人間

人間

人間とは何か

 正しく考える人はだれでも、考えるのは身体ではないとわかる。なぜなら身体は物質だからである。そうではなく、考えるのは魂である。なぜなら魂は霊的であるから。多くの人が不滅としてきた人間の魂(soul, anima)は、霊(spirit, spiritus)である。実際、それはあらゆる点で不滅である。そして、身体の中で考えるものである。なぜなら、それは霊的だからである。霊的なものが霊的なものを受け止め、霊的に生きる。すなわち考え、意志をもつ。したがって、身体に現れるすべての合理的生活は、魂に属するのであって、決して身体に属するのではない。(『天界と地獄』432)

 身体の中で生きているもの、いのちゆえに行為し、感じるすべてのものは、霊にのみ属するものであって、決して身体に属するものではない。したがって、霊がその人自身であるということになる。あるいは同じことだが、われわれは本質において霊であり、同じような形をもっている。(『天界と地獄』433)

 人間は、霊界と自然界に同時に存在するように創造されている。霊界は天使の、自然界は人間の住まいである。人間はそのように創造されているので、内部と外部を与えられている。内部では霊界にいることができ、外部では自然界にいることができる。人の内部は内部人間と呼ばれ、外部は外部人間と呼ばれる。(『真のキリスト教』401)

 人間はいのちではなく、神からのいのちの受け皿である。自分の中にいのちがある、それは自分自身のものである、だから人間は単なるいのちの受け皿ではなく、いのちだと一般に信じられている。そのように信じられている理由は、人間は生きているように思えるから、つまり自分から感じ、考え、語り、行為するように思えるからである。・・・このような見せかけにもとづく誤りがある理由は、現在ではほとんどの人が自然的であり、霊的な人は、ほんの少ししかいないからである。(『真のキリスト教』470)

 人間はいのちを受ける器官である。神だけがいのちそのものである。神はこの器官のすみずみにいのちを注がれる。ちょうど太陽が木々のあらゆる部分に熱を注ぐように。神は、人間が自分の中にあるいのちは自分のものだと感じることを許される。神は、人間がそのように感じることを望まれるが、その理由は、人間が神の秩序の法則(聖書の戒律)にしたがって生きるように、そしてあたかも自分自身の意志によってそうするように、さらに神の愛を受けるように心を整えるためである。それでも、神はご自身の指を常にはかりの針に置いて制御されている。ただし強制力によって人間の自由を損なわれることはない。(『真のキリスト教』504)

 

内部人間と外部人間(Internal and External Man)

 今日では、内部人間と外部人間の違いを知るものはほとんどいない。両者は一般に同じものだと考えられている。その理由は、ほとんどの人が自分の力で(プロプリウムから)善を行い、真理について考えていると信じているからである。そう信じるのがプロプリウムの本質である。しかし、内部人間と外部人間は、天と地ほどの違いがある。学問のある人もない人も、この問題では次のように考える。内部人間とは、内部にあるので思考である。外部人間とは、外部にあるので、感覚的・官能的特性をもった身体であると。しかし、彼らが内部人間にあると思っている思考は、実は内部人間にあるのではない。なぜなら、内部人間には、主の善と主の真理だけがあるからである。そして内的人間(interior man)には、主が良心を植えつけられている。悪人、極悪人にも思考はある。良心のない人間にも思考はある。このことから、人間の思考は、内部人間ではなく外部人間にあることが明らかである。感覚的・官能的特性をもった身体が外部人間でないことは、物質的身体をもたない霊にも、地上の人間と同様に外部人間があるところから明らかである。(『天界の秘義』978)

人間の最内奥

 すべての天使の内部に、またすべての人の内部に、最も深いレベル、もしくは最も高いレベルがある。あるいは最も深い何か、最も高い何かがある。主の神聖ないのちは、最初に、直接にそこに流入する。主は、その最内奥から、天使や人間の他の内的なことがらを整えられる。そしてそれらは、その秩序の段階にしたがって流れていく。この最深のあるいは最高のレベルが、主が天使や人間に入ってこられる玄関であり、主の住まいであるといえよう。この最内奥、最高部こそ、人を人にするものであり、動物と区別するものである。なぜなら、それは動物にはないからである。(『天界と地獄』39)

人間のいのち

 人間の真のいのちは、彼の愛である。愛があるように、いのちがあり、人間全体がある。しかし人間をつくるのは、支配的愛、優越的愛(dominant or ruling love, amor dominans seu regnans) である。その愛は、派生物として諸々の愛を下にもっている。これら諸々の愛は、たとえ異なるように見えても、支配的愛の中にあり、それとともにひとつの王国をつくっている。・・・支配的愛に属するものが、何ものにもまさって愛される。(『新エルサレムと天界の教義』54)

 人は、愛があることを知っているが、その本質が何かを知らない。日常会話から、人は愛が存在することを知っている。たとえば、彼が私を愛する、国王が家臣を愛する、家臣が国王を愛すると言ったり、夫は妻を愛し、母は子を愛する(あるいはその逆)と言ったり、さらには、国を愛し、仲間の市民を愛し、隣人を愛すると言ったりする。非人格的なことがらについても、人はあれを愛する、これを愛すると言う。

 愛はこのように頻繁に使われているが、愛とは何か誰も知らない。立ち止まって、愛について考えてみても、頭の中に何のイメージも湧いてこない。それで人は、それは存在するものではないと言ったり、それは視角、聴覚、触覚、社会的交流をとおして流れてくる刺激で、人に影響を与えるものだと言ったりする。人は、それが人間のいのちそのものであることにまったく気づいていないのである。それは身体全体にある全般的いのち、思考全体にある全般的いのちであるばかりか、心身の個々のものすべてにあるいのちでもある。賢い人なら、次のように言われたらこのことに気づくかもしれない。「もし愛に関わる情愛が取り除かれたら、何か考えたり、行動したりできますか。もし愛に関わる情愛が冷えたら、思考会話や行為も冷えませんか。もしそのような情愛が熱くなれば、それらも熱くなりませんか」。しかし、賢い人は、このようなことを、愛は人のいのちであるという知識から知るのではなく、経験上の観察をとおして知るのである。(『神の愛と知恵』1)

いのちの熱の根源

 人間にも、あらゆる動物にも、いのちの熱があることがよく知られている。しかし、その根源は知られていない。誰もが推測でそれについて語っている。自然的なものと霊的なものとの照応を知らない人々は、いのちの根源を太陽の熱か、あるいは粒子の働きに求める。あるいはいのちそのものに求める。しかし彼らはいのちが何かを知らないので、あることばを別のことばに置き換えているにすぎない。しかしながら、一方における愛とその感情と、他方における心臓とそこから出てくる血管とに照応があることがわかれば、愛がいのちの熱であることがわかる。愛は、主がおられる霊界の太陽から熱として放射状に広がる。そしてそれは、天使には熱として感じられる。この本質的には愛である霊的熱が、照応によって、心臓と血液に流入し、その熱と愛を注ぎ込むのである。われわれは自らの愛によって、そしてそれが強ければ強いほど、熱せられ、火をつけられ、また、それが弱くなれば弱くなるほど、活力を失い冷たくなるということを知っている。なぜなら、それは感じられるし、見られるからである。つまり、それは体全体の熱から感じられるし、顔の赤みによって見られる。また、それが失われることは、体の冷たさから感じられるし、血の気のない顔によって見られるからである。(『神の愛と知恵』379)

人間の原初の状態

 人間は神の秩序の形に創造されている。なぜなら、人間は神の像と神の似姿に創造されたからである。神は秩序そのものであるから、人間は秩序という像と似姿に創造されている。そして秩序が存在し、存続する二つの根源がある。神の愛と神の知恵である。人間はこれら二つを入れる容器として創造された。したがって、人間は神の愛と知恵がこの世界で働く秩序に創造されている。とりわけ天使の天界において、それらが働く秩序に創造されている。そのような働きによって、天界は最大の規模において神の秩序の形であり、また神の目には、それは一人の人間に見える。また、天界と人間の間には完全な照応がある。というのは、天界には人間の体の諸器官に照応しないような天使の社会はないからである。(『真のキリスト教』65)

 世界の原初の時代には、人間は、すべての愛の善とすべての知恵の真理は神からくると心底から認めていた。したがって、人間は神の像であり、神の子であり、神から生まれたと呼ばれていた。(『真のキリスト教』692)

人間の堕落