聖書1

聖書1

 聖言は神に由来し、神の霊感を受けている、ゆえに神聖である、と誰もが口にする。しかし、そのどこに聖なるものが存在するのか、今日に至るまで誰も知らない。文字通りに受け取ると、それは他の普通の本となんら変るところがない。変った文体で、多くの世俗の本のように、外見上高尚であったり立派であったりするわけではない。そのため、もし人が自然を神と崇め、あるいは神より自然を崇めるなら、その人の思考は神に鼓舞されて天界から来るのではなく、自身から、その人のプロプリウム(固有性)から来るため、聖言について、容易に誤った見方に陥り、それを軽蔑するようになる。こうして、聖言を読んでも次のようにつぶやくであろう。「これは、あれは、どういう意味か。これが神聖でありえるか。無限の英知の神がこのように語るだろうか。そのどこに聖なるものがあるのか。この神聖さは、信仰心とそこからくる信念以外のどこから来るだろうか」と。(『真のキリスト教』189)

 このように思う人は、天地の神である主エホバが、モーセと預言者をとおして聖言を語られたこと、そしてそれは神的真理であることを考えない。聖言は神的真理に他ならない。なぜなら主エホバが語られたことは神的真理だからである。彼らはまた、エホバご自身である救い主が、福音記者に聖言を語られたことを心に留めない。その多くはご自身の口で語られたし、それ以外は、12使徒をとおして主の口の霊(すなわち聖霊)によって語られた。これが、主がご自身のことばには霊といのちがある、主は照らす光である、主は真理であると言われた理由である。(『真のキリスト教』190) 

聖言には知られざる霊的意味がある

 身体に霊魂があるように、聖言に霊的意味があることを知らない人は、聖言をその文字の意味からしか判断することができない。しかし、これは貴重品の詰まった箱なのである。貴重品とはその霊的意味である。この内的意味が分からなければ、聖言の神聖さを見分けることはできない。それは、宝石が含まれているが、しばしばただの石のように見える鉱石から宝石を見分けることができないのと同じである。あるいはダイヤモンド、ルビー、あかしまめのう、オリエンタル・トパーズなどがずらりと入った石英、ラピスラズリ、石綿(雲母)、あるいは瑪瑙でできた箱を想像してほしい。それが分からなければ、その箱を、目に見える素材の価値以上に評価しないとしても何ら不思議ではない。それは聖言の文字の意味についても同じである。それゆえ、人々が、聖言は天与のもので最高に神聖であることを疑わないように、主は、内的意味があり、それは本質において霊的であり、それが身体に魂が宿るように、外的あるいは自然的意味の内にあることを私に啓示されたのである。内的意味は、文字にいのちをもたらす霊である。内的意味は、自然的人間に対しても、もしその人が納得したいと思うならば、聖言は神からのもので神聖であると証明する力をもっている。(『真のキリスト教』192)

 現在の教会の終わりの時、暗闇が蘇るであろう、その時、主は天地の神として知られることも承認されることもなく、信仰は仁愛から切り離されるであろうと預言されていた。その結果、聖言のほんとうの理解が消え去ることがないように、主は聖言の霊的意味を明らかにし、聖言はその意味において、したがって自然的意味の内部において、ただ主と教会のみを扱っていることを示してくださった。実際、聖言はそれだけを扱っているのである。主はまた、消えかかっていた聖言の真理の光を取り戻すのに役立つそれ以外の多くのことを明らかにしてくださった。現在の教会の終わりの時、真理の光がほとんど消えるであろうという預言は、黙示録の多くの箇所にある。これはまた、マタイ福音書の主のことばが意味するところでもあった。「しかし、その時に起こる患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」。(24:29-30)日はここでは主への愛を、月は主への信仰を、星は主から来る善と真理についての諸概念を、人の子は聖言としての主を、雲は聖言の文字の意味を、栄光は霊的意味とそれが文字の意味の中にありありと見えることを意味している。(『聖書』112)

聖言の霊的意味とは何か 

 霊的意味とは、人がある教会の教義を擁護するために、聖言を調べたり解釈するとき、その聖言の文字の意味から明らかになる意味ではない。そのような意味は、教会によって理解された聖言の文字の意味と言えよう。霊的意味は文字の意味に現れてくるものではない。霊魂が身体の中にあるように、知性で考えたことが目に現れるように、また顔に出てくる愛の情愛のように、それはその内部にある。この意味があるから、聖言は人間にとってのみならず天使にとっても霊的である。このため、聖言は霊的意味によって天界との交流の経路としての役割を果たすことができるのである。

 主から、天的なもの、霊的なもの、自然的なものが次々と生じる。主の神的愛から生じるものは天的と呼ばれ、神的善である。主の神的知恵から生じるものは霊的と呼ばれ、神的真理である。自然的なものは両者の所産であり、もっとも低いレベルで両者が混合したものである。第三のあるいは最高の天界を形成する主の天的王国の天使たちは、われわれが天的と呼ぶ、主から生じる神性の中にいる。なぜなら、彼らは主から来る愛の善の中にいるからである。第二の中間の天界を形成する主の霊的王国の天使たちは、われわれが霊的と呼ぶ、主から生じる神性の中にいる。なぜなら、彼らは主から来る知恵の真理の中にいるからである。また、この世の教会にいる人々は、主から生じる自然的神性の中にいる。このように、神性は主から生じて、天的、霊的、自然的という三段階を通っていちばん下のレベルにまで降りてくる。主から人間に降りてくる神性は、これら三段階を通るので、降りてくるときに、その内部にこれら三レベルが入ってくる。聖なるものはすべてそのような性格をもっているので、それがいちばん低いレベルにあるとき、それは最大限に存在する。聖言とはそのようなものである。もっとも低いあるいは外部の意味では、それは自然的である。内部の意味においては霊的である。そしてもっとも内部の意味では天的である。そしてあらゆる意味において自然である。聖言にそのような性格があることは、文字の意味、自然的意味ではあきらかにならない。この世の人々が、天界について、天的、霊的レベルについて、これらと自然的レベルの違いについて知らないのはそのためである。(『聖書』6)

聖言は照応によって書かれた

 自然界のあらゆるものは霊的なものに照応している。人間の身体におけるあらゆるものも同様である。しかし、照応が何かについては、現在に至るまで知られていない。しかし、最古代時代にはたいへんよく知られていた。その時代の人々にとって、照応について学ぶことが学問中の学問であった。そしてそれは普遍的に知られていたので、あらゆる文書や書物は照応によって書かれた。古代教会の書であるヨブ記には照応が豊富にある。エジプトの象形文字も、最古代の神話も照応にほかならない。すべての古代諸教会も、霊的なものを表象する教会であった。その礼拝の制度の基礎となった儀式や規則は、照応にほかならなかった。イスラエルの子たちの間にあった教会のすべての細々としたことも同様であった。燔祭の捧げもの、生贄、供物、神酒は隅々に至るまで照応であった。幕屋とその内部のすべてもそうである。除酵祭、仮庵祭、初穂祭のような祭もそうである。アロンとレビ族の司祭職も、聖職の衣装と同様に照応である。さらに、彼らの礼拝と生活を律するすべての規則や判断も照応であった。神的なものは、この世においては照応の形で表わされるので、聖言は完全に照応で書かれている。同じ理由で、主は照応で語られた。主は神的なものから語られたからである。(『真のキリスト教』201)

照応の知識の喪失と偶像崇拝のはじまり

 教会の象徴的儀式は照応であったが、時の経過とともに、偶像崇拝に、また魔術にさえ変貌していった。したがって主の神の摂理によって、照応の知識はしだいに失われていき、イスラエル人、ユダヤ人の間では、完全に忘れられた。彼らの礼拝は完全に照応から成り立っており、したがって天界的なものを表象していたが、彼らは自らの礼拝の意味を知らなかった。というのは彼らは完全に自然的な人々であり、霊的なもの、天的なものを知りたいと思わなかったし、知る能力もなかったからである。結局、彼らは照応について何も知ることができなかった。照応は、霊的、天的なものを地上で表象するものだからである。(『真のキリスト教』204) 

 古代において諸民族の間で行われた偶像崇拝は、照応の知識から始まったが、その理由は、地上に見られるあらゆるものに照応する意味があるからである。このことは木々のみならず、あらゆる種類の動物や鳥、また魚等々についてもいえる。照応の知識をもっていた古代の人々は、天界的なものに照応する像をつくった。彼らはこれらの像を喜んだが、それはそれらが天界と教会に関わるものを表しているからだった。それゆえ、彼らはこれらの像を教会のみならず自分の家にも置いたが、それはそれらの像を崇めるためではなく、それらが表している天界的なものを思い起こすためであった。エジプトやその他のところでは、子牛、牡牛、ヘビ、また子ども、老人、若い女性の像があったが、それは、子牛と牡牛が自然人の感情と力を表したからであり、ヘビが感覚的人間の分別とずる賢さを表したからであった。子どもは無垢と仁愛を、老人は英知を、若い女性は真理の情愛を意味した。いったん照応の知識が失われると、後の世代の人々は先祖のつくった画像や彫像を聖なるものとして、そしてついには神として崇めるようになった。というのは、それらが教会の中や近くにあったからである。このような理由で、古代の人々は、木々の種類に応じて、庭園や果樹園で礼拝し、また山や丘で礼拝したのである。庭園と果樹園は英知と知性を意味し、それぞれの木は英知と知性のいろいろな側面を表した。たとえば、オリーブは愛の善を、ぶどうはその善から出る真理を、杉は合理的善と真理を、山は最高の天界を、丘はその下の天界を意味した。照応の知識は、主の降臨に至ってもなお東方の人々の間に残っていたという事実は、主がお生まれになったときに、東方から賢人たちが主を訪ねたところから明らかである。それゆえ、星が彼らを導き、彼らは金と乳香と没薬の贈り物を持参したのである。彼らを導いた星は天界からの知識を、金は天的善を、乳香は霊的善を、没薬は自然的善を意味した。これら三種の善こそが、すべての礼拝の源泉なのである。それにもかかわらず、照応の知識は、イスラエル人、ユダヤ人にはまったく知られていなかった。彼らの細々とした礼拝のすべて、モーセによって彼らに与えられた律法と審判のすべて、そして聖言のすべては照応であったにもかかわらず知られていなかった。その理由は、彼らがほんとうは偶像崇拝者であり、礼拝に天的意味や霊的意味があることを知りたいとさえ思わないような性格であったからである。彼らは、これらすべてはそれ自体神聖であると信じていた。したがって、たとえ天的、霊的意味があることが明らかにされたとしても、彼らはそれを拒否しただけでなく、冒涜したであろう。この結果、天界は固く閉ざされたので、彼らは永遠のいのちが存在することに気づくことがなかったのである。(『真のキリスト教』205)

なぜ聖言の霊的意味は、以前は明かされなかったのか

 聖言の霊的意味の理解を可能にする照応の知識は、この時期以降明かされなかったが、それは、最初期のキリスト教徒がはなはだ単純であったので、この知識を彼らに明かすことができなかったためである。たとえ明かされたとしても、彼らには役立たなかったであろうし、理解できなかったであろう。彼らの時代以降、暗闇が訪れ、キリスト教世界全体を覆った。最初は多くの異端信仰が広まったためであり、その後は、永遠からの神の三位格の存在について、またキリストはエホバ神の子ではなくマリアの子であるという彼の位格について、ニカイア公会議の決定と教令が出たためである。それが、現在の義認への信仰が流れ出す源泉であり、それにしたがって三位格の神が出てくるのである。ちょうど体の各部分が頭に従属しているように、今日の教会のあらゆる部分がこの信仰に従属している。彼らはこの信仰を証明するために聖言のすべてを用いたので、霊的意味は明かされることができなかった。もし明かされたら、彼らはそれを同じ目的のために利用しただろうからである。彼らは、これによって聖言の神聖さを汚し、自らに天界を閉ざし、主を教会から追い出したであろう。(『真のキリスト教』206)

 霊的意味の把握を可能にする照応の知識は、現在、明かされているが、それは教会の神的真理が光の内に来ているからである。聖言の霊的意味はこれらから成っている。これらの真理が人間のうちにある時、聖言の文字の意味が歪曲されることはない。聖言の文字の意味は、いずれの方向にも曲げることができる。しかし、もし誤った方向に曲げられるなら、その内部の神聖さは破壊されるし、外部の神聖さも破壊される。しかし、もし真理の方向に曲げられるなら、その神聖さは保持される。・・・今日、霊的意味が開かれていることは、黙示録に描かれているように、ヨハネが天界が開かれて白馬を見たこと、そして太陽の中に天使が立って全ての人を大宴会に招いているのを見聞きしたビジョンに示されている。(黙示録19:11-18)霊的意味が長い間知られることがないという事実は、獣および白馬にまたがる人と戦う地上の王たちによって示されている。(黙示録19:19)また、息子を生んだ婦人を追って、荒野に入って、彼女をおぼれさせようと口から川のように水を吐き出した龍によって示されている。(黙示録12:13-17)(『真のキリスト教』20)

聖言の文字の意味は、霊的、天的意味の基礎、容器、土台である

 すべての神聖なものに、最初のもの、中間のもの、そして最後のものがある。最初のものは、中間のものを通って最後のものへと至る。こうしてそれは実在し存続する。したがって最後のものは、最初のものの基礎である。また、最初のものは中間的なものの中にあり、これを通って最後のものの中にある。それゆえ、最後のものは、また、容器である。最後のものは容器であり基礎であるから、それは構造的支えである。教養ある人であれば、これら三つの用語は、目的、原因、結果と名づけうることがわかるであろう。あるいは存在、生成、出現と言えるであろう。目的は存在であり、原因は生成であり、結果は出現である。したがって、あらゆるものが、最初、中間、最後、あるいは、目的、原因、結果という三つ組みを含んでいる。これがわかると、あらゆる神のみわざは、その最後のものにおいて完全、完璧であること、その最後のものにすべてが含まれていることががわかるであろう。なぜなら、先立つものが同時にその中にあるからである。(『真のキリスト教』210)

 ここから聖言の本質が明らかである。すなわち、自然的な文字の意味の内部に、霊的な内的意味がある。そしてさらにこの内部に、天的な最内奥の意味がある。このように、文字の意味と呼ばれる自然的な最外部の意味は、二つの内的意味の容器であり、基礎であり、土台である。(『真のキリスト教』212)

聖言の文字の意味は、そこに隠された真理のための防護である

 聖言の文字の意味は、そこに隠されたほんとうの真理を守るものであることを知らなくてはならない。文字の意味は人間の理解に応じてあちらこちらに曲げて説明されがちであるが、それでも内的意味は傷つけられ侵害されることがない。それが真理を守るということである。というのは、聖言の文字の意味が人によって異なって解釈されたとしても、それは危害を加えることはないからである。しかし、もし内部に隠された神の真理が歪曲されるなら、それは危害を加えることになる。これは聖言への暴力行為だからである。これが起こらないように、文字の意味によって守られているのである。それはまた、宗教によって誤謬にとらわれているものの、その誤謬を断言しない人々の間で守られている。彼らは危害を加えることはないからである。この防護は、聖言においては、ケルビム(智天使)によって意味され、描かれている。それは、アダムとその妻が追放された後、エデンの園の入り口に置かれたケルビムによって意味されている。次のとおりである。「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」。(創世記、3:23-24)ケルビムは防護を意味する。命の木の道は主に至る道であり、私たちは、それを聖言を通してもっている。回る炎のつるぎは、最外部における神の真理である。それは聖言の文字の意味のように、あちらこちらに曲げられうる。(『聖書の教義』97)

 

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