教会(詳細版)

普遍的教会

 主の教会は地球全体に広がっており、それゆえ普遍的である。そしてそれは、自らの宗教的信仰にしたがって仁愛の善の中に生きてきた人々から成っている。聖言があり、それを通して主が知られている教会は、その教会の外にある人々との関係についていえば、人体における肺と心臓のようなものである。それはすべての器官と手足にその種類、位置、つながりに応じて様々に命を与える。(『天界と地獄』328)

特殊的教会、その普遍的教会との関係

 主が認められ聖言があるところが教会と呼ばれる。なぜなら、教会の本質は主から来る主への愛と信仰だからである。そして聖言は、この愛と信仰を主から受けるために人はいかに生きるべきかを教えるからである。(『新しいエルサレムと天界の教義』242)

 教会の外にあり、一人の神を信じ、自らの宗教的信仰にしたがって生活し、隣人へのある種の仁愛の内にある人々は、教会に属する人々と交流している。なぜなら、一人の神を信じ良く生きている人はとがめられることはないからである。ここから、主の教会は、特殊的には主が認められ聖言があるところにあるが、地球全体に広がっていることが明らかである。(『新しいエルサレムと天界の教義』244)

特殊的教会のある場所

 教会は、聖言が正しく理解されるところにのみ存在する。そして教会の性格は、教会員の聖言の理解の質によって決まる。預言書の多くの箇所で、イスラエルの人々、ユダヤの人々の間に教会が存在したが、聖言の意味内容の歪曲化によって完全に破壊され消失したことが描かれている。なぜなら、まさしくそれが教会を抹殺するからである。(『聖書の教義』79)

 教会が存在するためには、聖言にもとづく教義がなければならない。教義がなければ聖言は理解されないからである。しかし教義だけでは人々の間に教会は形成されない。それにしたがった生活が必要である。したがって、信仰のみによって人々の間に教会が形成されることはなく、信仰にしたがった生活がなければならない、そしてそれは仁愛であるということになる。(『新しいエルサレムと天界の教義』243)

特殊的教会を構成する人々

 国民と共に( apud gentem )教会があるということと、国民の中に( in gente )教会があるということは別のことである。たとえば、聖言をもち、主について述べ伝えるのに教義を用いる国民と共にキリスト教会は存在する。しかしもし彼らが善と真理の結婚の中にいなければ、すなわち隣人への仁愛とこれに根ざす信仰の中にいなければ、こうして教会の内部がその外部の中になければ、彼らの内にはいかなる教会も存在しない。(『天界の秘義』4899)

教会と宗教とは異なる

 教会と宗教とは異なる。教会は教義から教会と呼ばれる。宗教は教義にしたがった生活から宗教と呼ばれる。教義のあらゆる教えは真理と呼ばれる。また教義の善も真理と呼ばれる。なぜなら教義のみがそれを教えるからである。しかし教義の教えにしたがった生活のあらゆるものは善と呼ばれる。教義の真理を実践に移すことも善である。このように教会と宗教とは区別される。しかしながら、教義があって生活がないところでは、教会も宗教もないと言い得る。なぜなら、教義は生活をそれ自身と一つと見なすからである。ちょうど真理と善、信仰と仁愛、知恵と愛、知性と意志のように。したがって、教義があって生活がないところでは教会は存在しない。(『啓示による黙示録解説』923)  

常に教会が必要とされる理由

 もし主の教会が地上から完全に拭い去られていたら、人類はまったく存続することができなかったであろう。例外なくすべての人々が滅んだからである。前述のとおり、教会は心臓として存在する。心臓が生きている限り、周囲の臓器や手足も生きることができる。しかし心臓が死ぬ瞬間に、ほかのすべても同様に死ぬ。地上の主の教会は心臓として存在する。そしてそこから人類は、教会の外部にいる人々も含めて、いのちを得ている。その理由はまったく誰にも知られていないので説明しておきたい。地上の人類全体の状況は、あらゆる部分からなっている人体のようなものである。この人体で教会は心臓の役割を演じている。もし心臓の場を供給する教会が存在しなければ、すなわち天界と霊界によって主が結びつけられる教会が存在しなければ、断絶が生じるであろう。そしてもし主と人類の間に断絶が生じるなら、人類は即座に滅びるであろう。(『天界の秘義』637)   

天界の教会は地上の教会なしには存続できない

 地上と同じように天界にも教会があることを知らなくてはならない。なぜなら、そこに聖言があり、礼拝堂があり、その中で説教があり、牧師の、聖職者の仕事があるからである。・・・天界の教会は地上の教会と結ばれていなければ存続できない。なぜなら天使のいる天界と地上の教会は、人間の内部の要素と外部の要素のようにいっしょに動いているからである。人間の内部の要素は、外部の要素と結びついていなければ適正に存続しない。外部のない内部の要素は、基礎のない家のようなもの、あるいは土の中ではなく土の上にある種のようなもの、このように根のない何かのようなもの、ようするに結果のない原因のようなものである。(『啓示による黙示録解説』533)  

これまで地上に概して四つの教会があった

 創造以来、地上に概して四つの教会が次々に起こったことは、聖書の歴史書と預言書から、とりわけダニエル書から明らかである。ここでは四つの教会が、ネブカドネザルが見た四つの彫像によって(第2章)、そして後には、海から現れる四つの獣によって(第7章)表わされている。最古代教会と呼ばれる最初の教会は、洪水以前に存在した。そしてその教会の終焉あるいは退場が洪水によって表わされている。古代教会と呼ばれる第二の教会は、アジアに、またアフリカの一部に存在した。この教会は、偶像崇拝的習慣の結果、終焉を迎えて滅んだ。第三の教会は、シナイ山での十戒の宣言によって始まったイスラエル教会であり、これはモーセと預言者たちによって書かれた聖言の期間を通して存続した。この教会は聖言の冒涜によって終わりを迎え終了した。冒涜は主がこの世に来られた時に頂点に達した。それゆえに、彼らは聖言である主を十字架に磔にしたのである。第四の教会が、主によって福音史家や使徒を用いて設立されたキリスト教会である。これには二つの時期があった。一つは主の時からニケア公会議までの時期である。もう一つはそれから現在に至るまでの時期である。しかしその発展の中で、本教会はギリシア、ローマカトリック、改革派教会の三つに分裂した。しかしこれらはすべてキリスト教会と呼ばれてきた。さらに分裂した各部分の中でたくさんの特殊な教会があった。それらは主流から離れながらも、キリスト教における異端のように、その一般的名称を保持してきた。(『真のキリスト教』760)   

➡最古代教会