仁愛と善行

だれが隣人なのか

 最初に隣人とは何かを示さなくてはならない。なぜなら愛されるべきは隣人であり、隣人に対して仁愛をもって接するべきだからである。というのは、もし隣人の意味がわからなければ、善人と同様に区別なく悪人にも仁愛を施すかもしれない。そこでは仁愛は仁愛ではなくなってしまう。悪人は善行から隣人に悪をなし、善人は善をなすからである。・・・これまで述べてきたところから以下のことが明らかである。普遍的意味においては、善が隣人である。なぜなら主から与えられる善の質に応じて人は隣人だからである。また、善が隣人であるから愛もそうである。すべての善は愛に属するからである。かくして、すべての人は、主から受ける愛の質に応じて隣人である。(『新エルサレムと天界の教義』84、88)

隣人関係の程度

 人は個人として隣人であるばかりか、集合的にも隣人である。たとえば、大小の社会、国、教会、主の王国、とりわけ主ご自身が隣人である。これらは、愛から善がなされるべき隣人である。これらはまた、段階的に上がっていく隣人でもある。多くの人からなる社会は個人よりも高度な隣人である。祖国はさらに高度な隣人である。教会はさらに高度な、主の王国はさらに高度な隣人で、主は最高度の隣人である。この上昇していく諸段階は、はしごの段のようであり、その頂点に主がおられる。(『新エルサレムと天界の教義』91)

仁愛とは何か

 隣人愛とは、貧しい人に施すこと、とりわけ貧しい人を助けること、あらゆる人に善をなすことであると多くの人々が信じている。しかし仁愛とは思慮深く、善が生まれるようにふるまうことである。貧しい、困窮した悪人を助ける人は、それをとおして隣人に悪をなすのである。それは悪人がさらなる悪をすることを後押しし、他者を傷つける手段をさらに供給することになるからである。善人を助けるときは、状況は正反対である。(『新エルサレムと天界の教義』100)

仁愛の喜びは、役立ちの大きさと重要性にかかっている。

 役立ちに関していうと、仁愛の中にいる人、つまり隣人愛の中にいる人(喜びに含まれる生き生きとした嬉しさはその愛からくる)は、役立ち以外のどんな喜びも享受しようとは思わない。というのは、もし仁愛の行いがなければ仁愛は存在しないからである。仁愛は、まさにそれを行うところに、つまり役立ちの中にあるのである。隣人を自分自身と同じように愛する人は、それを行うこと、役立てること以外にどんな喜びも感じない。したがって、仁愛の生活とは役立ちの生活なのである。天界全体の生活がそうである。なぜなら、主の王国は相互愛の国であるがゆえに役立ちの国だからである。したがって、仁愛からのあらゆる喜びには役立ちからくる嬉しさがある。役立ちが高貴であればあるほど、嬉しさは大きくなる。結局、天使は自らの役立ちの本質と性質に応じて、主からの喜びを感じるのである。(『天界の秘義』997)

報酬なしに善をなす喜び

 見返りを求めず善をなすところに天界の幸福があることを知る人は、今日ほとんどいない。というのは、重要な地位に出世する、他者に仕えられる、多くの富を所有する、快楽の生活を送る以外の幸福を人は知らないからである。彼らは、これらすべてを超えて人の内的存在を満たす幸福があること、かくして天界の幸福が存在すること、そしてこれは純粋な仁愛がもつ幸福であるという事実を全く知らないのである。今日の賢人に、これが天界の幸福であることを知っているかどうか尋ねてみよ。これが、善行を認めず、自分の功績を稼ぐという目的なしに善をなすことは不可能であると彼らが信じる理由である。 (『天界の秘義』6392)

愛と仁愛の内部的喜び

 「アセルから」がその情愛の喜び、すなわち主への愛と隣人愛の情愛に属する天界的情愛の喜びであることは、アセルの表すものから明らかである。それは永遠のいのちの喜びである。・・・この喜びは簡単に述べることがむずかしい。なぜならそれは内部的であって、だれにとっても身体的に現れることはまれで、感じとりにくいからである。というのは、身体のいのちの中にいる間、人は身体の中で起こることについては明瞭な感覚をもつが、霊魂の中で起こることについてはぼんやりしているからである。人が身体の中にいる間、この世的な関心事は邪魔をするのである。このような関心事があるところでは、自然的また感覚的なものが減少して内的なものと一致しなければ、その情愛の喜びは身体的感覚にまで流入することができない。またそのときでも、それはなおぼんやりしていて、心の満たされた状態によってもたらされる静けさ以上のものではない。しかし人の死後は、それがはっきり現れ、喜びや幸福として感じられ、内的にも外的にも影響を与える。(『天界の秘義』6408)

信仰と仁愛が人の行いの中に存在しないかぎり、人には信仰も仁愛もない。

 人のいのちのすべては行いの中にあるという事実を、これまでだれも知らなかった。というのは、行いは単なる動作にすぎないように見えるからである。それは人とともに機能するものなので、活動と呼ばれる。それは口、舌、喉頭の動きによって生み出されるので、語りと呼ばれる。しかし、行いは人の中の信仰と仁愛を明らかにするものであり、それらを完成させ完全にするものである。というのは、信仰と仁愛は、現実に存在するまでは、人の中にはないからである。そしてそれらは行いの中に実在するからである。(『黙示録講解』822)

愛といのちと行いは一つになる。 

 信仰と行いについて上に述べたところから、次のような結論を引きだそう。愛といのちと行いは、あらゆる人において一つになる。したがって愛と言おうと、いのちと言おうと、行いと言おうと、同じようなものである。愛は人のいのちを形づくること、愛があるようにいのちがあること、心のいのちだけでなく体のいのちもそうであることは上述のとおりである。そして人が愛することを、心で欲し、体で行うのであるから、愛と行動あるいは行いは一つということになる。(『黙示録講解』842)

主への愛と隣人愛の相違

 主を信じる人にとって、神とは愛と仁愛である。愛とは主への愛のことであり、仁愛とは隣人愛のことである。主への愛は、おそらく隣人愛から切り離すことはできない。というのは、主の愛は人類全体に向けられ、人類を永遠に救い、ご自身に完全に結びつけ、一人も滅びる者がないよう望まれるからである。したがって、主への愛がある人には、主の愛があり、隣人愛以外のことをなしえない。しかしながら、隣人愛の中にいる人々は、その理由によって、必ずしも主への愛の中にいるわけではない。たとえば、主を知らないが彼らの仁愛の中に主がおられる思いやりのある異教徒、また教会内の他の人々がそうである。なぜなら主への愛はより高い段階の愛だからである。主への愛がある人々は天的であり、隣人愛すなわち仁愛をもつ人々は霊的である。(『天界の秘義』2023)

自己愛と相互愛

 自己愛とその欲望には何か刺激的で喜ばしいものがある。それはいのちに大きな影響を与えるので、人は永遠の幸福がそこにあるということ以外ほとんど何も考えることができない。このため多くの人々は、永遠の幸福とは肉体のいのちが終わった後で偉大になること、他者に仕えられること、天使にさえ仕えられることだと思う。ところが彼ら自身は、自分のためになるという隠れた動機がなければ、だれにも仕えようとはしない。彼らが主だけに仕えたいと言うのは嘘である。というのは、自己愛の中にいる人間は、主でさえ自分に仕えさせようと思っているからである。そうならない場合、彼らは立ち去る。このように、彼らは自ら主人となって世界を支配したいという願望をもちつづけるのである。・・・しかし、それだけが天界的である相互愛は、自分は無価値であり、みすぼらしく汚れていると口にするだけでなく、そう認め信じるところにある。それは、主が無限の慈悲によって、常に人を地獄から引き離し引き留められるのである。人は地獄に身を投げようとし、望みさえするのであるが。(『天界の秘義』1594)

➡自由意志