聖書の用語の意味

創造の六日間

 創造の六日間あるいは六期間は、人の再生の非常に多くの連続した状態であり、それは一般に以下のごとくである。第一の状態は先行する状態であり、幼児からの状態と再生が始まる直前の状態の両方を含んでいる。これは虚しさ、空虚、暗闇と呼ばれる。・・・第二の状態は、主のものと人間固有のものとの間の区別がなされる時である。主に属するものは聖言では「残果(reliquae)」と呼ばれ、とりわけここでは、人が幼児期から学んできた信仰の諸知識である。これらは貯蔵され、人がこの状態になるまで表に出てくることはない。・・・第三の状態は、悔い改めの状態である。この状態において、人は内的人間から立派に敬虔に語り、慈善的行為のような善を生み出す。しかしながら、それは自分自身から出てくると思っているので生命がない。それらは青草、種をもつ草、さらには実を結ぶ果樹と言われる。第四の状態は、人が愛によって動かされ信仰によって照らされる時である。これより以前に、人は敬虔に語り善を生み出したが、それは試練と苦悶の状態からそうしたのであり、信仰と仁愛からではなかった。それゆえ、今や内的人間の中で信仰と仁愛が火を灯され、それらが二つの大きな光と呼ばれる。第五の状態は、人が信仰から語り、それによって自身を真理と善において確認する時である。その時に生み出されるものは生命があり、海の魚、空の鳥と呼ばれる。第六の状態は、人が信仰からしたがって愛から、真理を語り善を行う時である。その時に人が生み出すものは、生き物、獣と呼ばれる。そしてこの時に、人は信仰と愛の両方から動き始めるので、霊的人間になり、像(imago)と呼ばれる。(『天界の秘義』6-12)

エノク

 その当時、最古代教会とその後の教会によって感知された内容から教義をつくった人々があった。その教義を尺度にして、何が善と真理かを知ることができるようにするためだった。それらの人々はエノクと呼ばれた。「エノクは神とともに歩んだ」ということばによって、このことが意味された。彼らはこの名をその教義にも適用した。なぜならこれがエノクという名で意味されるものだったからである。すなわち「教える」という意味である。(『天界の秘義』519)

ネピリム(巨人)

 「そのころ、その地にネピリムがいた」(創世記、6:4)。ネピリムとは、自分自身の卓越と優越を信じて、神聖かつ真正なるものすべてを無価値とみなす人々をさすことは、以上と以下から明らかである。すなわち、彼らは自身の貪欲さの教義に浸っていた。それが、「神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませた」ということばの意味である。自己についての信念とその幻想は、多くのことが入り込むほど増えていく。そしてついにはその信念はぬぐい去ることができなくなる。そして信仰に関する教義的なものがさらに加わると、すっかり説得力ある理由によって、彼らはあらゆる善と真理を無価値なものとして扱うようになる。こうして彼らはネピリムになる。(『天界の秘義』581)

主の後悔

 「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛めた」。(創世記、6:6)「主は悔いた」は慈悲を意味する。「主は心を痛めた」は同様の意味である。「悔いる」は知恵に関わり、「心を痛める」は愛に関わる。「主は地の上に人を造ったのを悔いた」は慈悲を意味し、「心を痛めた」が同様の意味をもつことは、エホバは永遠からどんな些細なことも予見され、後悔されることはないということを考えると明らかである。(『天界の秘義』586-7)

洪水

 洪水が悪と偽りの洪水であることは、前述のとおり、最古代教会の子孫が不潔な欲望にとらわれ、自らを信頼する教義に浸るようになり、その結果、彼らはあらゆる真理と善を滅ぼす偽りを確信するようになったこと、同時に残果への道を閉ざし、それゆえ働くことができなくなり、自ら滅びるほかなかったところから明らかである。残果への道が閉ざされると、人はもはや人ではない。なぜなら人はもはや天使に保護されることはなく、人間を滅ぼすことだけを望む悪霊に、全体的に完全に捕まってしまうからである。(『天界の秘義』660)

雲の中のにじ

 「わたしは雲の中に、にじを置く」(創世記、9:13)は、再生した霊的人間の状態を表す。それはにじのようである。聖言において「雲の中のにじ」あるいは「にじ」が契約のしるしとみなされていることを、だれしも疑問に思うかもしれない。なぜなら、にじは雨粒の中で光が屈折してつくりだされるものにすぎないからである。それは、すぐ上に述べられた教会における他の契約のしるしとちがって、まったく自然現象である。しかし、「雲の中のにじ」が再生を表し、再生した霊的人間の状態を意味するという事実は、真相がどうか見て知ることを許されなければ、だれも知ることはできない。霊的天使たちは、すべて霊的教会の再生した人間であるが、彼らが来世においてそのように現れる時、彼らの頭の周りにいわばにじをともなって現れるのである。(『天界の秘義』1042)

ハム

 「ハムが父の裸を見る」によって、つまり彼の誤謬と逸脱によって、仁愛から切り離された信仰の中にいる人々が描かれている。というのは、このような人々は、人の中にそれ以外の何ものも見ないからである。しかるに、対照的に、仁愛の信仰の中にいる人々は何か善いものを見るし、たとえ悪と誤謬を見てもそれを許すし、もし可能ならそれを正そうとする。(『天界の秘義』1079)

イシマエル

 「彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」(創世記、16-12)。合理性は善と真理から、すなわち仁愛に属するものと信仰に属するものからなる。そして「野ろば」によって意味されるものは合理的真理である。これがイシマエルによって表わされるものであり、この一節で描かれているものである。(『天界の秘義』1949)

笑い

 「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」。「アブラハムはひれ伏した」が崇拝を意味することは、崇拝としての「ひれ伏す」から明らかである。「そして笑った」は真理への情愛を意味する。これは笑いの起源と本質から明らかになる。起源において、それは真理への情愛かそうでなければ偽りへの情愛にほかならない。そして、そこから喜びと楽しさがでてくる。それが笑いによって顔に現れる。これは、笑いの本質がそれ以外の何ものでもないことを示している。事実、笑いは顔に属するものであるから、身体に属する外部的なものである。しかし聖言においては、内的なものが外的なものによって表現され示される。ちょうど心の(魂と精神)両方の領域のすべての内的情愛が顔によって、内的聴覚と服従が耳によって、知性としての内的視覚が目によって、力と強さが手と腕によって表現され示される等のように。そのように真理への情愛が笑いによって表現され示されるのである。(『天界の秘義』2071-2)

主の怒り

 「エホバの怒りがモーセに対して燃え上がった」(出エジプト記4:14)は寛大さを意味する。これは「エホバの怒り」の意味から明らかである。それは怒りではなく怒りの反対のものである。それは慈悲であり、ここでは寛大さである。エホバは怒ることがない。それは主が愛そのもの、善そのもの、慈悲そのものであるところから、そして怒りはその反対のものであり、また弱さであり、神に適用されえないものであるところから明らかである。(『天界の秘義』6997)

エジプトのカエル

 カエルは偽りからの推論を意味する。カエルがこの意味であるのは、その鳴き声だけでなく、じめじめした腐った池に生息しているからである。そのような池は地獄的偽りを意味する。神の真理に反する偽りから推論する人々は、湿地や悪臭を放つ池のようなところに住んでいる。そしてそこの住人は天界の光で見ると、カエルのようである。彼らは推論の熱意の程度から生じる自尊心の大きさに応じて、あるものは大きいあるものは小さい形をしている。彼らはまた、推論がより内的なあるいはより重要な神の真理に反しているかどうかに応じて、より不潔であったりそうでなかったりする。(『黙示録講解』1000)

ユダヤ教のささげ物の意味

 ささげ物および燔祭においてささげられた動物は、牡牛、雄子牛、雄ヤギ、雄羊、雌ヤギ、雄子ヤギ、雄子羊、雌子羊および雌子ヤギである。これらの生き物が何を意味するかを知らない人は、ささげ物あるいはそれらの燔祭によって、とりわけ何が意味されるかを知ることができないであろう。地上のすべての動物は、人間の中にある何かを意味することを知らなくてはならない。それは一般に、意志に属する情愛と理解に属する思考に、したがって善と真理に関係する。善は意志に属し、真理は理解に属するからである。・・・雄子牛、牡牛、雄ヤギのささげ物また燔祭は、外部的あるいは自然的人間の浄化もしくは再生を表した。雄羊、雌ヤギ、雄子ヤギのそれは、内部的あるいは霊的人間の浄化もしくは再生を表した。雄子羊、雌子羊、雌子ヤギのそれは、最内奥のあるいは天的人間の浄化もしくは再生を表した。(『天界の秘義』10042)

魔術

 教会の真理に反する知識が「エジプト人」によって表わされるわけは、彼らの間にも存在した古代教会の表象物、意味するものが、そこで魔術的なものに変えられたからである。というのは、教会の表象物、意味するものによって、当時、天界との交流があったからである。この交流は、仁愛の善で満たされた生活を送っていた人々に存在し、多くの人々に開かれていた。しかし善い仁愛の生活を送らず、それに反して行動していた者には、しばしば、あらゆる教会の真理を歪め、それとともにあらゆる善を破壊した悪霊との開かれた交流が存在した。魔術はそこから起こった。・・・魔術は秩序の誤用、とりわけ照応の誤用にほかならない。   (『天界の秘義』6692)

奇跡

 驚異や奇跡については、その信仰が外部的であり、内部的信仰については何も知ろうとしない人々の間で行われたことを知るべきである。というのは、そのような信仰をもつ人々は、外部的手段によって強制されなくてはならないからである。これが、奇跡はイスラエル人とユダヤ人の間で行われた理由である。というのは、彼らの礼拝は完全に外部的でまったく内部的ではなかったからである。彼らには内部的礼拝への嗜好はなかったので、外部的なものの中で聖なるものを表現するために、またあたかもこのようにして教会に属するものによって天界との交流が存在するように、彼らは外部にいなければならなかった。なぜなら、照応、表象、意味は自然界を霊界と結びつけるからである。これがそのように多くの奇跡がその国民の間で行われた理由である。(『天界の秘義』7290)

敵への愛

 内的人間は、天界の天使がそうであるように、悪のために悪の報復をすることを望まず、天界的仁愛から進んで許す。というのは、彼らは、主が善の内にあるすべての者を悪から守られること、そしてその善に応じて守られることを知っているからである。また、もしなされた悪のために立腹して敵意、憎しみ、復讐心をもつなら、主は彼らを守られないことを知っているからである。なぜなら、これらは保護を追いやるからである。(『黙示録講解』556)

霊的発酵

 天界においても地上においても、霊的発酵がいろんな形で起きている。しかしこの世の人々は、これが何か、どのように起きるのか知らない。発酵作用をもつ物質が、小麦粉やぶどう汁に入れられるように、社会に注入される悪で偽りである何かがある。これらによって、物質が純粋で明瞭なものになるように、同じでないものは分離され、同じものは一つになる。これらが主のことばによって言及されていることである。「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」(マタイ13:33、ルカ13:21)。(『神の摂理』25)

礼拝

 礼拝は、祈りの言葉や外部的祈祷の中にその本質があるのではなく、仁愛のいのちの中にある。祈りの言葉はその外部に過ぎない。というのは祈りの言葉は、人からその口を通って出てくるもので、したがってその人のいのちに関わるようなものだからである。人が謙遜にふるまうこと、祈る時にひざまずきため息をつくことは重要ではない。なぜならこれらは外部だからである。もし外部が内部から来るものでなければ、それはいのちのない身ぶりであり音にすぎない。人が口にすることば一つひとつに情愛がある。そしてすべての人、霊、天使は自分自身の情愛である。なぜなら彼らの情愛は彼らのいのちだからである。語るのはその情愛自身であり、情愛のない人間ではない。したがって、情愛があるように、そのように祈りの言葉がある。霊的情愛は、隣人への仁愛と呼ばれるものである。その情愛の中にいることが真の礼拝である。祈りは出てくるものである。ここから礼拝の本質は仁愛のいのちであり、その道具として身ぶりがあり祈りの言葉があること、また礼拝の根本は仁愛のいのちであり、祈りの言葉は副次的なものであることがわかる。(『黙示録講解』325)

変容

 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。(マタイ17:1-5、マルコ9:2-8、ルカ9:28-36)

 主はペテロとヤコブとヨハネを連れて行かれた。なぜなら、彼らによって信仰と仁愛と仁愛の働きの面での教会が表されるからである。主は彼らを「高い山に」連れて行かれた。なぜなら、「山」は天界を意味するからである。「主の顔が日のように輝いた」。なぜなら「顔」は内面を意味するからである。またそれは日のように輝いた。なぜなら、主の内面は神だったからである。「日」は神の愛を意味する。「主の衣は光のように白くなった」。なぜなら「衣」は主から来る神的真理を表すからである。同様のことが「光」で表されている。「モーセとエリヤ」が現れた。なぜなら両者は聖言を表すからである。モーセは歴史的聖言を、エリヤは預言的聖言を表す。「輝く雲が彼らをおおった」。輝く雲は文字の意味における聖言を意味し、その中に内的意味がある。「雲の中から声がした、これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである。これに聞け」。「雲の中の声」は、聖言からの神的真理を意味する。「愛する子」は主の神的人間性である。そして神的真理、したがって教会のあらゆる真理は主からくるので、雲の中から「わたしの心にかなうものである。これに聞け」と言われたのである。(『黙示録講解』64)

 また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとってくださるであろう。(黙示録7:17) 

 これは試練によって誤謬が取り除かれた後に真理の情愛から至福の状態がくることを意味する。これは「目から涙をぬぐいとる」が、誤謬のために誤謬からくる心の悲しみを取り除くことを意味するところから明らかである。また耐えられた試練の後で悲しみが終わる時、善に基づく真理を通して至福が続くので、これもまた意味されている。(『黙示録講解』484)

 

➡十戒