人間の堕落

堕落の本質

 「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。この文の意味は、何が真理であり何が善であるかを主に由来する知覚から知ることは許されるが、自己とこの世から知ることは許されない、つまり感覚的証拠と事実に関する知識によって信仰の神秘を探究してはならないない、もしそうするなら人の天的性質は破壊されてしまうということである。(『天界の秘義』126)

 感覚的証拠と事実に関する知識によって信仰の神秘を探究したいという欲求は、最古代教会とその子孫の没落の原因となったばかりか、あらゆる教会の没落の原因となった。というのは、ここから間違った見解だけでなく、生活における悪も生じたからである。(『天界の秘義』127)

 この世の、あるいは身体の影響下にあるとき、われわれは心のなかでこうつぶやく。「信仰や信仰に関連したことは、もし感覚によって知ることができないなら、もし事実によって理解できないなら、私は信じない」。そして、この世の真理が、霊界の現実と矛盾することはありえないと考えて、このような態度に固執する。結局、われわれは感覚的根拠によって天界の神聖なことがらについて学ぼうとする。しかし、これはらくだが針のあなを通るのと同じように不可能なことである。このような方法で賢くなろうとすればするほど、われわれは盲目になり、ついには何かを信じることをやめてしまう。霊的なことも永遠のいのちも信じなくなる。このようなことは、われわれが考えている基本的仮説から生じるのである。善悪を知る木から食べるとはそういうことである。そしてその木から取って食べれば食べるほど、われわれはますます死んだ状態になる。しかし、この世からではなく、主から賢くなりたいと願う人は、心のなかでこうつぶやく。「われわれは、主を、そして主がみことばのなかで語られていることを信じなくてはならない、それは確かな真理なのだから」。これが、そのような人たちの思考の大前提である。彼らは、信仰を承認する際に、合理性、事実にもとづく知識、感覚的証拠、物理現象も用いるが、みことばの裏づけのないものは拒絶する。(『天界の秘義』128)

堕落による内的知覚の喪失

 最古代教会は、何が善であり何が真理であるかについての知覚をもっていた。古代教会には知覚はなかったが、そのかわりに異なる内的教えがあった。それは良心である。

 これまで世界に知られていないが、また信じがたいかもしれないが、最古代教会の人々は内的呼吸をしていた。無音の外的呼吸はあったが、それ以外の外的呼吸はなかった。したがって彼らは、後世の人間や現在の人間とはちがって、ことばによる会話をしなかった。むしろ天使のように、外観や表情、とりわけ唇のさまざまな変化によって表現できる観念によって会話をした。唇にはたくさんの筋肉繊維があり、それらは今日では結ばれて固まってしまっているが、当時は、自由に動かすことができたのである。このようにして、彼らは、今日では音声のことばを使って1時間かかるようなことを1分間で表現することができたのである。そして彼らは、ことばや文章で表現するよりもっと完全にもっと明瞭に、それを理解させることができたのである。これは信じがたいことかもしれないが、事実である。・・・わたしは、この内的呼吸の本質について、また、それが時の流れのなかでいかに変化したかについて知ることができた。そして、その呼吸の仕方は天使の呼吸法に似ていたので、彼らは深い思考のなかにいた。そして説明できないような知覚を享受できていた。したがって、たとえそれを説明しようとしても、理解困難であろうし、だれも信じないであろう。内的呼吸は、その子孫の間では、しだいに失われていった。そして恐ろしい信仰と空想にとらわれた人々の間で変化し、それは矮小化された観念以外の何ものも表現することはできなくなった。この結果、彼らはもはや生き延びることができず死に絶えたのである。(『天界の秘義』607)

人間における「神の像」は失われない

 人間にある神の像および神の似姿は、失われているのではなく、失われているように見えるだけである。なぜなら、それらは自由と合理性という二つの人間の能力の中に植えつけられているからである。人が、神の愛の受け皿である意志を、自己愛の受け皿にしたとき、また、神の知恵の受け皿である知性を、自己の知恵の受け皿にしたとき、それらは失われたように見えた。それによって、人は神の像と似姿を転倒させたからである。人はそれら二つの受け皿を神からそらして、自分自身に向けた。このため、これらの受け皿は、上が閉じられ下が開いた、あるいは前が閉じられ後ろが開いたのである。これらの受け皿は、前が開き、後ろが閉じるように創造されていたのであるが。そして、いったんこれらの開閉が転倒してしまうと、愛の受け皿、われわれの意志には、地獄が、プロプリウムが流入することになる。知恵の受け皿についても同じである。ここから教会においては、神の礼拝に代わって、人間の礼拝が、真理の教義の礼拝に代わって、偽りの教義の信仰が発生した。前者は自己愛から、後者は自分自身の知性の過大評価から生じた。以上から、宗教は、徐々に人間が自らの内にある神の像を転倒させることによって、衰退し終焉を迎えることがわかる。(『神の摂理』328)

外的呼吸と音声による言語の始まり

 内的呼吸が滅びると、ほぼ今日の呼吸と同様の外的呼吸が、徐々にそれにとってかわった。そして外的呼吸とともに、音声の言語が生まれた。その音声は、思考を構成する個々の概念を内包していた。こうして、人間の状態は完全に変化した。そして人は、以前もっていたような感知力をまったくもたない存在になった。感知力の代わりに、人は別の内的な声をもつようになった。それは良心と言ってよいであろう。というのは、それは良心に似ているが、感知力と今日いうところの良心との中間的なものだからある。そして、いったん音声のことばに、思考を形成する概念が注がれるようになると、人間は、最古代の人々がもっていたような内的自己による教えを受けることがなくなり、外的な自己からの教えだけを受けるようになった。最古代教会の啓示は、教義的な問題に道を譲った。そしてそれは、まずは身体的感覚によって理解されるであろう。これらの身体的感覚は、記憶の中で具体的イメージに形成され、さらに諸概念に再形成されるであろう。それが思考の要素となるのである。これらの諸概念が教えのための手段となり、枠組みとなるであろう。したがって、この教会の精神構造は、その前の最古代教会とはまったく異なるものであった。もし主が、人間にこの新しい心、新しい道を与えなければ、だれも救われなかったであろう。(『天界の秘義』608)

漸進的、継続的な堕落

 最初の人間についてこれまで述べたところから次のことが明らかである。現在の遺伝悪がすべてその人物から来たわけではない。一般には誤ってそう考えられているが、ここでの主題は最古代教会であって、それが「人間」と呼ばれているのである。それがアダムと呼ばれるのは、彼が地から、つまり人間でないものから作られた、そして神によって改造されて人間になったという意味である。これがその名の由来であり、意味である。遺伝悪については、真実は次のとおりである。自分自身の行為によって罪を犯す者は、だれしもその結果として、ある傾向をもつようになる。そしてそこから出てくる悪は、子供たちに植えつけられ、遺伝する。こうして子孫が、両親、祖父母、曾祖父母、高祖父母等々から受け継ぐものは、その人の中で何倍にも増加し、とどまることになる。また、その人自身の犯す罪によって、それはさらに増加する。遺伝悪は、主によって再生する人以外、消えることはなく、無害化されることもない。このことは、注意深い人であれば次のような事実から理解できる。両親の悪への傾向は、彼らのこどもたちにも明瞭に見られるので、ある家族は別の家族から区別される、またある世代は別の世代から区別されるという事実である。(『天界の秘義』313)

遺伝悪の本質と広がり

 父親からの遺伝悪は内的であり、母親からの遺伝悪は外的である。前者は容易に取り除くことができないが、後者は取り除くことができる。人が再生するとき、両親から受け継いだ遺伝悪は根絶されるが、再生しない人、再生不可能な人にあっては、それはとどまり続ける。これが遺伝悪である。このことは思慮深い人には明らかである。またどんな家族にも、他の家族と異なる悪い特徴と良い特徴があるという事実からも明らかである。またよく知られているように、その特徴は親や先祖から受け継がれるという事実からも明らかである。同じことが、現存しているユダヤ民族についても当てはまる。彼らは、他のどんな民族とも異なるし、その独特の気質のみならず、習慣、話しぶり、顔つきによってもそれとわかる。

 しかしながら、ほとんどの人が遺伝悪が何かを知らない。一般には、それは悪を行うことだと思われている。しかし実際は、それは悪を欲すること、悪について考えることなのである。遺伝悪が存在するのは、意志の中であり、思考の中である。遺伝悪は、それらの中に現実に存在している悪への傾向である。それは人が善を行っているときでさえそこにある。それは、不幸が他人に降りかかると嬉しいといったことでわかる。その根源は深いところに隠れている。なぜなら、天界から(つまり主から天界を通して)善と真理を受け取る内的かたち自体が、悪用されねじ曲げられるからである。そのため、善と真理が主から流入するとき、それらは反転させられるか、逸らされるか、窒息させられるかするのである。これこそ、今日、善と真理の感知力がなくなっている理由である。その代わり、再生する人には良心があって、それによって、両親や先生から教えられたことは善であり真理であると認めるのである。他者より自己を愛すること、自分を尊敬しない者に不幸を願うこと、復讐に喜びを感じること、また天界よりこの世を愛すること、これらは遺伝悪から来る。あらゆる貪欲さ、悪い情愛もまたそこから来る。人は、そのようなものが自分の中にあること、それは天界の情愛とは真逆のものだということを知らない。しかしあの世に行くと、人はこの世の生活において、自らいかに多くの悪を遺伝的なものから引き出したか、また同じ源泉から来る悪い情愛によって、いかに天界から遠ざかったか、はっきりと示される。(『天界の秘義』4317)

主の教義1