神について正しい考えをもつことの重要性

 神の観念は、教会、宗教、礼拝のあらゆる事柄に入り込む。人間の心において、神学的主題は他の何よりも上位にあり、中でも神の観念こそが最高のものとして存在している。したがって、もしこれが誤りであれば、この最初の誤りから出てくるものは、すべて誤りであるか、誤りになる。なぜなら、最高のもの、また最内奥のものが、そこから派生するものの本質を形づくるからである。そしてその本質が、ちょうど霊魂のように、それ自身のイメージにしたがって身体を形成するのである。(誤りの)神の観念が下降する際に、真理に遭遇すると、その欠陥と誤謬によって真理は汚染されるのである。(『新教会教義概説』40)

 天界全体、地上の教会全体、そして一般に宗教全体が、神の正しい観念の上に構築されている。というのは、これによって連結があり、連結によって光、英知、そして永遠の幸福があるからである。(『啓示による黙示録解説』序文)

神は一者である

 あらゆるものの根源となる一人の人間のような神が存在する。人間理性を総動員して言えることは、全世界の創造者である一人の神が存在するという事実である。したがって、理性的精神をもつ人であれば、だれでも、共通の知性によって、それ以外は考えないし、考えられない。もし健全な理性の持ち主に、宇宙の創造者が二人いると言ったら、それだけで、その言葉を耳にしただけで、あなたへの反感をもつであろう。このことから、人間理性を統合すると、一者の神が存在することが明らかである。これには二つの理由がある。第一に、理性的思考そのものが人間の働きではなく、われわれの中におられる神の働きであるということである。人間理性の働きは、この事実にもとづいている。そしてこの一般的働きによって、人間理性は、神が一者であることを自然に理解するのである。第二の理由は、この働きによって、人は天界の光の中にいるからである。あるいはそこから思考の一般原理を引き出すからである。そして天界の光の普遍的原理によると、神は一者だからである。もしわれわれが、この能力を使って低次の知性を歪めるならば、事情は変わってくる。たしかに人間にはそのような能力があるが、低次の能力を歪めると、それは正しい方向からはずれ、人間理性は不健全なものとなる。(『神の愛と知恵』23)

神は人間である

 神は究極の人間である。天界全体をとおして、人間以外の神の観念はない。その理由は、全体的にも部分的にも、天界は形において人間だからである。また、天使にある神的性質が、天界を構成するからである。さらに、思考は天界の形にしたがって生まれてくるからである。したがって、天使が神について、これと異なる考えをもつことはありえない。同じ理由で、この世で天界と連結している人々は、内面的、霊的に考える時、神について同様に考えるのである。まさに神は人間であるからこそ、すべての天使、すべての霊は、完全な形の人間なのである。天界の形がこれをもたらすのであり、それは最大においても最小においても同一である。(『神の愛と知恵』11)

神は空間に存在しない

 神、造物主は、空間には存在しない。しかし、神は至るところに存在している。この世のあらゆる人間に、天界のあらゆる天使に、天界の下にいるあらゆる霊に存在している。神が空間に存在しないことは、単なる自然的観念では理解できないが、霊的観念なら理解できる。自然的観念が不適当であるのは、それが空間を含むからである。自然的観念は、この世に存在するものを基礎にしており、目で見るものすべてに空間がある。そこにおけるあらゆる大きさは、大小に関わらず空間的なものである。あらゆる尺度は、長さ、幅、高さなど、空間的なものである。要するに、あらゆる量、姿、形に空間がある。したがって、神は至るところに存在すると言うとき、神は空間に存在しないのであるが、自然的観念はそれを理解できないのである。

 しかしながら、もしわれわれが少し霊的光を導入すれば、自然的思考でも、このことを理解することはできる。したがって、われわれはまず、霊的観念とその帰結としての霊的思考について述べなければならない。霊的観念は、空間とは何の関係もない。それは状態とだけ関係がある。状態は、愛、生命、英知、情愛、そしてこれらがもたらす喜びの特性であり、一般的にいえば善と真理の特性である。これらの真に霊的な観念には、空間と共通のものは何もない。それは高次の観念であり、天が地を見下ろすように、空間的観念を下に見ている。しかしながら、天使や霊は、地上の人間と同じように自分の目で見るし、物は空間にあるように見えるので、天使や霊がいる世界には、この世と同じように空間の隔たりがあるように見える。しかし、それは空間の隔たりではなく、その外観なのである。それは地上におけるように固定的で不変のものではない。それは長くなったり、短くなったり、変化する。そしてそれは尺度では測れないので、地上の観念では捉えられない。ただ霊的観念でのみ捉えることができる。空間的隔たりは、善の隔たりであり、真理の隔たりである。そしてその一致や類似の度合いは、人々の状態に応じて変化する。(『神の愛と知恵』7)

 以上から明らかになるのは、単なる自然的観念では、神は遍在するが空間には存在しないことを理解できないということである。また、天使や霊はそれをはっきり理解するということ、したがって、もし霊的光を多少とも思考の中に導入すれば、われわれもそれを理解できるということである。われわれがこれを理解できるわけは、考えるのは身体ではなく、霊魂である、物質的要素ではなく、霊的要素であるという事実である。(『神の愛と知恵』8)

神の本質は愛と知恵である

 神の中に、愛と知恵がひとつになって、その本質として存在することを誰も否定できない。神は、ご自身の愛から、われわれすべてを愛される。またご自身の知恵から、われわれすべてを導かれる。また、創造された全世界は、その秩序を見ると、愛からの知恵で満たされているので、全世界を構成する一つひとつが知恵そのものであるといえよう。全世界は、数えきれないほど多くのものが、連続的、同時的にそのような秩序のもとに、一つの全体をつくっているからである。これらの諸要素が集まり恒常的に保持されるのは、以上の理由によるのであり、それ以外のいかなる理由でもない。(『神の愛と知恵』29)

 人間に二つの能力があるのは、まさに神の本質が愛と知恵であるところから来るのである。一方からは知性が、他方からは意志が出てくる。知性はすべて、神の知恵の流入によって生まれる。意志はすべて、神の愛の流入によって生まれる。われわれが必ずしも賢明ではなく、愛情のある人間ではないとしても、これらの能力が奪われているわけではなく、ただ閉じられているにすぎない。(『神の愛と知恵』30)

神の愛と神の知恵は実質(substantia)であり形式(forma)である

 誰もが、愛と知恵は、とらえがたい空気やエーテルの中に漂っているようなもの、また、そのようなものから流れ出てくるものと思っている。ほとんど誰もが、愛と知恵が、実際に、実質であり形式であるとは思っていない。愛と知恵は実質であり形式であると見なしている人々でさえ、それらは自分の主体の外にあるもの、主体から流れ出すものと感じている。そして彼らは、主体の外にあり、主体から流れ出るものが、雲をつかむように感じられるにもかかわらず、それらは実質であり形式であると言う。彼らは、愛と知恵が、現実に存在する実質であることを認識していない。そして、主体から流れ出て漂うようなものは、主体の本来の状態の外観にすぎないことを認識していない。(『神の愛と知恵』40)

 以上から、神の愛と神の知恵は、それ自体、実質であり形式であることがわかる。それらは、存在(esse)そのもの、現存(existere)そのものである。もし、それらが実質であり形式であるように、存在であり現存であるということがなければ、それらは単なる想像の産物であり、無にほかならない。(『神の愛と知恵』43)

神は愛そのもの、いのちそのものである

 いのちはそれ自体神である、あるいは神はいのちそのものであると考えながら、いのちとは何かについての考えがなければ、神について、それ以上何もわからない。神の愛(それは神の知恵においては、いのちそのものであり、神である)を、その本質において考えることはできない。というのは、それは無限なるものであり、人間の理解を超越しているからである。しかしながら、神をその外観から考えることはできるであろう。主は、天使の前に太陽として出現される。その太陽から熱と光が出てくる。太陽は神の愛である。熱は流れ出る神の愛である。それは神の善と呼ばれる。光は流れ出る神の知恵である。それは神の真理と呼ばれる。しかしその時、愛と知恵の観念がなければ、つまり、神の愛は火のようであり、神の知恵は光のようであり、神の愛と神の知恵がひとつになって陽の光になるという観念がなければ、われわれは、火や熱や光のようないのち、すなわち神を考えることができない。なぜなら、神は完全な人間だからである。顔は人のようであり、身体も人のようである。形には違いがない。しかし本質は異なる。神の本質は、愛そのもの知恵そのもの、したがって、いのちそのものである。(『黙示録講解』1124)

 神はいのちであるから、創造された方ではないということになる。なぜなら、いのちは創造することはできるが、創造されることはできないからである。創造されるとは他者から存在することである。もしいのちが他者から存在するのであれば、もう一つの存在、別のいのちが必要になるであろうし、そのいのちが、いのちそのものということになるであろう。(『黙示録講解』1126)

 ある別の存在や動因がなければ、なにものも、存在し、存続し、影響され、ひとりでに動くことはない。したがって、すべては最初の存在によって、存在し、存続し、影響され、動かされるということになる。その最初の存在は、他者に由来するのではなく、それ自身が生きる力であり、いのちである。(『黙示録講解』1146)

神の愛の本質

 神の本質をなすものが二つある。愛と知恵である。また神の愛の本質をなすものが三つある。ご自身以外の他者を愛すること、彼らとひとつになりたいと願うこと、ご自身から彼らを幸せにすることである。これら三つは神の知恵の本質でもある。神にあっては、愛と知恵はひとつだからである。愛はこれら三つを望み、知恵はそれを実現する。

 第一の本質的要素、ご自身以外の他者を愛することは、人類全体に対する神の愛から理解できる。そして目的を愛する人は、その手段も愛するように、神は創造したものすべてを愛する。なぜなら、それらは手段だからである。宇宙のすべての人々、すべてのものは、神の外にある。それらは有限であり、神は無限だからである。しかし、神の愛は、善人や善いものだけでなく、悪人や悪いものにも、したがって、天界の人やものだけでなく、地獄の人やものにも及んでいる。このように、ミカエルやガブリエルだけでなく、悪魔やサタンにも及んでいる。なぜなら、神はどこにおいても、永遠から永遠にいたるまで同一だからである。主が言われるように、「天の父は、悪人にも善人にもご自身の太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」(マタイ、5:45)。それにもかかわらず、悪人や悪いものは、悪いままであるが、それは人間やもの自身の結果である。なぜなら、彼らは神の愛をあるがままに、その深い本質において受け入れないからである。ちょうどイバラやイラクサが陽光や雨を受けるように、彼らは自分の本質に応じて神の愛を受け入れる。

 第二の本質的要素、他者とひとつになりたいと願うことは、神が天使的天界と結ばれ、地上の教会及び教会の諸個人と結ばれ、そして教会に属する人のあらゆる善と真理と結ばれるところから理解される。実際、愛とはそれ自体、結合への努力に他ならない。それゆえ、この愛の本質的要素を実現するために、神は結ばれうるように、人をご自身の像と似姿に創造された。神の愛が、常にこの結合を目ざしていることは、神の願いを述べた主の次のことばからも明らかである。「彼らがひとつになるように、神は彼らのうちに、彼らは神のうちにいる、そして神の愛が彼らのうちにある」(ヨハネ福音書、17.21-23,26)。

 神の愛の第三の本質的要素、ご自身から彼らを幸せにすることは、永遠のいのちという贈り物から理解できる。それは終わりのない歓喜であり、幸福であり、喜びである。神は、これを神の愛を受け入れる人々に与えられる。神は愛そのものであるように、また歓喜そのものである。そしてあらゆる愛から喜びがにじみ出るように、神の愛から、歓喜そのもの、幸福そのもの、喜びそのものが出てくるのである。(『真のキリスト教』43)

神の無限と永遠

 自然世界の二つの特性が、世界内のあらゆるものを限定する。ひとつは空間であり、もうひとつは時間である。神はこの世界を創造され、同時に、それを限定するものとして空間と時間を創造された。したがって、私は空間と時間の起源について論じなくてはならない。神が広大であることは空間に関わり、神が永遠であることは時間に関わる。無限は、広大と永遠をともに含んでいる。無限は有限を超越するので、無限の理解は、有限な心を超えるのであるが、少なくとも無限についてのある観念を得るために、以下の順序で論じることにする。

1.神は無限である。なぜなら、神は存在そのもの、実在そのものであり、宇宙にあるすべては、神から存在し実在するからである。

2.神は無限である。なぜなら、神は世界がある前から、すなわち空間と時間がある前からおられたからである。

3.世界が創造されて以来、神は空間なき空間の中に、時間なき時間の中におられる。

4.空間に関する無限は、広大と呼ばれ、時間に関する無限は、永遠と呼ばれる。しかし、これらの関係にもかかわらず、神の広大に空間はなく、神の永遠に時間はない。

5.神の無限は、照らされた理性によって、世界の多くのものごとの中に見いだされる。

6.すべて創造されたものは有限である。無限は、何かが容器の中にあるように、有限なものの中にある。無限は、何かが映像の中にあるように、人間の中にある。(『真のキリスト教』27)

神の全能

 神の全能についていえば、その中には秩序に反して行う力は一切ない。反対に、その中には秩序にしたがって行うあらゆる力がある。なぜなら、すべての秩序は主から来るからである。(『黙示録講解』689)

 神は全能である。なぜなら神はご自身であらゆることをなしうるからである。神以外のすべてのものは、自らの力を神から得ている。神の力と意志はひとつである。神は善以外に何も望まないので、善以外に何もなしえない。霊界においては、誰も自分の意志に反して行為することができないが、この制約は神に由来する。なぜなら、神の力と神の意志はひとつだからである。さらに、神は善そのものである。したがって、神が善をなすとき、神は自らの中におられる。神が自らの外に踏み外されることはない。ここから、神は善の広がりの領域を占め、その中で働かれることが明らかである。しかしその領域には限りがない。深いレベルで、この領域は宇宙と宇宙のすべてのものに広がっている。また、深いレベルで、この領域は、それ自身の外にあるものもすべて治めている。それらが、固有の秩序によってその領域の一部となっているかぎり、それらは治められている。しかし、たとえその領域の一部となっていない場合であっても、それらは支えられ、あらゆる方法で、宇宙の秩序と調和する状態に引き戻されている。そして、神はその宇宙の秩序の中に、無限の力をもって住まわれ、その秩序にしたがって行動される。もしその秩序に反するものが、秩序に戻らないことがあれば、彼らは神の外に放逐されるが、にもかかわらず、神は彼らを深いところで支えられる。(『真のキリスト教』56)

神の全知

 神はすべてを感知し、見て、知っておられる。神の秩序にしたがって起きるどんな小さなできごともご存知である。なぜなら、宇宙の秩序は最小の細部から成り立っているからである。ちょうど個別の事例が集まって、一般と呼ばれるように、個別のものが集まって普遍(Universalis)と呼ばれる。個々のものから成る普遍的秩序は、まとまった単一体であるから、その一部が触れられ作用を受けると、その感覚は必ず全体に伝わる。普遍的秩序のこの特徴は、この世の創造されたものすべてについて言えるが、これは観察可能な現象になぞらえて説明することができよう。人間の体には、一般的器官と、特殊的器官とがある。一般的器官は特殊的器官を包みこむように働いて、各器官と器官がなじむようにきちんと適合させている。この働きは、ひとつの被膜をもつ身体のそれぞれの器官の成果である。そして、その被膜は、各器官と密接につながっているので、どんな機能や役立ちのためであれ、それらは一体となって動くのである。

 たとえば、どんな筋肉の薄膜も、運動繊維のすべてとつながり、それらの繊維の外衣を形づくっている。同様に、肝臓、膵臓、脾臓の薄膜は、それらの内部にある器官とつながっている。また、肋膜と呼ばれる肺の薄膜は、その内部の器官とつながっている。心膜も同様に、心臓の各部とつながっている。また一般的レベルで、腹膜は間膜によって腹部の内蔵すべての薄膜とつながっている。同様に、脳の薄膜は、それ自身から出ている突起によって、その下にあるすべての結節とつながり、それによってすべての繊維とつながり、そしてそれによって身体各部とつながっている。これが、頭が脳の二つの部分の活動によって、その下位器官のすべてを制御する仕組みである。これらの事実を取り上げたのは、神が秩序にしたがって起きるどんな些細なことも、感じ、見て、知っておられることを、観察可能な現象から多少とも理解してもらいたいと思ったからである。(『真のキリスト教』60)

神の遍在

 神の遍在は、霊界において、天使や霊が驚くべき方法で出現するところに示されている。その世界には、空間はなく、空間の外観があるだけなので、天使や霊は、愛の情愛や思考が同じになるだけで、互いの前に直ちに現れることができる。なぜなら、愛と思考が空間の外観をつくるからである。霊界での出現にこのような性格があることは、次のような事実で私には明白だった。地上では何千マイルも離れているにもかかわらず、私は、そこではアフリカ人やインド人とすぐ近くで会うことができたのである。実際、私は太陽系の惑星の住人と交流することができたし、太陽系の外の星の住人とも交流することができた。場所ではなく、場所の外観の中に現れるというこのやり方で、私は、使徒、亡くなった法王、皇帝、国王、ルター、カルヴァン、メランヒトンなど現代の教会の創設者たち、その他の遠くの地域の人たちと語り合ったのである。もし天使や霊たちが、そのような方法で現れることができるのであれば、無限の神が宇宙全体に存在できないということがあるだろうか。(『真のキリスト教』64)

啓示によって神を知る

 いろいろな理由から、「一者の神」の本質について、多くの国々、人々の間で、これまでさまざまな意見が出されてきたし、現在も出されている。その第一の理由は、啓示がなければ、神について知り、神を承認することができないからである。また、聖言がなければ、すべての完全な神性が肉体の形をとって主に宿っているという啓示の花冠を知り、主を承認することができないからである。それは啓示によって与えられ、人々は神に会い、流入を受け、世俗的存在から霊的存在になることができる。初期の啓示は世界中に広がったが、この世的人間によって、さまざまに歪められ、宗教の間に逸脱、不一致、異端、分派が出てきたのである。

 第二の理由は、この世的人間は神について知ることがなく、現世のみを理解し、それを自らに適用するからである。このため、この世的人間は霊的人間と対立し、両者は互いに戦うということが、キリスト教会の公理となっている。また同様に、聖言あるいは別の啓示から一者の神の存在を学んだ人々は、神の本質と神の単一性について異なる意見をもってきたし、現在ももっているのである。(『真のキリスト教』11)

➡創造