聖書2

文字の意味によって人は主と連結し天使と交流する

 聖言を通して人は主と結ばれるが、その理由は、聖言はただ主のみを扱っており、そのため主はその内容全体であり、ことばと呼ばれる(ヨハネ、1:14)からである。それは主の教義で示されたとおりである。連結は文字の意味において生じるが、それはここにおいて、聖言は完全であり、神聖であり、力があるからである。連結は人にそれとわかるようなものではないが、人の真理への情愛、真理の知覚の中に存在する。したがって、それは神的真理への愛と信仰の中にある。文字の意味を通して、天界の天使との交流が可能となるが、それは文字の意味の中に霊的意味と天的意味があり、天使たちはこれらの意味の中にいるからである。霊的王国の天使は、聖言の霊的意味の中に、天的王国の天使は天的意味の中にいる。これらの意味は、真実の人間が聖言の自然的意味、すなわち文字の意味の中にいるとき、その意味から出てくる。それは瞬時に出て来るし、天使との交流も同様である。霊的天使が聖言の霊的意味の中にいること、天的天使が天的意味の中にいることは、多くの経験を通して私に明らかにされている。(『聖書の教義』62-64)

主と教会の結婚、善と真理の結婚は、聖言のあらゆる部分に存在する

 主と教会の結婚、したがって善と真理の結婚は、聖言のどんな小さな部分にも存在することがこれまで知られていなかった。また知ることができなかった。それは聖言の霊的意味が明かされていなかったためであり、その結婚は霊的意味によってしか知ることができないからである。聖言の文字の意味の中に、二つの意味が隠されている。霊的意味と天的意味である。聖言における表現は、霊的意味では、おもに教会に関わり、天的意味では、おもに主に関わる。それらはまた、霊的意味では、神の真理に関わり、天的意味では、神の善に関わる。この結果、文字の意味の中に、前述の結婚が見出されるのである。しかし、もし人が聖言の霊的、天的意味から、ことばと名前の象徴的意味を知ることがなければ、この結婚は明らかにならない。なぜなら、あることばや名前は善に関係し、あるものは真理に関係し、またあるものは両方を含むからである。これを知らなければ、上に述べた聖言のあらゆるところにある結婚はわからない。以上の理由から、このアルカナ(神秘)は以前は明かされることがなかったのである。(『聖書の教義』80)

教義は聖言の文字の意味から引き出され、それによって確認されるべきである

 その理由は、主が文字の意味の中におられ、私たちを教え、照らされているからである。なぜなら主は決して不十分な形で働かれることはないし、上述のとおり、聖言は文字の意味において完全だからである。これが、教義が文字の意味から引き出されるべき理由である。ほんとうの真理の教義は、聖言の文字の意味から十分に引き出されうるが、そのわけは、文字の意味は衣服を着た人のようなものだからである。衣服に包まれていても顔や手は見える。人の信仰といのちにとって必要なものはすべて、つまり救いにとって必要なものはすべて、隠されることなくそこにある。残りは衣服に包まれているとしても。衣服に包まれた多くの箇所も、ちょうど薄い絹のベールをかぶった女性にわかるように、透けて見える。実際、聖言の真理を愛することで、真理が増え、整理されるにつれて、それはますますはっきりと見えてくるのである。(『真のキリスト教』229)

異端説を確信することは有害である

 聖言には、ありのままの真理ではない真理の外観が多く含まれている。また自然的、感覚的な人々のために書かれていることが多くある。とはいえ聖言は、単純な人は単純に、知的な人は知的に、賢明な人は賢明に理解するように書かれている。聖言の本質がそうであるから、服を着た真理である真理の外観が、ありのままの真理と受け取られうるが、それが確信されると、それは誤謬になる。このようなことをする人は賢くないのであるが、自分では他人より賢いと信じている。というのは、あることを確信する前に、それが真理であるかどうかを知って、嬉しいことならなんでも信じるということをしないのは英知の役目だからである。後者を行うのは、ものごとを弁護する才能があり、自分の知性を誇る人たちである。しかし、前者を行うのは、真理を愛し、真理であるがゆえに真理に影響され、それを役立ちの生活に適用する人たちである。というのは、彼らは主によって照らされ、その真理の光の中で真理を見るが、対照的に、他の人たちは自分自身によって照らされ、その誤謬の光の中で誤謬を見るからである。(『聖書の教義』91)

聖言の書とは

 聖言の書とは、内的意味のある書すべてである。内的意味のない書は聖言ではない。旧約聖書における聖言の書は、モーセ五書、ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下、ダビデの詩篇、預言書、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書である。新約聖書における聖言の書は、四福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、そして黙示録である。(『天界の秘義』10325)

使徒たちの著作の特徴

 パウロやその他の使徒たちの著作に関しては、私はこれらを『天界の秘義』の中に入れませんでした。というのは、これらは教義的な著作であり、預言書、ダビデ、福音書、黙示録のような聖言のスタイルで書かれていないからです。聖言のスタイルは例外なく照応からなっており、そのためそれは天界と直接交流することができるのです。教義的著作においては、天界と交流するもう一つのスタイルがありますが、それは間接的なものです。それらが使徒たちによってそのように書かれたのは、これを通して新しいキリスト教会が始まるためでした。そのために、教義的なことは聖言のスタイルでは書かれることができず、もっと明瞭でわかりやすいやり方で書かれることになったのでしょう。それにもかかわらず、使徒たちの著作は、教会にとって良い本です。なぜなら、それらは、主ご自身が、福音書や黙示録の中でそうなさったように、仁愛の教義とその信仰を固く守っているからです。(「バイエル博士への手紙」1766.4.15)

旧約聖書の聖言

 旧約聖書の聖言には、天界の秘密が隠されている。また、そのあらゆる部分で、主と、主の天界と、教会と、信仰と、信仰に関連したすべての事柄が扱われている。しかし、そのことは、その文字からはだれも分からない。文字、あるいは文字の意味によって判断するなら、だれも、その大部分は、ユダヤ教会の外部的特徴の記録以上のものとは思わない。しかしほんとうは、聖言のあらゆるところに内的なものがある。しかしそれは、主が使徒たちに明かされ、説明されたごく少数のこと以外は、外的なものには一切出てこない。たとえば、犠牲は主を意味する、カナンやエルサレムの地は天界を意味する、そこから天界的カナンやエルサレムと呼ばれた、またパラダイスにも同様の意味がある、のように。(『天界の秘義』1)

黙示録

 黙示録のどんな一節も、主以外によって明らかにされることはないであろう。(『結婚愛』532)

 黙示録は、これまである人たちが信じてきたように、教会の一連の状態を扱っているわけでもなく、一連の王国の状態を扱っているわけでもない。そうではなく、それは終始一貫、天と地の教会の最後の状態を、そして最後の審判を、そしてその後の新教会すなわち新エルサレムを扱っている。この新教会が、この著作の目的であることは明らかである。(『啓示による黙示録解説』2)

聖言は天界全体に存在する、そして天使の英知はそれに由来する

 天界に聖言があることは、これまで知られていなかった。また、天使や霊が、この世の人間と同じように人間であり、あらゆる点でこの世の人間と同じであるが、ただ、天使や霊は霊的で、彼らの間にあるものは霊的起源をもつのに対し、この世の人間は自然的で、彼らの間にあるものは自然的起源をもつところだけが違う。そのことが知られていなかった以上、天界に聖言があることは知られることがなかった。この事実が隠されているかぎり、天界にも聖言があり、天使はそこでそれを読み、霊は天界の下で読むことを人々は知ることができなかった。(『聖書の教義』70)

聖言の歴史的意味は、とりわけ子どもたちのために与えられた

 聖言は、天界と地上が結ばれるために、すなわち天使と人が結ばれるために与えられた。そのため、それは天使によって霊的に理解されるように、また人間によって自然的に理解されるように、そして天使をとおして聖なるものが流入し、それによって連結が実現するように書かれている。聖言は、歴史的部分でも預言的部分でもそうである。しかし、内的意味は、預言的部分より歴史的部分であまりはっきりしない。というのは、歴史的部分は異なるスタイルで書かれているからであるが、それにもかかわらず、そのスタイルには意味が含まれているのである。歴史的部分は、幼児や児童が聖言を読み始めるように与えられた。というのは、歴史的部分は楽しいし、心に残るからであり、それによって天界との交流が与えられるからである。そしてこの交流は喜ばしい。というのは彼らが無垢で相互愛の状態にあるからである。これが歴史的聖言が与えられた理由である。(『天界の秘義』6333)

聖言が人によって熱心に読まれる時、天使はその内的意味を感じ取る

 主の聖言が、それを愛し仁愛に生きる人によって読まれている時、あるいは単純な心で書かれていることを信じ、内的意味に存在する信仰の真理に反する意見をもたなかった人によって読まれている時、それは、主によって、たいへんな美しさと楽しさをもって天使の前に示される。それはまた、表象するものを用いて、天使のその時の状態に応じて、言語に絶する多様性をもって示される。天使には、その一つひとつが、いのちをもつかのように感じられる。これは、聖言の中に存在するいのちであり、それが天界から降りてきた時に、そこから聖言が生まれたのである。この理由によって、主の聖言は文字においては粗雑で不完全に見えるが、内部には霊的、天的なものが含まれている。そしてそれは、人によって読まれている時に、善霊と天使に完全に見えるのである。(『天界の秘義』1767)

聖言によって、光は教会の外の諸国民に伝達される

 地上のどこかに聖言をもつ教会がなければ、またそれによって主が知られなければ、天界との連結は存在しえない。なぜなら、主は天地の神であり、主なくして救いはないからである。比較的少数の人々からなる教会であっても、聖言をもつ教会があれば十分である。それでも主は、聖言をとおして地球全体いたるところに存在される。なぜなら、それによって天界は人類と結ばれるからである。(『聖書の教義』104)

啓示について

 啓示は、知覚(perceptio)か、もしくは天使を通して主が語られるその天使との会話からくる。善の内に、したがって真理の内にいる人々、そしてとりわけ主への愛の善の内にいる人々が、知覚から啓示を受けることを知らなくてはならない。しかし、善の内にいない、したがって真理の内にいない人々が、実際、啓示を受けることができる。しかし、それは知覚からではなく、彼ら自身の内部で聞こえてくる生きた声を通して、したがって主から天使を通して受けるのである。この啓示は外的であるが、前者は内的である。とりわけ天的天使が知覚による啓示を受ける。最古代教会の人々も同様だった。また、古代教会のある人々もそうだった。しかし今日、そのような人はほとんどいない。しかし、善にいるわけでもない多くの人々が、知覚からではなく会話から、またビジョンや夢から啓示を受けている。ユダヤ教会の預言者のほとんどはそうだった。彼らは声を聞き、ヴィジョンを見、夢を見た。彼らには知覚がなかったので、これらは単にことばの、また映像の啓示であり、それらが意味するものの知覚はなかった。(『天界の秘義』5121)

現在の聖言以前に、失われた聖言があった

 古代の人々の間に完全に照応によって書かれた聖言があったが、それは失われたと天界の天使が私に語った。そしてその聖言は、この世にいたときにそれをもっていたが、現在は天界にいる古代人によって、今も保存され使われているという。その聖言を天界で今も使っている古代人は、一部は、カナンの地とその周辺の出身者だった。すなわちシリア、メソポタミア、アラビア、カルデア、アッシリア、エジプト、シドン、テュロス、ニネベである。これらの王国の人々は、表象的礼拝を行った。それゆえ照応の知識をもっていた。この時代の英知は、この知識に由来するのであり、このため彼らには内的知覚と天界との交流があった。その聖言の照応について、より内的な知識をもっている人々は、賢い、聡明であると言われたが、後には預言者またマギと呼ばれた。しかしながら、その聖言はただ間接的に天的、霊的なものを表象する照応で満たされていたので、結果的に、多くの人々がそれを歪め始めた。それゆえ時の流れの中で、主の神の摂理から、それはしだいに見えなくなり最終的に失われた。そして、それほど間接的ではない照応によって書かれたもう一つの聖言が与えられた。そして、それはイスラエルの子らの間の預言者をとおして行われた。それにもかかわらず、その聖言はカナンとその周辺のアジアの地のたくさんの場所の名前を保持していた。そしてそれは、古い聖言のように同じ象徴的意味をもっていた。それが、アブラムがその地に行くことを命じられ、ヤコブ以下の彼の子孫がそこに戻るように導かれた理由である。(『聖言の教義102』)

聖言を冒涜する罪

 冒涜とは神的真理と悪から来る偽りが結合することである。冒涜となるその結合は、最初に教会に属することがら、とりわけ主を是認して、あとでそれを否定するような人たち以外には起こりえない。なぜなら教会の真理や主を是認することは天界との接触になり、したがって、人の内部を天界に向けて開くことになるが、そのあとでそれを拒否することは、同じ真理を悪から来る誤謬に結びつけることになるからである。というのは、すべて人が是認することは人の中にとどまるからである。是認によって人に入ったものは、決して滅びることがない。冒涜している人の状態とは、天界と交流しているが、同時に地獄とも交流しているという状態である。真理によって天界と交流し、悪の偽りによって地獄と交流する。この結果、そのような人には来世において引き裂かれた状態が生まれる。そしてそれはそのような人々の内的いのち全体を破壊する。引き裂かれた後では、彼らはもはや人間には見えない。いのちのない焼け焦げた骨のように見える。(『天界の秘義』10287)

聖言が冒涜されないための配慮

 主は、神の善と真理が冒涜されないように最大限の用意を整えておられる。とりわけ冒涜せずにはいられないような人については、善と真理を承認し信じることがないようにできるだけ遠ざけておくことによってそうされている。というのは、すでに述べたように、善と真理を承認し信じるものでなければ冒涜することはないからである。これが、内的真理がヤコブの子孫―イスラエル人とユダヤ人―に明かされなかった理由であった。人間に内的な何かがあることも、したがってある種の内的礼拝があることも彼らには言明されなかった。また死後のいのちについても、主の天界的王国についても、彼らが待ち望んでいる救い主についてもほとんど語られることがなかった。これらの真理が明らかにされなかった理由は、前述のとおり、もしこれが明かされたなら、ユダヤ人とイスラエル人はそれを冒涜せずにはいられないような人々だったからである。彼らは現世的なもの以外は何も望まなかったからである。(『天界の秘義』3398)

 

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