創造について

Swedenborg Sampler 

 明瞭な理性から考える人はだれでも、全世界は無から創造されたものではないとわかる。というのは無から創造されるものは何もないとわかるからである。無は明瞭に無である。無から何かをつくることは、自己矛盾である。自己矛盾しているものは、神の知恵に由来する真理の光と対立する。そして神の知恵から来るものでなければ、それは神の全能からくるものでもない。合理的に、明瞭に考える人は、すべてのものは実質そのものというべき実質(Substantia)から創られたとわかる。というのはこれは存在(Esse)そのものであり、そこから存在するものすべてが存在(existere)しうるからである。神ただひとりが実質そのものであり、まさに存在(Esse)であるから、ものの存在はそれ以外のいかなるものにも由来するものではない。(『神の愛と知恵』283)

 被造世界は神人ではないが、神に由来する。というのは被造世界のすべては実質そのものでも形式そのものでもなく、いのちそのものでも、愛と知恵そのものでもないからである。まさに人間も人間そのものではなく、すべては人間そのもの、知恵と愛そのもの、形式と実質そのものである神に由来するのである。それ自身で存在するもの、これは創られず果てしない。しかしながら神に由来するものは、内部にそれ自身で存在するものを一切含まないのであるから、創られるものであり限りあるものである。そしてここには存在の根源である神の像が現れる。(『神の愛と知恵』52)

 神は創造された全世界のすべてのものに存在するが、それらの存在の内には神そのものがおられるというわけではない。というのは被造世界は神ではなく、神に由来するものだからである。そして万物は神に由来するから、そこには鏡に映った人影のように神の像がある。実際、鏡に人が現れるが、その中に人は一切存在しないのと同じである。(『神の愛と知恵』59)

 第一の要点「神は自分自身より他者を愛する」は、全人類に対する神の愛に認められる。神は創造されたすべてを愛されるが、それは目的に対する手段だからである。もし目的を愛するなら、手段を愛さなくてはならない。全世界の人やものは、神の外部にある。それらは有限であるが、神は無限だからである。神の愛は、善人や善いものだけでなく、悪人にも悪いものにも広がり及んでいる。したがって天界にいる善人や善いものだけでなく地獄にいる人々にまで及んでいる。・・・というのは神はいたるところにおられ、永遠に同一だからである。(『真のキリスト教』43)

 天界は人類から成り立っている、また天界は主とともに永遠に住むところである。したがって、これが主の創造の目的だったということになる。さらに、そしてこれが創造の目的であったから、それは主の神の摂理の目的でもある。主はご自身のために全世界を創造されたのではなく、天界で神とともにある人々のために創造されたのである。というのは、霊的愛は自分自身を他者に与えたいと願うものであり、そしてそうできるかぎり、霊的愛は存在(esse)の中にあり、平和の中にあり、祝福のなかにあるからである。このような霊的愛の特徴は、無限にそのようなものである主の神的愛に由来する。(『神の摂理』27)

 創造の普遍的目的、あるいは被造物すべての目的は、創造者と被造全世界との永遠の連結である。そしてこれは、主の神性が存在し、住み続けることができるような主体が存在しなければ不可能である。これらの主体が神の住所・住まいとなるためには、それらの主体があたかも自力でそうするように、神の愛と知恵の入れ物にならなくてはならないし、あたかも自力でそうするように造物主に向かってみずからを高め、自らを神に結びつける入れ物でなくてはならない。この相互作用の能力がなければ、いかなる連結もありえない。(『神の愛と知恵』170)

 存続が絶え間ない発生であるように、維持とは絶え間ない創造である。意欲がなければ仕事は終わる、思いがなければ話は終わる、力がなければ動きは止まる。ちょうどそれと同じである。(『神の摂理』3)

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