再生2

Swedenborg Sampler

試練

 試練なしに再生する人はいない。そして多くの試練が、次から次に起きる。その理由は、再生はその目的が古い人間のいのちが死に、新しいいのち、天界のいのちが浸透することだからである。したがって、明らかに、必然的に戦いが起きる。なぜなら古い人間のいのちは、抹殺されないように抵抗するし、古い人間のいのちが絶滅していなければ、新しいいのちは入っていけないからである。こうして両者間で戦いがあることは明らかである。そして、それはいのちをめぐるものだから激しいものになる。(『天界の秘義』8403)

 それら(いのちの器)が、主の愛に属するどんないのちにも従順で受容的になりうるには、その前にそれらは柔軟にされていなければならない。そのような柔軟化が実現される唯一の手段が試練なのである。なぜなら、試練は、自己愛や、自分と比較した他者への侮辱などを取り除くからである。したがって、自己栄化的なものや、そこから生じる憎悪や復讐心を取り除く。それゆえ、試練によって心の容器が、ある程度やわらげられ鎮められるとき、それらは継続的に人間に流れてくる神の愛のいのちに服し、従順になり始めるのである。(『天界の秘義』3318)

 試練の戦いの中にあって勝利する者は、悪霊や悪魔の一団に対抗する力をますます身につけるので、ついに悪霊たちは彼を試そうとしなくなる。彼が勝利するたびに、主は、彼がそこから戦った善と真理を秩序ある状態に戻される。そしてそれらは浄化される。そしてそれらが浄化されるに応じて、愛の天的なものが外部人間に注ぎ込まれ、照応が実現する。(『天界の秘義』1717)

 あらゆる戦いのうちでもっとも困難な戦いは、自己愛から来る支配欲と戦うときに生じる。もしこれを鎮めることができるなら、他の悪への愛を鎮めることは容易である。なぜなら、これがあらゆる愛の頭領だからである。(『神の摂理』146)

 人が心の中で信じ、それに従って生きたいと思っている信仰の真理が攻撃されるとき、とりわけ人が霊的いのちを置いている愛の善が攻撃されるとき、それは霊的試練と呼ばれる。これらの攻撃はいろいろの状態で生起する。たとえば善と真理に対する障害物が思考と意志に流入することによって、さらに、人が行った悪や考えた誤謬が継続的に現れたり思い出されたりすることによって、こうしてそのような悪や誤謬が充満することによって生起する。そして同時に心の内部が明白に閉じられ、結果的に天界との交流が塞がれることによって、自分の信仰から考える能力が遮断され、また自分の愛から意志する能力が遮断されることによって生起する。このようなことは、人間についている悪霊によって引き起こされる。そしてそのようなことが起きるときは、内的な苦悩や良心の痛みという形で現れてくる。なぜなら、そのようなことは人の霊的いのちに影響し人を苦しめるからである。というのは、人はそれが悪霊から来るのではなく、自分自身の内部から来ると思っているからである。人は、そのような攻撃が悪霊から来ることを知らない。人間には霊がいること、人の悪には悪霊が、善には善霊がいること、人の思考と情愛には霊がいることを知らない。(『新エルサレムと天界の教義』196)

 良心がなければ、だれも試練(霊的試練)に会うことはない。なぜなら、霊的試練とは良心の苦しみだからである。(『天界の秘義』4299)

 すべての試練にある種の絶望が伴う。そうでなければそれは試練ではない。したがってその後に慰めがある。試練のさ中にある人は、不安の中に置かれ、その結果、その目的は何かについて絶望的状態に陥る。試練の戦いとはそれ以外のなにものでもない。勝利を確信している人は、不安の中にいないし、試練の中にはいない。(『天界の秘義』1787)

 すべての試練において、主の存在と慈悲に関して、また救い等々に関して疑念がある。なぜなら試練の中にある人は、絶望するほどの内的不安の中にいるからである。彼らはそのような状態に大部分留めおかれる。それは彼らが最後には次のように承認するためである。すなわち、すべては主の慈悲のもとにある、人は主のみによって救われる、人には悪以外に何もない、そうしたことを、人は戦いとそれに勝利することによって承認するのである。(『天界の秘義』2334)

 試練においては、人は外見的には自分ひとりで取り残されているように見えるが、実際はそうではない。なぜなら、主はその時に、彼の内奥において、彼のもとに最大に臨在され、支えておられるからである。したがって、だれでも試練を乗り越えるとき、人は内奥において主に連結されるのである。(『真のキリスト教』126)

良心

 良心は、人が信じている宗教的原理を、内面で受け入れるなら、それに応じて形成される。(『新エルサレムと天界の教義』130)

 良心は、教会の人々が、聖言または聖言に基づく教義に由来する信仰の真理を心の中で受け入れるに応じて、その真理によって形成される。というのは、人が信仰の真理を知り、自分なりにそれを理解し、それを意志し、実行するときに、良心を獲得するからである。心の中に受け入れるとは、意志の中に受け入れることである。というのは、人の意志はいわゆる心と呼ばれるものだからである。したがって、良心をもつ人々は、語ることを心から語るし、行うことを心から行う。彼らはまた、分裂していない心をもっている。なぜなら、自らが真理であり善であると理解し信じるものにしたがって、彼らは行為するからである。(『新エルサレムと天界の教義』131)

 もしわれわれが、この世で良心を受け入れなければ、来世に行ってもそれを受け入れることはない。したがって救われない。その理由は、われわれが、天界が流入し作用する内的場所を失うからである。つまり主が働かれ、ご自身へと導かれる場所を失うことになるからである。良心は、天界から流入するものを受け入れる心の場所なのである。(『新エルサレムと天界の教義』138)

 良心は、主から来る新しい意志であり、新しい知性である。したがって、それは主の人間への臨在である。この臨在は、人が善と真理の情愛の中にいればいるほど身近なものになる。(『天界の秘義』4299)

 再生した人にあっては、善と真理なるものに関して良心がある。そして良心から人は善を行い、真理について考える。・・・再生していない人には良心がない。あるいはあるとしても、それは仁愛から善を行うわけでもなく、信仰から真理について考えるわけでもない。そうではなく、それは自己愛と世間愛に由来するものである。したがって、それは偽りの欺瞞の良心である。(『天界の秘義』977)

再生は難しくない

 天界的な生き方をすることは、想像するほど難しいことではない。何であれ、人が偽りであり不正であるとわかっていることに遭遇し、それに心ひかれるとき、それは神の教えにそむくことであるからすべきでないと思うだけでよいのである。もし人がそのように考えることに慣れ、習慣になれば、徐々に天界に連結され始め、ついに天界に連結されて、心のより高い領域が開く。これが開くと、人は偽りであり不正であることが見えるし、見えれば、そのようなものは放逐される。なぜなら見えるようになるまで、どんな悪も追いだされることはないからである。これは、われわれに自由があるから入ることができる状態である。なぜなら、だれもがこのように考える自由をもっているからである。しかしいったんこの過程が開始されると、主がわれわれの心の内部で驚くべき働きをされるようになる。すなわち、悪が見えるだけでなく、それを拒絶し、退けるという働きである。これが「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)という主のことばの意味である。(『天界と地獄』533)

 人を天界へと導く生き方、すなわち霊的生活は難しいと信じている人たちがいる。なぜなら、人は現世を断念し、肉的欲求を脱ぎ捨て、霊的に生活しなければならないと聞いているからである。彼らは、これは富や名誉など現世のことがらを捨て去り、神と救いと永遠のいのちについて敬虔の念をもって瞑想し、祈り、聖言と宗教書を読む生活を送ることだと理解している。現世を捨て去り、肉的ではなく霊的に生きるとはそのようなことだと考えている。私は多くの経験から、また天使たちとの会話から、ほんとうはそうでないことを知るようになった。実際、現世を断念し、そのようなやり方で生活する人々は、天界的な喜びを受け入れることができない物悲しいいのちを身につけることになるとわかった。なぜなら、すべての人のいのちは彼のもとにとどまるからである。しかし、天界的ないのちを獲得するには、人は現世を全面的に生き、仕事や業務に従事し、そしてそこで道徳的、社会的に生活することによって、霊的いのちを受け取らなくてはならないのである。それ以外の方法で霊的いのちが形成されることはない。あるいは、人の霊魂が天界へ行く準備ができることはない。(『天界と地獄』528)

 現世を断念するとは、神と隣人を愛することを意味する。人が主の教えにしたがって生きるとき、神は愛される。人が役立ちを行うとき、隣人は愛される。(『新エルサレムと天界の教義』126)

 ➡死後のいのち1