スウェーデンボルグ神学に学ぶ

スウェーデンボルグ神学に学ぶ

目次

編者はしがき

1  人間の本質

2  遅かれ早かれ

3  深みが深みに呼びかける

4  精神のカオスを考える

5  群衆に従う

6  宗教「組織」について

7  役立ちの教会

8  愛のきずな

9  密かな贈り物

10  キリスト教神学とホログラフィー・モデル

11   第一部 基本原理 第二部 キリスト論 第三部 教会論と倫理

12  質の時間

13  進歩の問題

14  スウェーデンボルグ神学に学ぶ

15  持ちものをすべて売り払いなさい

16  悔い改めの精神

17  永遠の王国

18  神の子

19  シオンのために黙せず

20  社会のきずな

21  階層秩序の探求

22  あたかも自分から

23  実際的生活

24  内部で起きていること

25  暴力への対処

26  深みから

27  現代の母性

28  組織への忠誠

29  困難な転換

30  主の導き

訳者あとがき

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内容紹介のために、本書の白眉といえる「4.精神のカオスを考える」の全文を以下に掲げます。

 もっともなことですが、この世の行く末を心配しているという声をしばしば耳にします。それは決して私だけではないでしょう。そして、私だけが楽観論者であるように感じられる時があります。しかし、少し深く考えてみると、それは単純化しすぎた言い方だと分かります。私は将来についてだけ楽観論者です。過去について言えば、悲観論者です。
 少し時間をとって、人間社会一般の状態と関連させながら、このことを論じてみたいと思います。そして、残りの話の大部分は、これが各人の再生の過程といかに関わるかについて論じるつもりです。全体として言えば、この話は『天界の秘義』842節3に関する一種の注釈になるでしょう。
  
何であれ、それが秩序ある状態に戻る前に、最初に一種の混乱状態、事実上のカオスになるのは、まったく正常なことである。こうして、うまく適合しないものどうしは互いに切り離され、そして、完全に切り離された時に、主がそれらを秩序ある状態に配列される。

 最近、『メッセンジャー』(原注 Swedenborgian Church で発刊されている月刊誌)に載った私の論文「古き良き時代」をご覧になった人があるかもしれません。私たちが表層の下の世界を観察し始めると、すぐに必要になる歴史観がありますが、この論文はその特殊な適用について述べています。さもないと、私たちは「その時代には巨人がいた」〔「創世記」6章4節〕というように過去をロマン化しがちです。

 わが国の歴史を振り返った場合、高貴な道徳律が当然と見なされていたような「古き良き時代」はどこにあるのでしょうか。人々は、現在、寛容の行き過ぎを嘆いていますが、それ以前の堅実な時代とはいつだったのでしょうか。なるほど60年代にヒッピー文化とともに、堕落が始まりました。しかし、50年代はロックンロールの時代で、決して黄金時代などではありませんでした。40年代は、第二次世界大戦があり、とても牧歌的とは言えない時代でした。30年代は大不況の時代で、そこに時計の針を戻したいという人はいないでしょう。そして騒々しい20年代は、禁酒法ともぐり酒場の時代で、それはほとんど退廃の象徴でした。その前には第一次世界大戦の時代がありました。

 児童労働がピークに達したのは、今世紀の最初の10年間においてでした。ブリタニカ百科事典から引用します。「1832年には、ニューイングランドの工場労働者の五分の二が児童であった。1870年の国勢調査によると、10才から15才の年齢の児童75万人が、アメリカ全体で就労していた。その数は1870年から1910年まで増加した」。

 家族の価値について、これが語っていることを考えてみてください。彼らは学校が終わってマクドナルドで働いている生徒ではありませんでした。『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』に昨冬載った世紀転換期の写真があります。それはヘルメットをかぶり、つるはしをもち、タバコパイプをくわえたうす汚れた一鉱夫の写真ですが、年齢は7、8歳にしか見えません。

 さて、そこで1890年代に戻ります。私は1893年の世界宗教会議に関心をもっていますので、現在これに関するものを読んでいます。確かに、これは堅実なビクトリア朝風の道徳性が頂点に達した時代でした。その会議の才能豊かな指導者は、シカゴ出身で、スウェーデンボルグに傾倒する法律家チャールズ・ボニーでした。前述のとおり、彼は黄金時代が間もなく来ると感じていました。世界、とりわけアメリカは、宗教を含むあらゆる領域で大変な進歩を遂げたと感じていました。

 法律家として、彼はいくつかの問題を解決するために熱心に仕事をしていました。陪審員は政治的な縁故関係で任命されるべきではないと彼は考えました。移民労働者のための教育プログラムをつくるべきであり、彼らを週80時間以上働かせるべきではないと考えました。未成年者の飲酒が広がっているという問題に対処するために、酒場を規制すべきだと考えました。もし私たちが議会を見るなら、今日、問題を紛糾させている白人優位の考えが当然と見なされていたことが分かります。政治、経済の重要問題が男性の手になければならなかったことは言うまでもありません。

 ものごとは後から振り返ってみるとよく分かります。私たちが、1890年代を見るなら、20世紀の諸問題の種があることが分かります。1893年の会議に支配的であった楽観論は、人間の自己中心性の深層を完全に無視したところから来ていると言ってよいでしょう。あるいは、妥当なスウェーデンボルグ派の表現を用いるなら、私たちがこれまで見てきたもの、今も見ているものは、古い諸価値の崩壊ではなく、常にそこにあった悪が表面化しているのだと言えるでしょう。
  
 何であれ、それが秩序ある状態に戻る前に、最初に一種の混乱状態、事実上のカオスになるのは、まったく正常なことである。こうして、うまく適合しないものどうしは互いに切り離され、そして、完全に切り離された時に、主がそれらを秩序ある状態に配列される。

 ビクトリア朝風の道徳は、いろいろな卓越の考えと固く結びついていました。これらの考えは、互いに適合的ではなくなりました。それらが切り離されると、道徳性を支える支柱は一つひとつ取り除かれ、その結果、混乱が生じました。その混乱は、私たちに物事を再整理し、道徳性のより確実な根拠を見出す機会を与えてくれます。

 居心地が良いなら、私たちはこのようなことを決してしないということは完全に証明されています。私たちには、自分に直接関係しないことはすべて無視できるという驚くべき能力があります。私たちは現代の問題を知っているので、ボニーの楽観論に驚くかもしれません。また、私は彼が自分が取り上げた問題の深い原因を認識しなかったことで彼を批判してもよいのですが、しかしそれにもかかわらず、彼は立派な人物であることに変わりありません。居心地の良い階級に属していながら、率先してそのような改革を進めた人は、それほど多くありませんでした。現代の人間としてではなく、その当時の人間として、彼はその時取ることができた措置、実際に取られた措置に関心をもったのです。

 この議論をさらに細かく展開することはできますが、私たちの関心は、社会的な事柄よりむしろ個人的な事柄にあります。そして今、私たちは思った以上に個人的問題を扱えるところに来ています。重要なことは、次のように自問してみることでしょう。もし私たちが、かつて直面した問題、対処しなければならなかった困難な課題をまじめに振り返るなら、いったい何人の人が時計の針を元に戻したいと思うだろうかと。あるいは、今の自分より昔の自分の方が良い人間だったと感じている人がどれだけいるだろうかと。おそらく誰でも、ある出来事を振り返ってみるなら、はっきりと思い出す嫌なことがあって、きまり悪く感じ、その時、そういう出来事に会わずに済むことはできなかったものかと考えるのではないでしょうか。

 『神の摂理』183節2には、「悪は現れてこない限り、誰からも取り除かれることはできない」(『神の摂理』278節も参照)とあります。私たちが、より深い悪と直面している自分を見出すことが、再生の過程における進歩の印であることには疑問の余地がありません。私は、数年前話をした老婦人を思い出します。彼女は老年の美の模範となりうるような人でしたが、その人が自分は本当は人々をあまり愛していなかったことに気付いたと話していました。

 そのような感情は誰にでもあります。私は、教会のキャンプの責任者として初めてメイン州に行った時のことを思い出します。そこで、私はキャンプ施設の組み立てと後片づけの仕事をしていました。テントを張ったり、水場を整備したり、またとりわけメッキをほどこした古い鉛管の類と格闘するのは楽しい仕事でした。私は、トイレ・タンクのメカニズムに驚くべき多様性があることを知り、とても愛着を覚えました。特に、マードック・キャビンのトイレは芸術品です。キャンプ施設を案内する時は、これを見せるべきです。もしそれが更新される時には、それを頂戴したいものです。

 しかし、初日の土曜日が近づくにつれて、私は緊張してきました。人と付き合うことは、パイプをつなぐような簡単な仕事ではありません。人間の問題を処理するのにスパナを用いることはできません。「よし、これでできあがった」と言える時はほとんどありません。みんなが帰った時にはほっとしたものです。それから自分が自信をもってやれる単純な仕事に戻りました。

 これが私の「通常の」態度の描写です。これが私に一番ぴったりくる「通常の」考え方です。しかし、それが見落としていることは、メッキをしたパイプは私たちに微笑んだり、私たちを抱きしめたりすることはできないということです。マードックのトイレでさえ、質問したり、何か気のきいたことを言ったりすることはできません。つまりそれが見落としているのは、もし私が自分が思っていたほど人を評価し愛していたなら、土曜日が近づくにつれ期待に心が高揚しただろうということです。肯定的なイメージがすぐ心に浮かんだことでしょう。荷物を詰めたり、郵便物を転送してもらうように手配している愛すべき人たちの様子が心に浮かんだことでしょう。もちろん人との付き合いには、パイプをつなぐ時に必要になるよりもっと多くの、人を緊張させる責務が伴います。しかしまた、もっと大きい報いもあるのです。

 多くのみなさんが御存知のように、私の独特のリーダシップのスタイルが時代に合わなくなった時が来ました。それは逃れようのない事実でしたが、それを受け入れることは決して容易ではありませんでした。私は、自分の人生のその特定の時期のことについて、事細かに話すつもりはありません。しかし、もっと一般的な表現で、話に戻りますので、私はみなさんに、この状況は、私の生活のすべてを特徴づけるものとなったことを理解していただきたいのです。家庭生活も教会の仕事も含めすべてです。かなり多くの点で、私は自分が「ふさわしくない」と分かりかけていましたが、同時にそれを認めることに抵抗していました。

 「何であれ、それが秩序ある状態に戻る前に、最初に一種の混乱状態、事実上のカオスになるのは、まったく正常なことである。こうして、うまく適合しないものどうしは互いに切り離され、そして、完全に切り離された時に、主がそれらを秩序ある状態に配列される」。青年期に、私たちは両親からある程度独立する方向に向かいます。そうなる以前は、良い行いは親の統制と結びついていました。私たちが成長して事態が変わってくると、これらの諸要素は「うまく適合しなく」なります。それらは互いに切り離されなければなりません。そしてその結果、私たちは混乱状態、事実上のカオス状態になるのです。私たちは建設的に振る舞うためのもっと適切な根拠を見出さなければなりません。

 私たちが見出す根拠はだいたい自己中心的なものですが、少なくともそれは「自分自身」ではあります。10代の初めは、私たちは他者が自分をどう見ているかにあまりにも過敏になります。これは私の男性としての視点で言うのですが、いったい10代の少女に自分は全能だという意識、つまり、少年たちは少女たちに受け入れられようと必死に努力しなければならず、拒絶されることをたいへん恐れているという意識があるのでしょうか。こういう経験は私にもありますし、おそらくみなさんすべてにあるでしょう。

 また、老化が進んでいると分かると、すべては崩れ落ちてバラバラになるような気がします。その原因は、もし私たちが青年期の諸問題を振り返ってみるなら明らかです。あらゆる努力の源になっている主要な動機は独立への欲求でした。二本の足で立とうという決意でした。最善を尽くし、人間社会の立派な構成員になりたいと望みます。それとともに、人に認められたい、有名になりたいという欲求があります。

 これは真に天使的な生き方と「うまく適合」しません。それは私たちが独立した存在ではないという単純な理由によります。別の話で強調しましたが、私たちの自我とは単なる「外観」に過ぎません。いろいろな意味でそれは幻想です。私たちが大人になったばかりの時は、それはとりわけ貴重な幻想です。自分は自分自身にとってとても重要な存在です。私たちは多くの時間を自分自身について考えることに費やします。心の内部のどこかで、私たちは自分自身をいつも注意深く見守っていなければならない、自分自身を管理せずに放っておく余裕はないと気付いています。

 私たちの愛しい幻想、私たちが正しい道を歩むのに役立ってきた幻想と別れることは容易なことではありません。自分が管理されない状態にいるかもしれないと考えると恐ろしくなります。私たちは、自分がふさわしくないことを認めたくありません。自分自身についてはいつも満足していたいと思います。ですから、本当に居心地が悪くならない限り、私たちは込み入った問題をまじめに考えようとは決してしないのです。あるいは少し堅い言い方をすれば、これらの動機が天界的な生活を送る時に必要となる諸決定と不和になる時、私たちは完全な混乱の中にいるように感じ、カオスに呑み込まれそうになるということです。

 御存知の方もいますが、聖書の神聖な物語全体の構図の中で考えると、この中心的な一節は預言書にあたると思います。聖書の文脈の中で、これらの風変わりな文書について、しばし考えてみるなら、そこには明らかに大きな変化があることが分かります。文体はもはや物語形式ではありません。次から次に激しい圧倒的に否定的なメッセージが関連性も進展もなく続きます。

 スウェーデンボルグ神学は、聖書のこの部分には見事な一貫性と関連性が表面下に隠されていることを教えてくれます。しかし、それはその一貫性と関連性を私たちに直接示してはいません。スウェーデンボルグは発酵過程との類推を行います。それはまったく無秩序に見えますが、実は確実に予想しうる化学物質をつくり出す手順に厳密に従った過程です。気象学を考える人もあるかもしれません。個人の観察だけなら、それはおおよその予想をなし得るだけです。しかし、気象衛星の助けを借りるなら、私たちはより大規模な傾向を知ることができます。そこに含まれている要因を理解すればするほど、私たちはそこに隠されている秩序をよりよく認識することができます。

 預言書に戻りますが、私は、私たちが無秩序、カオスがあるように見えることを認め、受け入れることが重要だと思います。さしあたり、背後に横たわっている秩序があるに違いないということをただ認めれば十分です。私たち自身の人生のプロセスにおいても、混乱の経験を持つことが本当に必要なのです。言い換えると、表面上の無秩序には、必ず対応するものがあるのです。

 ここで私自身の経験から参考になると思われるささやかな事例を紹介してみます。私が博士論文の論題を選んだとき、私はその分野にあまり通じていませんでした。ですから、最初の年は、まったくはっきりした方向感覚なしに、ただ山のように情報を積み上げる作業をしました。私が取り組んでいた原書の語彙と統語法についてたくさん学びましたが、それでいったい何をしようとしているのか自分にも分かりませんでした。

夏が来て、私はブリーフケースをノートで一杯にして、メイン州に向かいました。私はこれをすべて整理して、すべてがどう関連するか、はっきりさせなければなりませんでした。秋にハーバードに戻った時、私は罪の意識を感じながら、ブリーフケースの埃を払い、それを開け、メモのつまったフォールダーを一つ取り出しました。それを開けて最初のページを見ると、それがどこに位置づけられるか正確に分かったのです。二年目は実りの多い年となり、私は論文を明晰で論理的でよく論証されたものに仕上げることができました。

 最初の夏の出来事を非常に単純に言えば、表面的な混乱の背後に確かに秩序があることが、私の潜在意識には分かっていたということです。それは私が意識的につくり出す秩序よりもはるかに妥当性をもった秩序だったと思います。私の意識は、そこにある秩序を発見するより、自分の気に入った考えを押しつけがちであったと思います。ですから表面的な類似性によって惑わされ、一致しないものを一緒にし、それをもう一度切り離そうとはしなくなる危険性が本当にあったのです。

 再生の混乱期のさ中に秩序をつくり出そうとすると、必ず同じ危険が生じます。カオスが必要となる真の理由は、私たちが不適切な関連性にしがみつこうとするからです。もし私たちがある予定に従おうとするなら、もしより良い秩序があるはずだとすれば、自分が強く押しつけがちな秩序を廃棄することが何よりも必要です。私たちはそれよりも主の導きを信頼しなくてはなりません。私たちはそう感じることはできませんが、カオスには理由があることを信じなくてはなりません。

 これを前の話に関連させるなら、カオスの時は、私たちがある程度、自分の統制力を放棄すべき時なのです。もちろん私たちは生じてくる問題に積極的に取り組む必要があります。しかしまた、ある種の知的受動性が必要です。つまり、その過程から自然に秩序が生まれてくるようにすべきです。それは私たちが自分の知力で考え出しうる秩序というより、私たちが、もしできる限り誠実に状況に対処するなら気付くことができるような秩序です。そしてその時期は主が良しとされる時に来るのであって、必ずしも(あるいはおそらく)私たちの期待通りにはやって来ないのです。

 教会はそのような時に助けになるかもしれません。そしてもし私たちが自分で答を用意しなければならないと考える罠に落ちないなら、教会は助けになるでしょう。もし、私がその混乱に対して無理強いしようとするかもしれない秩序が適切なものでないなら、そして、もし真の秩序が私の心の深層でかすかに働いているなら、ただほとんど一瞥を与えただけで外部からその秩序を見出しうるような非凡な人物を必要とするでしょう。

 答そのものよりもっと必要なことは、答がそこにあるという確信です。そして、もし私たちが日々の暮らしで最善を尽くそうと努力し続けるなら、その答は主が良しとされる時に明らかになるでしょう。これは健全な過程である、あるいはそうなり得ると教えられるなら、また他の人たちも、その人たちなりに同じ経験をし、それによって進歩していったということを告げられるなら、それは助けになります。カオスを秩序づけようという無駄な努力から離れて、その混乱について私たちができることは何かに目を向けた方が有益なのです。

 もう少し具体的に述べた方が分かりやすいでしょう。私たちが青年期に達した時、まず最初に必要になる課題は、自己管理、自分自身の生活を監督することです。この過程から、私たちは原因と結果について多くのことを学びます。計画を実行するためには何が必要か、どのような態度や習慣が生産的か、どのような態度が問題を引き起こすかなどを学びます。その結果、私たちは未来を思いのままに操ることができる、自分の望むことを「生じさせ」望まないことを生じさせないことができるという幻想を抱くようになります。

 ところで、スウェーデンボルグ神学は、私たちは事が起きて後に、初めて主の摂理を知ることができると教えています。もし、それを前もって知ることができるなら、私たちはそれに介入しようとするでしょう。私たちは自分に最善のものを知っており、それをいつも実現しようと心がけていると考えています。もし私たちが本当に自分に正直だとしたら、私は自分に本当に必要なものを主が御存知である以上に良く知っていると認めることでしょう。実際、特別ちぐはぐな日に、うまく行かないことが続くとすれば、最後につい口をついて出てくるのは「私にはこれは必要ない」という言葉です。もしかすると、本当にもしかするとですが、主は私たちがそれを必要としていると教えておられるのかもしれません。

 私は、事が起こる前に、カオスや混乱が必要だと誰かが言うのを聞いたことがありません。「私はだんだん自分が正しい道を歩いていると思えるようになった。物事を自分でかなりよく管理できるようになったような気がする。もう自分の支えを取り払ってもらう時ではないかと思う」。事が起きた後で、人々がこのように言うことは聞いたことがあります。私たちは振り返って見るなら、自分の中に何があったか、自分の態度に何があったか、それがどのように危機を引き起こしたかを知ることができるのです。

 私たちはカオスがどのように作用しているか知ることはできないかもしれません。もしカオスの間ずっと日記を欠かさずつけて、それを後で振り返って分析するなら、その下に隠されている秩序の合理的で明確な図を描くことができるかもしれません。それは私には少し時間がかかりすぎる仕事のように思われます。しかし、ある人にとっては、それはやりがいのある仕事になるでしょうし、もし誰かがその仕事に取り組むなら、私はきっとその成果を読みたいと思うでしょう。

 さて、この話の残りの時間で、カオスの中にいる時、私たちは何をなし得るかについてもう少し詳しく話をしたいと思います。私が一番大切だと思うことは、日常生活の中に「とどまっておく」ことが絶対に必要だということです。自分の仕事を忠実に果たすという平素の動機は、とても弱くなりました。しかし、その仕事は果たされなくてはなりません。他者を思いやる平素の理由はほとんど無くなりました。しかし、たとえその理由が分からなくても、私たちはそうし続けなければならないのです。私たちの建設的な行動の多くは、ひとりでに動き出すように、習慣化されることが望ましいのです。例えば、私たちが実際の暴力あるいは言葉の暴力に訴えたいという衝動に一貫して抵抗してきたなら、たとえ世界が崩れ去るように感じられる時にも、そのような不慣れな手段に訴えようとはしなくなります。

 もし私たちが、責任ある外的行動を続けるように振る舞えるなら、その時、私たちは自分のより賢明な態度に気付くかもしれません。最初に繰り返したいのですが、それによって私たちは、これには本当に建設的な理由がある、トンネルの終わりには光があると思えるようになるのです。次に、私たちはたくさん疑問を持たなければなりません。そして疑問をさらに吟味しなければなりません。何が起きているのか。なぜか。このような報いを受けるどのようなことをしただろうか。これはなぜ今のような形で私に起きているのか。私が不安を感じているものはいったい何か。なぜ私はこれをすべて後ろに追いやって、昔通りの生活を始めることができないのだろうか。これらは非常に一般的な疑問ですが、それはそれぞれの個人の心の中では、もっと特殊な形をとって現れてくると思います。

 疑問をもつ意欲が与えられたなら、次に、私たちは答を待つ忍耐力が必要になります。先に述べたとおり、もっとも妥当な答は、自分で考え出すのではなく、与えられるものでしょう。つまり、最適な答は、私たちがスウェーデンボルグ神学を巧みに適用して考え出すようなものではないと思います。それは物事を見抜く力であり、私たちに訪れるものなのです。それはまさに真理であるという確信をもたらす洞察力なのです。

 しかし、その解答は、スウェーデンボルグ神学とはっきりした関連性をもつでしょう。確かに、私たちはその著作を調べて、その中に解答を見ようとしても見出すことはないでしょう。しかし、もし解答が与えられるなら、それらの著作が新しい意味をもつようになることが分かるでしょう。私たちは、例えば「あたかも自分から」悪に抵抗することがどういう意味か、その時、新たに分かり納得するのです。「善」や「真理」のような聞き慣れた言葉が、より具体的なものになります。異なるものがそのページから飛び出し、心を捉えるのです。

 最初、私たちはこれを時々経験します。そしてそれは閃光あるいは解答というより、微光あるいはヒントのようです。将来には絶望しかないという状況の中で、時々ほのかな希望の光が現れたことを私は思い出します。私たちは賢明にも、そのような瞬間に注意を払うものです。それをいつも感じていることはできないかもしれません。しかし、私たちは少なくともそれに気付いて記憶し、それを勇気の源とすることができるのです。

 結局、もし私たちがなすべきことをなすなら、主が物事をより良い秩序に配列して下さいます。それは以前の秩序より良く、私たちが考える秩序より良い秩序です。私たちはこれを主にしていただくことが絶対に必要です。ですから私は、答を見つけたり、秩序を押しつけたりすることは、私たちの仕事ではないと言いたいのです。カオスの状態にいるとき、私たちは塗炭の苦しみを味わいます。しかし、そこから抜け出す一番の近道は、私たちが自分のなすべきことを、ただそれだけをすることです。そうすれば、主は主にのみ可能なことをして下さいます。