人愛について耳を傾けようとはしなかったからである。というのは、彼らは自己愛と世俗愛の中にいたからである。これらの愛は、主への愛と隣人愛の完全な対立物である。(『天界の秘義』8788)
表象的教会(repraesentativa Ecclesia)と教会を表象するもの(repraesentativum Ecclesiae)の違い
外部に内部的礼拝が存在するときは、表象的教会がある。内部的礼拝がなくて外部があるときは、教会を表象するものがある。そのいずれにおいても、よく似た外見的典礼がある。すなわち同じような規則、律法、戒律がある。しかし表象的教会においては、外部と内部が一つになるように、外部は内部に対応しているが、教会を表象するものにおいては対応はない。なぜならその外部は内部を欠いているか内部と相違しているからである。・・・洪水の後に存在した古代教会は、表象的教会であったが、ヤコブの子孫の間に組織された教会は教会を表象するものに過ぎなかった。(『天界の秘義』4288)
内的なものの知識が完全に失われるまで、教会を表象するものが設立されることはなかった
教会を表象するものは、ユダヤ人が完全に荒廃するまで、すなわち内的なものの知識が完全に失われるまで設立されえなかった。というのは、もし内的なものの知識が彼らにあったなら、それらによって影響されたであろう。その場合、彼らはそれらを冒涜したであろう。というのは、聖なるもの、つまり内的な真理と善を冒涜する能力は、それらを知って認める人々にあるからである。それらによって影響を受ける人々にはさらにその能力がある。しかしそれらを認めない人々にはない。・・・それゆえ、ユダヤ人には内的真理は明かされなかったのである。(『天界の秘義』4289)
ユダヤ教会は、それに属するすべてとともに、天界と地上における教会のすべてを表象する
偶像崇拝の結果としてこの教会が表象的になったという事実は、もし表象とは何かがわからなければ、誰も知ることができない。ユダヤ教会および聖言において表象されたものは、主と主の王国であり、それゆえ、愛の天的なものであり信仰の霊的なものである。これらが表象されるものであり、さらにこれらと関わるあらゆるもの、たとえば教会におけるあらゆるものが表象される。表象するのは人々か、そうでなければ世界のあるいは地上の事物である。要するに感覚の対象となるあらゆる事物である。表象することができないものはほとんどないのであるから。しかしながら、表象する人やものには注意が払われることはなく、表象されるものにだけ注意が払われるというのが表象の一般原理である。 (『天界の秘義』1361)
士師の国、祭司の国、王国が意味するもの
ヤコブの子孫の間の表象的教会においては、最初に士師の国が、次いで祭司の国が、そして最後に王国があった。祭司の国によって、神の善から来る神の真理が表わされた。士師でもあった祭司の国によって、神の真理が出てくる神の善が表わされた。そして王国によって、神の善を欠いた神の真理が表わされた。・・・これらすべては、天界の状態を表象するためにユダヤ教会において設立された。というのは天界には二つの王国があるからである。一つは天的王国であり、もう一つは霊的王国である。(『天界の秘義』8770)
ユダヤ人はなぜ他のいかなる国民以上に表象的教会として振る舞うことができたのか
他生で彼らと接触した者でなければ、彼らの妄想と欲念の性質はわからない。そして私にそれがわかるように、そのような接触が私に許された。それでそこで私は彼らと何度か話をしたことがある。彼らは自分自身と世俗の富を他の誰よりも愛している。また利益の喪失と同様にとりわけ地位の喪失を誰よりも恐れている。結局、昔と同じように今日においても、自分自身と比べて他のすべての人々を軽蔑している。彼らはまた徹底して富を獲得しようとしており、そしてさらに臆病である。この国民には古代からこのような特徴があったので、内面的神聖さのまったく欠如した外面的神聖さの中に、他の国民以上に留まることができたのであり、したがって、教会を構成するものを外面的に表象することができたのである。(『天界の秘義』4293)
ユダヤ人はその善良さゆえに他の諸国民よりも選ばれたとなぜ信じられているのか
イスラエルの息子たちは、「エホバの人々」と呼ばれたが、それは彼らが他の諸国民よりも善良だったからではなく、エホバの人々、すなわち主の霊的王国に属する人々を表象したからである。彼らが決して他の諸国民よりも善良だったわけではないことは、彼らの荒野における生活から明らかである。そこでは彼らは決してエホバを信じず、かわりにエジプト人の神々を信じた。それは彼らがつくった黄金の子牛から明らかである。彼らはそれを自分たちのためにつくり、エジプトの地から導き出してくれた神々と呼んだのである。・・・イスラエル人そしてユダヤ人は決して選ばれたわけではなく、天界的なものを表象するために受け入れられたにすぎない。それはカナンの地においてなされなくてはならなかった。なぜなら、主の教会は最古の時代からそこにあり、そのあらゆる場所が天界的な神的なものを表象したからである。(『天界の秘義』7439)
ユダヤ人は選ばれたのではなく、優越を愛したので教会であることを切望した
彼らは自分たちの間に教会が設立されることを切望したが、それは世界中のどんな国民より優越的地位にいたいと望んだからであった。彼らはほかのどんな国民よりも自己愛の中にいたからである。もし彼らがエホバと、したがってまた教会とともにいなければ、他の諸国民より上の地位に上げられることはできなかった。主であるエホバがおられるところに教会もあるからである。彼らの目的がこのようなものであったことは、聖言の多くの箇所からあきらかである。(『天界の秘義』10535)
イスラエル人はなぜカナンの地から追放されたのか
イスラエル国民の関心は外部的なものにあり、内部的なものにはなかった。それでも、彼らの間に教会的な何かが確立されなければならなかった。主は天界との接触が表象によって行われるように備えられた。それはこの国民における外形的な礼拝であった。・・・しかし、これが行われるためには二つのことが必要だった。一つは、彼らの内部が完全に閉じられることである。もう一つは、礼拝において外形的神聖さが存在すべきことである。というのは、内部が完全に閉じられるときは、教会と礼拝の内部は拒絶されることも是認されることもないからである。それはあたかも何も存在しないかのごとくである。このような状況においては、外面的神聖さは存在しうるし、高められうる。途中には何の障害物もないからである。したがってこの国民は、主への愛と信仰や、これらを通して得られる永遠のいのちに関わる内的な事柄はまったく知らなかった。しかし主がこの世に来られ、ご自身を明かされ、人は主を愛し信じるべきことを教えられるやいなや、これらを聞いた国民は拒絶し始めた。こうして、彼らはもはや以前いた無知の状態に留まることはできなかったのである。それゆえ彼らが内的なものを汚すことがないように、またその地で拒絶して冒涜することがないように、カナンの地から追い払われたのである。そこは最古代以来、すべての場所が天界と教会のものごとを表象するとされてきたのであった。(『天界の秘義』10500)