主の再臨
「その時、人の子のしるしが天に現れるであろう」(マタイ24:30)は、その時、神の真理が現われるという意味である。しるしは出現を、人の子は神的真理に関する主を意味する。この出現ないししるしは、弟子たちが主に「教えてください。いつそのようなことが起きるのですか。あなたが来られる時、そして代の終わりにどのようなしるしがありますか」と言った時に求めたものだった。というのは、彼らは聖言から、代の終わりに主が来られることを知っていたからであり、主ご自身から、主が再臨されることを知っていたからである。それによって、彼らは主がもう一度この世に来られるのだと理解していた。彼らはまだ、教会が荒廃するときにはいつでも主が来られること、そして、生まれて人間性を身にまといそれを神化するように本人が来られるのではなく、マムレで主がアブラハムに出現されたように、茂みでモーセに出現されたように、シナイ山でイスラエル人に出現されたように、カナンの地でヨシュアに出現されたように、そのように主はご自身の外観あるいは顕現として来られることを知らなかったからである。さらにもっと目に見えにくい降臨も存在した。たとえば、霊感が受け止められ、それによって聖言が与えられるとか、後には聖言それ自体を通して主が来られることがあった。というのはこれまで示してきたところから明らかなように、聖言には主がおられるからであり、聖言のどんな細部も主に由来し、主について述べているからである。これがここで「人の子のしるし」によって意味されているような類の出現である。・・・「そして彼らは、主が力と大いなる栄光とともに天の雲の中に来られるのを見るであろう」は、その時、聖言の内的意味が啓示される、そしてその中に主がおられるという意味である。「人の子」は聖言内部の神の真理であり、「雲」は文字の意味のことである。「力」はそこにある善を、「栄光」は真理をさしている。・・・これがここで意味されているような主の降臨であり、文字通り雲の中に主が出現されるわけではない。(『天界の秘義』4060)
主の再臨は、主ご自身が姿を現され、ご自身の聖霊で満たされ、自ら聖言を通して新教会の教義を教えられる人物によって成し遂げられる
上述の通り、主ご本人が姿を現すことはできないが、それにもかかわらず主は来られ、新しい教会を建てられ、それが新エルサレムであると予告されたので、それは次のようになる。主は、教会の教義を知的に受け入れることができるだけでなく、それを印刷して出版できる人物を通してこれを行われる。主の僕である私の前に、主ご本人が姿を現され、この仕事を遂行するように託されたことを私は証言する。この後、主は私の霊の目を開かれ、私を霊界に入れられ、天界と地獄を見ること、天使や霊たちと話をすることを許された。そしてそれは途切れることなく何年も続いている。この召命の最初の日以降、この教会の教義について天使から教えを受けることは一切なく、ただ聖言を読んでいる時に主だけから教えを受けたことを真実として証言する。(『真のキリスト教』779)
主の降臨は、個々の人間においていかに実現するか
主は善人・悪人にかかわらず、すべての人間に永続的に存在される。というのは主の存在なしにはだれも生きることはできないからである。しかし主の降臨は、主を受け入れる人だけに限定される。これらの人々は、主を信じ主の戒律を守る人々である。主の永続的存在は、人に理性の能力と霊的になる能力を与える。これは霊界の太陽としての主から来る光によってもたらされる。それを人は自らの知性の中で受けることができる。その光は人に推論の能力を与える真理である。しかしながら、主の降臨はその光と熱を一つにする人に、すなわち真理と愛を一つにする人に起きる。というのは、その同じ太陽によって放射される熱は、主への愛であり隣人への愛だからである。主の存在それ自体、そしてそれが知性にもたらす照らしは、この世の太陽の光に喩えることができる。もしそれが熱と一つでないなら、地上のあらゆるものは不毛である。しかし主の降臨は、春の出来事である熱の到来に喩えることができる。その時、熱は光と一つになるので、大地は柔らかくされ、種は芽を出し実を結ぶ。人の霊魂の霊的環境と人の身体の自然的環境との間にも同様のことがある。(『真のキリスト教』774)