これらすべてが、神は位格においても本質においても一者であり、ご自身の内に三一性があり、そしてその神こそ主であるということを証言している。主についてのこれらの知識が今はじめて明らかになっているが、それは黙示録第21章、第22章に次のように予告されているからである。前の教会の終わりに新しい教会が設立されるであろう、そこにおいてはこれが新しい教義となるであろうと。そこで新しい教会と言われているのは、この教会のことである。主を天と地の唯一の神として認める人以外そこに入ることは許されない。そのためその教会は「子羊の花嫁」と呼ばれる。私はさらに次のように述べることができる。全天界は主だけを認めており、主を認めないものは天界に入ることを許されないと。天界は主がおられるがゆえに天界である。この信仰ゆえに、われわれは愛と信仰の中に保持され、ヨハネ福音書(14:20)で主が述べられたように、われわれは主にあり、主がわれわれにおられる。(『神の摂理』263)
新教会は新エルサレムによって表わされる
新教会は、神から天界を通って降りてくる新しいエルサレムによって表わされるが、その理由はエルサレムがカナンの地の中心都市だったからである。神殿がそこにあった。祭壇がそこにあった。供犠がそこで行われた。そこは聖なる礼拝の中心地だった。年に三度、全国のすべての男子は礼拝に来ることを命じられた。また、エルサレムは主がおられ、神殿で教えられ、後に主の人間性を栄化されたところだった。これらがエルサレムが教会である理由である。エルサレムが教会を意味することは、主によって新しい教会が設立されるという旧約聖書の預言から明白である。というのは、それはそこではエルサレムと呼ばれているからである。(『真のキリスト教』782)
新天新地
「そして私は新天新地を見た」(黙示録21-1)は、主がキリスト教徒からなる新しい天界を造られるを意味する。そしてそれは、今日、キリスト教徒の天界と呼ばれ、そこには主をあがめ、聖言の主の戒めによって生きた人々、したがって仁愛と信仰をもつ人々が住んでいる。その天界には、また、すべてのキリスト教徒の小さな子供たちが見られる。新天新地は、わたしたちの目に見える自然の天空や人類が住む自然の大地を意味するわけではない。そうではなく、それらは霊的天界であり、天使の住む天界の土地を意味する。その天界と天界の土地の意味するものは、もし人が聖言を読むとき、純粋に自然的物質的観念から離れられさえするなら、だれもが理解し認める何かである。(『啓示による黙示録解説』876)
すべてのものが新たにされる
すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきであり、まことである」(黙示録21-5)。これは主が、ご自身がこの世におられた時から現在に至るまで、霊の世界に入ろうとしている人、死ぬ人に、最後の審判について語られることを意味している。すなわち、過去の天、過去の地、また過去の教会は、それらの内のすべてのものとともに、総体的にも個別的にも滅びるであろう。そして新しい天、新しい地、新エルサレムと呼ばれる新しい教会が創造されるであろう。そして彼らはこれをしっかりと知り、記憶するであろう。なぜなら、主ご自身がそれを述べられたからである。(『啓示による黙示録解説』886)
都市は方形である
「都は方形である」(黙示録21-16)。その都市が四角形であった理由は、四角形あるいは正方形は正義を意味するからである。というのは、三角形は正しさを意味するからである。これらすべては、最低の自然的レベルにおける象徴である。(『啓示による黙示録解説』905)
都市は純金である
「そして都は透き通ったガラスのような純金で造られていた」(黙示録21-18)。これは、その教会に属するすべてが、主から天界をとおして来る光といっしょになって流れてくる愛の善であるという意味である。その都市つまりエルサレムは、その都市内あるいは外壁の内側のすべてについては主の新教会であるという意味である。金は後述のとおり、主から来る愛の善を意味する。透明なガラスのようであるとは、輝かしい神の英知があることを意味する。そして、その英知は天界において光として現われ、太陽として主から流れ入るために、純粋にガラスのようである。そのことは、主から天界をとおして出てくる光とともにそれが流入することを象徴している。(『啓示による黙示録解説』912)
十二の土台
「都の城壁の土台はさまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった」(黙示録21-19)。これは、悪を罪として避け、主に直に向き合い十戒の戒めにしたがって生きる人々にとって、聖言の文字の意味に由来する新教会の教義のすべてをその順序で意味している。というのは、彼らだけが宗教の基礎である神への愛と隣人愛をもっているからである。(『啓示による黙示録解説』915)
十二の真珠の門
「十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られていた」(黙示録21-21)。これは、主の承認と認知が、聖言に由来する真理と善のすべての概念を一つにし、教会へと導くという意味である。十二の門とは、要するに、人がそれによって教会へと導かれる真理と善の認知のことである。十二の真珠も、要するに、真理と善の認知の意味である。それが門が真珠であった理由である。「門はそれぞれ一つの真珠で造られていた」理由は、門と真珠によって表わされる真理と善のすべての認知は、それらを一つにする唯一の認知に関わるからである。そしてこの唯一の認知こそ主についての認知なのである。(『啓示による黙示録解説』916)
都市の聖所
「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」(黙示録21-22)。これは、この教会には内部的なものから切り離された外部的なものは一切ないという意味である。というのは、主の神的人間性における主ご自身が、近づいて崇拝されあがめられる唯一の存在だからであり、教会のすべてはそこから出てくるからである。(『啓示による黙示録解説』918)
都市の中心にあるいのちの木
「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結ぶ」(黙示録22-2)。これは、教義的真理と結果としての教会の生活のもっとも内奥に、神的愛の主がおられるということ、そしてその主から、人があたかも自分からしていると思っているあらゆる善が流れ出ていることを意味する。(『啓示による黙示録解説』933)
いのちの木の葉
「その木の葉は諸国民をいやす」(黙示録22-2)。これは合理的真理を意味する。これによって、悪の中にいる人、したがって誤謬の中にいる人は、健全な思考と正しい生活に導かれる。木の葉は後述のとおり、合理的真理を意味する。諸国民は善とそれに伴う真理によって統治されている人々を意味するが、反対の意味で、悪とそれに伴う誤謬にとらわれている人々を意味する。(『啓示による黙示録解説』936)
主の顔を仰ぎ見る
「彼らは御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、御名がしるされている」(黙示録22-4)。これは、彼らは主に目を向け、主は彼らに目を向けられるを意味する。なぜなら、彼らは愛によって連結されたからである。神と小羊の顔を見る、あるいは主の顔を見るは、主の顔を見ることを意味しない。なぜなら、だれも神の愛と知恵の中におられるような主の顔を見て生きていることはできないからである。主は天界の、霊界全体の太陽だからである。主ご自身の中におられるような主の顔を見ることは、太陽の中に入って一瞬にしてその火で燃え尽きるようなものである。(『啓示による黙示録解説』938)
都市の光
「夜は、もはやない。あかりも太陽の光もいらない。主なる神が彼らを照らすからである」(黙示録22-5)。これは、新エルサレムには信仰における誤りはない、そしてこの教会の人々は神の概念を自然の光から得ることはない、つまり自分の知性から得ることはない、あるいは慢心による名誉への欲望から得ることはない、そうではなく、彼らはそれらの概念を聖言からの霊的光の中で、主だけから得るであろうということを意味する。(『啓示による黙示録解説』940)
主の花嫁そして妻としての新教会
夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえてとは、聖言によって主と結ばれた新教会を意味する。ヨハネは、聖なる都、新しいエルサレムが、神のもとを出て、天から下ってくるのを見たという。そしてその都が夫のために着飾った花嫁のようにととのえられていたのを見た。ここから、エルサレムが教会だと理解されること、ヨハネは最初それを都市として後には婚約した乙女として見たが、表象的には都市として、霊的には婚約した乙女として見たことが明らかである。(『啓示による黙示録解説』881)
太陽を身にまとった女性で表わされる新教会
「ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み」(黙示録12-1)は、天界における主の新教会を意味する。それは新しい天界であり、地上に現われようとする主の新教会であり、新しいエルサレムである。ここで女性が主の新教会を意味することは、霊的意味で理解された本章のいろいろな事柄から明らかである。(『啓示による黙示録解説』533)
新教会は最初に少数者の間に設立される
「女は荒野へ逃げて行った」(黙示録12-6)は、新エルサレムである教会は最初に少数者の間に存在するという意味である。女は新教会を意味する。荒野はもはやいかなる真理もないところである。それが最初に少数者の間にあるという意味になるのは、「そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった」と続いているからである。(『啓示による黙示録解説』546)
新教会の教義は天界から来る
新教会の教義は天界から来る。なぜならそれは聖言の霊的意味から来るからであり、聖言の霊的意味は天界における教義と同一だからである。(『新エルサレムと天界の教義』7)
新教会の本質的要素
唯一の神の信仰と結びつける教会の本質的要素は、仁愛、善行、悔改め、神の律法にしたがった生活である。これらは、信仰とともに、人の意志と思考に影響を与え変化させるので、人を主に結びつけ主を人に結びつけるのである。(『新教会教義要綱』96)
新教会はすべての教会の王冠である
本新教会はこれまで地上に存在したすべての教会の王冠である。なぜなら、それは霊魂が身体にあるように、内部に見えない神がおられる一人の見える神を礼拝するからである。このようにして神と人間の結びつきが可能となるし、それ以外の方法はない。なぜなら人は自然的であり、自然的様式で考えるからである。そして結びつきは人の思考の中で、したがって人の愛の情愛の中で生じなければならない。そしてこれは人が神を人として考えるときに起きるのである。(『真のキリスト教』787)
新しい天界に由来する新教会は以前の教会とまったく異なる
教会が教会ではなくなるとき、つまり仁愛が滅びて主によって新しい教会が設立されるとき、それは旧教会に属していた人々の間に造られることはまれで、むしろ教会が存在しなかった人々、すなわち異教徒であった人々の間に造られることに注意すべきである。これは、最古代教会が滅びるときに起きたことである。その当時、ノアと呼ばれる新しい教会、洪水の後の古代教会が、異教徒の間に、すなわちそれ以前に教会がなかった人々の間に設立された。この教会が滅びるときも同様に、教会のようなものがアブラハムの子孫の間に、ヤコブを通して設立された。このように再び異教徒の間に設立された。というのは、アブラハムは召命を受けたとき異教徒だったからである。(『天界の秘義』2986)