聖書のシンボル 新約編

ペテロ(Peter)
十ニ弟子のうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネはそれぞれ、信仰、仁慈、そして仁慈の善(言い換えると、理解における真理、意志の中の真理、そして行動の中の真理)を表象している。(ルベン、シメオン、レビも同様)この3人はそれらを表象するために、主が変貌された山に3人を連れていかれ、またゲッセマネの園にも3人を連れていかれた。ペテロとヤコブとヨハネだけが山に連れていかれた理由は、天的な善からくる真理のうちにいる者でなければ栄光の主を拝することができないからである。ペテロは信仰を表すが、シモンはヘブル語で「聞くこと、従順」を意味することから、従順の信仰が意味されるときは「シモン」と呼ばれ、真理の情愛である信仰が意味されるときは「ヨナの子シモン」と呼ばれている。ヨハネが最初に弟子となったにも拘わらず、ペテロが第一の弟子と呼ばれるのは、教会においては信仰(善からくる信仰)がはじめのものだからである。ペテロを指して「この岩の上に教会を建てる」と言われたのは、ペテロは信仰を表象しているため、「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と告白したその(仁慈からくる)信仰(この天的な真理が岩と呼ばれる)の上にこそ教会が成り立つのであり、またこの信仰にこそ、天の鍵が授けられるからである。ペテロ自身に実際にその力が授けられたわけではなく、ペテロは信仰を表象しているために、ペテロを通してその信仰に天の鍵があることを語られたのである。ペテロが海の上を歩いて主に向うことにより、人生が表されている。主への信仰があいまいで、揺らぐと、沈みはじめるが、主にひきあげられる(救われる)。マタイ16-23でペテロが「下がれサタン」と言われたのは、ペテロは二種類の信仰を表象しているからである。すなわち仁慈から来る信仰(真理に基づく信仰)と仁慈のない信仰(虚偽に基づく信仰)である。虚偽に基づく信仰に対し、言われた言葉である。ペテロが3回主を否んだことにより、教会の最後の状態が意味されている。信仰の真理が教えはされているが、信じられていない状態である。信仰は仁慈の心から起こるものでなければ真の信仰ではないため、すなわち、主への愛からでなければ真の信仰ではないために、復活後の主はペテロに「私を愛するか」と三度尋ねられた。この場面では、「信仰に愛があるか」ということが問われている。また「私を愛するか」と尋ねられた主に対し、ペテロが「愛します」と答えたのち、「私の羊を飼いなさい」と言われたのは、愛から来る信仰のうちにいる者が、主への愛、あるいは隣人への愛の善のうちにいる者たちを導くべきであることが意味されている。ペテロが「若い頃は自分で帯をしめて自分の歩きたいところを歩いていた」、というのは、教会の初期(の構成員たち)は仁慈の善から来る真理を吸収し、そして自由から行動していることを意味し、「年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくないところに連れて行く」は、教会の最後の状態には、人々はもはや他人が述べたことからしか真理がわからなくなり、盲目的な状態にあることが意味されている。また、復活後の主に「私に従いなさい」と言われ、ペテロが振り向いてイエスが愛された弟子に向いて「主よ、この人はどうですか。」と尋ねたことは、教会の最後の状態に、信仰は主から顔を背けることが表されている。

アンデレ(Andrew)
アンデレは、信仰の従順を表象している。

ヤコブ(James)
ヤコブは、(教会の)仁慈を表象している。(→ペテロ参照)

ヨハネ(John)
ヨハネは、仁慈の役立ち、あるいは仁慈による善い行い(すなわち、善を欲するがゆえによい行いをすること)を表している。(→「ペテロ」参照)主がヨハネを他のどの弟子よりも愛されたと聖書にあるが、これは主がヨハネ個人を特別に愛されたということではなく、ヨハネが仁慈の実行、すなわち役立ちを表象しているため、主がこれらのものを愛されることを表しているのである。ヨハネが主の胸にもたれていたことにより、主に愛されたことが示されている。ヨハネとヤコブは共に「雷の子」と呼ばれたが、雷の子とは、天的な善を表象するため、ふたりの表象する性質から、そう呼ばれたのである。主がヨハネに向って、マリアを「そこに、あなたの母がいます」と言われたのは、「母マリア」は教会を表象し、ヨハネの表象する仁慈の善行は実質的に教会そのものであるため、ヨハネは母マリアを自分のものとして引き取り、共にとどまったのである。このことにより、善い行いのあるところにこそ、教会があることが意味されている。
復活後の主がヨハネのことを「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても」と言われたのは、主の再臨のときまで、生活の善が人々の間に残っていることを指す。そして新しい教会では、生活の善が説かれる。一方この場面でのペテロは仁慈から切り離された信仰が意味されているため、ペテロは主に「それがあなたと何の関係がありますか?」と言われたのである。ヨハネの黙示録1-1に、「キリストは御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった」とあるが、ここで言うヨハネとは「仁慈からくる生活の善とその信仰にいる者たち」すべてを指している。これらの人々に対し天を通して主により啓示された事柄である。

ピリポ(Philip)
以下の弟子は記述なし。しかしピリポは主に向って「父を見せてください。」と言ったことから、天の父と主イエスを切り離して考える人たちは、「ピリポ」と呼ばれていると書かれている。

イスカリオテのユダ(Judas Iscariot)
当時のユダヤ教会を表象している。ユダが主を売ったことにより、「ヨセフを売ろう」と言ったユダ(Judah)と同じことが表象されている。ユダが主を裏切ったことは、主が当時聖書の言葉が与えられていたユダヤ国家から裏切られたことが表象されている。主がユダを「悪魔」と呼ばれたのは、ユダが当時のユダヤ人を表象しており、当時のユダヤ人が悪からくる虚偽の中にいたからである。悪の面から「悪魔」と呼ばれ、虚偽の面から「サタン」と呼ばれた。

バプテスマのヨハネ(John the Baptist)
バプテスマのヨハネはエリアと同じく、聖言、すなわち、聖言の面から見た主を表象している。バプテスマのヨハネが「私は水で洗礼を授けるが、私のあとから来られる方は、聖霊と火とのバプテスマを授けます」と言ったことは、バプテスマのヨハネは主に関する聖言によって人々を知識の中に入れるだけであって、こうして主を受け入れる準備をさせるだけであることを意味する。一方主は、主ご自身から発出する天的な真理と天的な善によって人々を再生させる。ヨハネが荒野にいたのは、当時のユダヤ国家において聖言のあらゆるものが不純にされていたことによる、当時の教会の状態が表象されていたためある。ヨハネの着物のらくだの毛皮は真理に関する聖言の外的な意味(文字通りの意味)を指し、食料としていたいなごと野蜜は善に関する聖言の外的な意味(文字通りの意味)を指している。聖言がこの世のどんな教義、どんな真理よりも優れていることは、主の言われた「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」という言葉により意味されている。また次の「天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です(マタイ11-9、11)」は、ヨハネは聖言の外的な意味を表していたために、聖言の内的な意味は、外的な意味よりも優れていることを指している。バプテスマのヨハネは人間に、主がやがてうち建てる教会の備えをする前に遣わされたが、バプテスマを授けると同時に悔い改めを説いた。これにより、悔い改めは教会の始まりであることが表されている。この備えがなければ主が来られてもすべてを汚してしまうのである。

マリア(Mary)
イエスの母マリアは、終わりの方で教会を表象している。(→ヨハネ参照)主は神の子、人の子、マリアの子と呼ばれたが、マリアの子と呼ばれるときは、主のとられた人間性のことが意味されている。バプテスマのヨハネがマリアの挨拶を聞いて胎内で喜び踊った場面は、善と真理の結合(結婚)による喜びが表現されている。

パリサイ人(Pharisees)
あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、決して神の国にはいれません」(マタイ5-20)その義には内的な命がなければならないことを意味している。

*スウェーデンボルグはヨハネ黙示録を除く新約聖書の解説は書いていません。ここに紹介したのはほとんどが『黙示録解説』に出てきた解説です。