スウェーデンボルグとその時代

スウェーデンボルグとその時代

                                          高橋和夫
 1988年はスウェーデンボルグ生誕300年の節目の年であった。それからもう30年の歳月が流れた。その間、1997年にJSAが結成され今年が21年目となる。設立10年の2007年に会員の共著『スウェーデンボルグを読み解く』(春風社)が出版され、「JSA会報」は30号に達した。そして2005年には、スウェーデンボルグのほぼ全部の著作(遺稿も含む)の手書き草稿(約2万ページに達する)や書簡類が「スウェーデンボルグ・コレクション」の名のもとに「ユネスコ世界記憶遺産」に選定(登録)されるという衝撃的なできごとがあった

 「世界記憶遺産」は英語で Memory of the World であり「世界の記憶」とも訳される。その選定規準は、世界史に重要な影響を及ぼし、唯一性・代替不可能性を有する、文書や映像フィルムなどの記録物とされる。2005年時点で57ヵ国、120点であった。現在では世界で350点ほどであろうか。ウェブで簡単に調べられるので詳細はそれに譲る。以下簡潔にごく一部を書きとめてみよう。

 古いものでは、インドの『リグヴェーダ』や中国の『黄帝内経』の関連文書類がある。時代がくだったところでは『グーテンベルク聖書』(独)『本草綱目』(中国)「高麗大蔵経」(韓、版木)、アメリゴ・ヴェスプッチの「プトレマイオス式世界地図」(独・米)「人権宣言のオリジナル」(仏)など。日本のものは「慶長遣欧使使節関連資料」(スペインと共同)「東寺百合文書」など7点。

  西欧の近代の人物に関するものでは、「ニュートンの文書類」「ゲーテ・シラー書簡集」「シェークスピア文書」「キルケゴール書簡集」「マルクスの『共産党宣言』の手稿」「ベートーヴェンの『交響曲第9番』の自筆楽譜」「ヴィトゲンシュタインの哲学遺産」「カール・リンネのコレクション」「パスツールのアーカイブ」等がある。 

 スウェーデンの「世界記憶遺産」は現在7点であり、最初の選定は2点。2005年の「A・リンドグレーンのアーカイブ」と「スウェーデンボルグ・コレクション」である。リンドグレーンは20世紀の著名な女流児童作家。次いで2007年には「A・ノーベル家のアーカイブ」と「I・ベルイマンのアーカイブ」が選定された。ノーベルは周知のダイナマイトの発明者、ノーベル賞基金の創設者、ベルイマンは著名な映画・舞台監督である。2011年に7点目の記憶遺産に選定されたのが「タグ・ハマーショルド・コレクション」であり、彼は第2代国連事務総長をつとめ、飛行機事故死後「ノーベル平和賞」を受賞している。

 スウェーデンボルグの文書が選定されたのは、おもに二つの理由による。一つは、18世紀の西欧啓蒙時代の現存する最も大量な文書集成の一つであり、その時代の科学と宗教(神学)の両方を反映しているということ。二つ目は、彼の聖書解釈がキリスト教会に新地平を拓き、現在も多大な影響を与えつづけているということである。

 さて、18世紀とはどんな時代だったのだろうか。それは西欧に「啓蒙」の精神が拡がり、理性が強調され旧弊や因襲が批判された時代である。

 この時代はドイツの哲学者カントを抜きにして語れない。彼は『啓蒙とは何か Was ist Aufklaerung?』という小著で、啓蒙とは人間が未成年状態から脱出すること」と定義した。これは、伝統や権威への精神的依存から自らを解放して、人間が自分の理性を用いて考え、自律的に行動するように要求する。カントは、伝統的な形而上学(哲学)を、理性の能力そのものを吟味・分析することによって、徹底的に批判した。政治・社会、また文化面で、この時代にはイギリスの産業革命が急速に進展し資本主義が確立した。後半にはアメリカの「独立宣言」(1776年)と、フランス革命(1789-99年)にともなう「人権宣言」が出され、自由・平等・主権在民・三権分立が強調された。まさに18世紀は理性と啓蒙と革命の時代であった。

 前述の小論でカントは、「未成年状態」にとどまる大半の人間は自分の理性(ないし悟性)を使って考えようとしない、と言う。自然が人間を肉体的には成熟させた後も、大半の人間の精神は未成年状態のままでありたいと願う。そのほうが「はなはだ気楽」だから。「私に代わって理解してくれる書物」「私に代わって良心を持ってくれる牧師」「私に代わって食事の指導をしてくれる医師」があれば、自分で善悪を判断したり、自分で健康に注意したりする必要がない。あえて精神的に成熟しようとするのは、煩わしく、危険ですらある。こうして大半の人びとは未成年状態を脱出できず、自分の理性で深く考えない。カントはこれを怠惰と臆病だと言い、「自分の理性を使う勇気を持て!」と呼びかける。

 18世紀は表面的には華やかに見えるが、まだまだ暗い時代であった。

 この時代までにプロテスタント教会は、聖書を民衆に開放してカトリック教会と袂を分かち、神や救いについて自由に考え自由に信仰を確立しようと努力した。しかし宗教改革は「予定説」「信仰のみによる義認説」などの曖昧な教理によって天来の霊的な光を遮った。カトリック教会は大航海時代のうねりの中で資本主義と結託して全世界を支配下におこうとした。

 フランスの啓蒙思想家、モンテスキューは、イギリスを訪問したさい「上流の社交界で宗教が話題になると皆が嘲笑する」と語ったと言う。

 スウェーデンボルグはフランスやイタリアを旅したとき、そこのカトリック聖職者の腐敗を嘆いている。フランス社会には不信仰、不道徳が蔓延し、革命の前兆が見られた。そこでは唯物論が栄え、医師、ラ・メトリーは『人間機械論』の中でこう書いている。「脚が歩くための筋肉を持つごとく、脳は考えるための筋肉を持つ」「無神論が確立されぬうちは、世界は幸福にならないだろう。あるのは哲学ではなく唯物論だ。肉体の一部を形成している霊魂は肉体とともに滅び、死とともに一切は終わる」と。

 イギリスの評論家カーライルは、18世紀を総括して「この世紀は骨の髄まで虚偽に染まり限界に達した」と言った。

 この世紀にはまだ異端審問や魔女裁判があった。火刑台の火が消えた年は、ベルリン、1728年、スイス、1785年、ポーランド、1793年であり、メキシコでは何と1884年との記録がある。

 スウェーデンボルグは「最後の審判」が起こったのは1757年中だと告げる。むろんこれは霊界での出来事だが、その2年前の地上にある種の前兆を探ることもできるだろう。1755年、ポルトガルの首都リスボンを大地震と大津波が襲ったのである。6万人の死者が出た。理性を謳歌する時代の楽天的風潮を突き崩すような惨事であった。

 スウェーデンボルグの縁者だったカール・リンネは、この地震を「神罰」と確信し、その死後に出版された自著にこう書いている。

 「リスボンでは毎年、諸聖人の祝日に荘重な火刑台が築かれ、教皇を拝する審問官たちが不幸な人びとを引張っ てきて、異端の名目で彼らを火刑に処す。審問官たちがおこなうのは、神に変装した悪魔の仕事である。この世 にこれほど恐ろしく残酷な犯罪はない。・・・年の他ならぬ諸聖人の日に、地震が起きた。海には津波が発生し 、火事がひろがり、ありとあらゆる苛酷な神罰が強情な罪人たちをとらえた。神は地球の半分を震撼させ、その ことによって、神は全知であり、また異端者であろうとも不幸な者には慈悲の心を示されることを教えられた。
 (『神罰 Nemesis Divina』小川さくえ訳、法政大学出版局、1995年、110頁)

 この頃フランスでは『百科全書』を公刊中であったが、この災禍は理性と科学への信頼を打ち砕いた。ゲーテが「恐怖の悪魔がこれほど素早く力強く地上に降り立ったことはかつてなかった」と述べたほどである。

 スウェーデンボルグはこの時代を、前半生は科学者として、後半生は神秘思想家または神学者として生きた。この移行期(転身期)に関して、一般には、その移行が霊界への参入によって突発的ないし急速に進んだと見なされがちである。これは誤りである。事実は、二つの時期は連続しており、科学的著作の中に、例えば照応の理説の前駆となる理論が存在するように、神学的著作のキイ概念や理論がいくつも見られる。大作『天界の秘義』(61-68歳に出版、全8巻)の執筆以前の著作である、『神の崇拝と神の愛』と『アドヴァーサリア』は移行期に書かれた重要な著作である(56-59歳)。『神の崇拝と神の愛』は、スウェーデンボルグの草稿の世界記憶遺産への申請に尽力した一人、インゲ・イョンソン博士が最も注目した著作である。ここでスウェーデンボルグは、楽園のアダムとイヴを主人公とした一種の神話物語を描いている。ミルトンの著作なども読んで着想を得たという研究もあるが、ここでの教理的部分には旧態依然とした伝統的教理、三位一体説や贖罪思想が色濃く反映されている。また、分量的には『天界の秘義』に匹敵する『アドヴァーサリア』(A・アクトン博士が「聖書講解」として英訳出版)は旧約聖書の大部分の書の逐語的解釈である。その一部は筆者も読んだが、ここでも古い教理が大勢を占め、完全な啓示を受けて書かれた『天界の秘義』とは雲泥の差がある。

 中間期においてはスウェーデンボルグ自身も十分に「啓蒙」されていない、または「悟って」いないと言えよう(英語で「啓蒙する」「悟る」はともに enlighten であり、光を注ぐ、啓発する、を意味する)。この時期の彼の理性はまだ古い信仰に従属している。テルトリアヌス流の「不合理なるがゆえに我信ず Credo quia absurdum」という姿勢を脱却していない。

 真に啓発された理性が、不純な残滓を捨てた真の信仰を復原するのは、スウェーデンボルグがその神学的時期に入って『天界の秘義』を執筆した59-60歳の頃であろう。

 テルトリアヌスの有名な言葉の対極をなすスウェーデンボルグの言葉は、「今や信仰の神秘の中へ知的に入ってゆくことが許されている」というものである。NUNC LICET(ヌンク・リケット、今や許されたり)は、彼が1747年2月(59歳)に見たヴィジョンの中に示された言葉である。これは彼の科学的時期や移行期の研究と思索が捨てられたということではけっしてない。啓蒙された理性と啓発された信仰が、科学とキリスト教の信仰に正当な位置を与えたのである。

 世界は18世紀の科学と宗教の両方を知りうる資料として厖大な「スウェーデンボルグ・コレクション」を「世界記憶遺産」に選定した。これを機に西欧啓蒙期の科学と宗教、またスウェーデンボルグの科学と神学の両方の総合的研究が進むことが期待される。

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