十戒

十戒

 霊的また天的意味において、十戒は教義と生活のすべての教え、したがって信仰と仁愛のすべての事柄をあますところなく含んでいる。その理由は、文字的意味の聖言には、あらゆる部分において、全体的にも個別的にも、二つの内的意味が隠されているからである。一方は霊的意味であり、他方は天的意味である。これらの意味は、その光に神的真理を、その熱に神的善を有している。さて、聖言は全体的にも個別的にもこのようであるから、十戒はそれぞれ自然的、霊的、天的の三つの意味において説明されなくてはならない。(『真のキリスト教』289)

第一戒 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 自然的あるいは字義通りの意味においては、これは偶像は崇拝されてはならないということである。

 この戒律の霊的意味は、主イエス・キリストの他にいかなる神も崇拝されてはならないということである。なぜなら、主はこの世に来られ、贖いをされたエホバだからである。贖いなしにはいかなる人も天使も救われなかったであろう。

 この戒律の天的意味は、主なるエホバは無限、広大、永遠である、主は全能、全知、遍在である、主は最初であり最後である、初めであり終わりである、過去、現在、未来にわたって存在される方である、主は愛そのもの知恵そのものである、あるいは善そのもの真理そのものである、したがっていのちそのものである、かくして主はあらゆるものの唯一の源泉であるということである。(『真のキリスト教』291-5)

第二戒 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

 主の名をみだりに唱えてはならないの自然的、字義通りの意味は、あらゆる種類の会話において、主の名そのものを乱用してはならないということである。とりわけ虚偽の陳述、うそ、正当な理由のない宣誓の中で、また言い訳するために、また悪意すなわち呪いの中で、また魔法、呪文の中で乱用してはならない。

 神の名は、霊的意味では、教会が聖言から教えることの全体である。そしてそれを通して、主は懇願され崇拝される。このすべてが神の名に要約されている。それゆえ、神の名をみだりに唱えるとは、雑談、虚偽の陳述、うそ、呪い、魔法、呪文の中で、これらを用いることである。なぜならこれもまた神を、それゆえ主の名を中傷し冒涜するからである。

 神の名をみだりに唱えるとは、天的理解では、主がパリサイ人に言われたことを意味する。「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない」。(マタイ12:31-32)聖霊を汚すとは、主の人間性の神的性質を、そして聖言の神聖さを汚すことである。(『真のキリスト教』297-9)

第三戒 安息日を覚えて、これを聖とせよ。

 自然的意味、つまり文字の意味では、これは、六日間は人間と労働のためにあり、第七日は主と主が人間に与えられる安息のためにあるということである。

 霊的意味では、この戒律は、人間の改心と主による再生を意味する。「六日間働く」の意味は、肉とその欲望、それと同時に地獄によって人間に植えつけられる悪と偽りとの戦いである。第七日は、主と連結されること、そしてそれによる再生が意味される。戦いが続く限り霊的仕事があるが、再生すると安息が訪れる。

 天的理解では、この戒律は主と連結し、その結果地獄から守られて平和に導かれることを意味する。安息は、休息を、その最高の意味では平和を意味する。それゆえ、主は平和の君と呼ばれ、ご自身を平和と称されるのである。(『真のキリスト教』301-3)

第4戒 あなたの父と母を敬え。

 自然的意味、つまり文字の意味では、あなたの父と母を敬えとは、両親のいうことを聞き、丁寧に接し、与えてもらった恩恵に感謝することである。

 霊的意味で人の父と母を敬うことは、神と教会を敬い愛することである。この意味では、父はすべての者の父である神であり、母は教会である。天界の子供や天使たちはそれ以外の父や母を知らない。なぜなら、そこでは、彼らは神によって教会を通して新たに生まれるからである。

 天的意味では、父はわれらが主イエス・キリストである。母は聖者の団体、すなわち世界中に散らばっている主の教会である。(『真のキリスト教』305-7)

第5戒 あなたは殺してはならない。

 殺してはならないというこの戒律は、自然的意味では、人を殺すこと、人に致命的なけがを負わせること、あるいは人の体を切断することが禁止されているということである。それはまた、人の名声や評判に致命的な傷を負わせてはならないということも意味する。というのは、多くの人々にとって、評判は自らのいのちと同じように大切なものだからである。

 霊的意味では、殺人とは人の魂を滅ぼし破壊するあらゆる方法のことである。これには多くのさまざまなやり方がある。たとえば、人を神、宗教、神の礼拝から背けさせたり、これらを醜聞の主題にしたり、これらを憎み排斥するようにしむけるなどである。 

 天的意味では、殺すとはわけもなく主に対して怒ること、主を憎むこと、主の名を抹殺することである。そのような感情を持つ人々は、主をはりつけにすると言われる。もし主が再びこの世に戻ってこられるなら、彼らはユダヤ人がしたのとまったく同じことをするであろう。(『真のキリスト教』309-11)

第6戒 あなたは姦淫してはならない。

 自然的意味では、この戒律は姦淫だけでなくみだらな欲望を持ちそれを行うこと、したがってみだらな考えや話にふけることも禁じている。情欲を抱くことでさえ姦淫であることは、主のことばから明らかである。「姦淫するなと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。(マタイ5:27-8)

 霊的意味では、姦淫を犯すとは聖言におけるいろいろな種類の善を汚すことであり、その真理をねじ曲げることである。

 天的意味では、姦淫は聖言の神聖さを否定し、それを冒涜することである。これが天的意味であるというのは、上に述べた善を汚し、真理をねじ曲げるという霊的意味から出てくる。(『真のキリスト教』313-5)

第7戒 あなたは盗んではならない。

 この戒律は、自然的意味では文字どおり、盗んではならない、平和時に山賊行為や海賊行為をしてはならないということである。また一般的には、人のものをこっそりあるいはどんな名目であっても奪ってはならないということである。それはまた、あらゆる詐欺行為、不法利得、高利貸し、搾取行為、また賦課金や税金、負債の支払いのごまかしにも及ぶ。

 霊的意味では、盗むとは、人々が信仰から得た真理を彼らから奪うことである。これは偽りと異端信仰によって生じる。役務をただ利得あるいは名誉の追求のために行う聖職者、また聖言から真理ではないとわかる、あるいはわかるであろうことを教える聖職者は霊的な泥棒である。 

 天的意味では、盗人とは、主からその神的力を奪う人々、また主の功績と正義を自分の手柄にする人々のことである。(『真のキリスト教』317-9)

第8戒 あなたは隣人に対して偽証してはならない。

 「隣人に対して偽証する」の自然的意味でもっともはっきりしているのは、裁判官の前で、あるいは裁判所の外で、誤って罪を問われている人に対し偽りの証言をすることである。・・・より広い意味では、この戒律は公的生活において悪意をもって言うあらゆる種類の嘘や偽善を禁じている。

 霊的意味では、偽証するとは、間違った信仰が正しい信仰であり、悪い生き方が善い生き方である、また逆に、正しい信仰は間違った信仰であり、よい生き方は悪い生き方であると人に思い込ませることである。しかし、どちらの場合も意図的にそうするのであり、無知ゆえにそうする場合は違う。

 天的意味では、偽証するとは、主と聖言に対して不敬な言動を行うことであり、こうして教会から真理を追い出すことである。というのは、主は真理そのものであり、同様に聖言だからである。(『真のキリスト教』321-3)

第9・10戒 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。

 カテキズム(教理問答書)では、今日、この一節は二つの戒律に分けられている。一方の第9戒は「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」であり、他方の第10戒は「隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべての隣人のものをむさぼってはならない」である。これら二つの戒律は、まとまって一節をなしている(出エジプト記20:17、申命記5:21)ので、いっしょに取り上げることにする。

 これら二つの戒律は、これらに先立つ全戒律を振り返りつつ、悪を行ってはならないし、それだけでなく悪を望んでもいけないと教え命じている。したがって、これは単に外部人間のみならず内部人間のためのものでもある。というのは、たとえ人が悪い行為を控えたとしても、なおそれをしたいと望んでいるなら、実際に人はそれを行っているからである。

 霊的意味では、これらの戒律は、霊に反する願望、すなわち教会の霊性に反する願望、つまり主として信仰と仁愛に反する願望ということになるが、それらすべてを禁じている。もしこれらの願望が和らげられないなら、われわれの肉体は自らの自由を追い求め、あらゆる悪行に突進するであろう。・・・要するに、これらの戒律は霊的意味では、前述の戒律すべての霊的意味の振り返りである。そしてそれらの悪事を望んではならないと付け加えている。天的意味においても同様である。しかしそれらをすべてくり返すには及ばない。(『真のキリスト教』326-7)

一つの戒律を犯すことはすべての戒律を犯すことである

 だれも律法を成就することはできないと言われる。とりわけ、十戒の一つを犯すことは、そのすべてを犯すことだからである。(マタイ5:19、ヤコブ2:10-11)しかしこの表現が意味することは、その音の響きとは異なる。というのは、それは、意図的に確信して十戒の一つを犯す者が、残りの戒律も犯すことになるという意味に理解されなくてはならないからである。なぜなら、意図的に確信して戒律を犯すことが、それは罪であることを完全に否定することになるからである。そして誰かがそれは罪だと言えば、くだらないと退ける。もしこのように罪を否定し退けるなら、罪と呼ばれるものすべてに一切注意を払わなくなる。これが悔い改めについて何も聞きたくないという人が行き着く状態である。(『真のキリスト教』523)


⇨信仰