神について

Swedenborg Sampler

 神は愛そのもの、知恵そのものである。これら二つが神の本質である。人類のもっとも初期の時代には、愛と知恵が、神と神から発するすべての無限なものの二つの本質とみなされていた。しかし次の時代になると、人々の心は徐々に天界から離れ、世俗的な、物質的なものごとに浸り、これが次第にわからなくなった。愛の本質は何か、知恵の本質は何かわからなくなってきた。なぜなら、愛は形(form, forma)なしに抽象的に存在することができず、形の中に、形を通して働くことがわからなかったからである。神は実質(substance, substantia)そのもの、形そのものであり、唯一、最高の実質であり、形であるから、その本質は愛と知恵である。そして被造物すべてが神から来るのであるから次のようになる。神は全世界を隅々にいたるまで、愛から、知恵を手段として創造された。したがって、神の愛は、神の知恵とともにあらゆる被造物に存在する。愛はまた、すべてを形づくる本質であるだけでなく、それらを結びつけ、接合し、形成されたものを維持している。(『真のキリスト教』37)

 神は善そのもの真理そのものである。なぜなら善は愛に属し、真理は知恵に属するからである。(『真のキリスト教』38)

 神的なもの、あるいは無限なものは、人間が観念をもつことができる有限なものがなくては理解されない。有限なものに由来する観念、とりわけ空間的、時間的なものから来る観念がなくては、人は神的なものを何も理解できないし、いわんや無限なものは何も理解できない。(『天界の秘義』3839)

 もし神が理解できる形になければ、だれも信仰と愛によって神に連結されることはできない。(『天界の秘義』6700)

 エホバ神は、人間を贖い救うために降臨され、人間性を身にまとわれた。今日キリスト教会では、神、宇宙の創造者が永遠から子をもうけ、この子が人間を贖い救うために降臨し、人間性を身にまとったと信じられている。しかし神は一者であるということを考えると、これは誤りであるし、おのずから破綻する。そして一人の神が、一人の息子を永遠から生んだ、また父なる神、子、聖霊は別々の神であるが、一人の神であると言うことは、理性に照らして奇抜という以上におかしい。この奇妙な考えは、エホバ神自身が降臨し、人となり、救い主となられたことが聖言から明らかになると、空の流れ星のように完全に消散する。(『真のキリスト教』82)

 主の神性は、主の人間性の内にある、そしてそれらが一つになって、一人の人間になっていると、全キリスト教世界に受け入れられている教義は教えている。この教えは次のとおりである。キリストは神であり人間であるが、二人ではなく、一人のキリストである。神は一人である。しかし神性の人間性への変化によってではなく、神性が人間性をそれ自身に取ることによって一人なのである。神は完全に一人であるが、それは二つの性質がまじりあうことによるのではなく、人間の統一性によるのである。というのは、ちょうど霊魂と身体が一人の人間になるように、神と人間は一人のキリストなのである(アタナシウス信条から)。それゆえ、神を三人(三位格)に区別する人々は、主を第二の位格と考えるとき、神と人間の両方を考えるべきであることは明らかである。なぜなら霊魂と身体が一つであるように、神と人間は一人と言われているのであるから。(『黙示録講解』10)

 三人(三位格)の神の考えをもつ人々は、一人の神の考えをもつことができない。たとえ口では一人と言っても、なお三人を考えている。しかし神について、一人の人間における三つという考えをもっている人々は、一人の神という考えをもつことができるし、一人の神について考えるように、一人の神について語ることができる。一人(一位格)における三つの観念は、父は主の中におられ、聖霊は主から出てくると考えられるときに保持される。そのときには三一性(trinity, Trinum)が主のなかにある。父と呼ばれる神性そのもの、子と呼ばれる神的人間性、聖霊と呼ばれる神的活動である。(『新エルサレムと天界の教義』289-290)

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