キリスト教会

第四の教会、あるいは最初のキリスト教会

 キリスト教会は、本質的に内部の形において表象的教会と同じである。しかし、この教会の表象物、意味するものは、主がこの世に来られて後は廃止された。なぜなら、そのすべてあらゆるものが主を、そして結局、主の王国の事物を表象したからである。これらは主に由来するものであり、主そのものだからである。しかし、最古代教会とキリスト教会の相違は、昼の太陽の明るい光と夜の薄暗い月や星の光の相違と同じぐらい大きい。というのは、内部のあるいは初期の方法で諸善を見るのは、あたかも明るい太陽の光の下で昼間に見るようなものであり、一方、外部のあるいは後期の方法で見るのは、薄暗い月や星の光の下で夜に見るようなものだからである。最古代教会と古代教会の違いも、ほとんど同じだった。ただキリスト教会に属する人々は、もし内部のものを承認できるなら、すなわち主が教えられた真理と善を信じ行うなら、より明るい光の中に住むことができたという点では違いがあった。実際の善はいずれにおいて同じであったが、両者の違いは、一方は明るい光の中で善を見ており、他方は薄暗い光の中で見ているという点にあった。明るい光の中で見る人は、天界の天使が見て、見るものに情愛を抱くのとほぼ同様に、数え切れない秘義(arcana)を見る。他方、暗がりの中で見る人は、疑問の余地のないものをほとんど見ることがない。そして彼らが見るものは、夜の影がすなわち誤謬が混じっている。また彼らは内部的にそれらに情愛を抱くことがない。(『天界の秘義』4489)

キリスト教会の原初の状態とその後の堕落

 教会が主によって建てられる時、それははじめは非の打ち所がない。人はお互いを兄弟として愛する。それは主の降臨の後の原初教会によって知られている。その当時は教会の全員が兄弟として生活した。彼らは互いに兄弟と呼び、愛し合った。しかし時が経つにつれ、仁愛は消えていき失われた。そしてそれが失われると、そこに悪が入り込んだ。そして悪とともに偽りも入り込んだ。ここから分派と異端が出てくる結果となった。それらは、もし仁愛が支配し生き続けたなら存在しなかったであろう。(『天界の秘義』1834)

キリスト教会の現状

 私は次のように聞いている。すなわち最古代教会の人々に存在していた意志の善は、洪水以前の人々の間で死滅した、そして現在では、キリスト教会の人々の間で知性の善がほとんどないほど滅びかけていると。その理由は、彼らが感覚で理解できるもの以外何も信じていないからである。そして今日では、彼らは感覚から推論するだけでなく、神聖な秘義についても古代人には知られていなかった哲学によって推論しているからである。その結果、知的な光は完全に暗くなっている。その暗さはますます濃くなり取り除くことができなくなっている。(『天界の秘義』2124)

第一キリスト教会の終焉

 ほとんどの人々は次のように信じている。最後の審判の時に、目に見える世界のすべてが破壊され、地上は劫火で焼き尽くされる、太陽と月は光を失い、星は消え失せる、そしてその後、新天新地が現れるであろうと。人々はこの観念をそのような出来事が言及されている預言的啓示から得た。しかしその時、実際に起きることは、すでに最後の審判について述べたところから明らかなように、それとはまったく異なっている。それらの諸段落で示されているように、最後の審判とは、ある国民にとっての教会の終わりであり、別の国民にとっての教会の始まりである。それ以外の何ものでもない。このある国民にとっての終わり、別の国民にとっての始まりは、主がもはや承認されなくなった時に、また同じことであるが、もはや信仰が存在しなくなった時に起きる。いかなる仁愛も存在しない時、承認も信仰ももはや存在しない。というのは、信仰は仁愛のある人々以外には不可能だからである。そのような状況で、教会には終わりが来る。そして他の人々に移される。それは主ご自身が福音書で、最後の日について、代の終わりについて教えられ予告されたことすべてから明らかである。しかしこれらの箇所は、鍵すなわち内的意味がなければ理解することができない。(『天界の秘義』3353)

 

➡主の再臨