スウェーデンボルグ教会との出会い

スウェーデンボルグ教会との出会いと、その後の人生観


芳賀 猛

 サンフランシスコ(SF)のスウェーデンボルグ教会に初めて行ったのは、留学中の1992年。生まれ育った東京で教会幼稚園に通った以外、全くと言っていいほど、宗教に関心がなく、アメリカにいたからこそ、教会に行くこともできた。Interfaith というユニークな教会には、鎌倉のお寺の鐘も置かれていた。牧師先生のメッセージは、身近なことに絡めたお話で、とても分かりやすかった。今でも覚えている一つは、カヤックの経験から、流れに逆らってもがくと、苦しいばかりで思ったように動けないが、覚悟を決めて、流れに身を委ねた途端、全てのことが、スーッと流れ出し、進む道が見えてきた、といった内容で、運命を神様に委ねる喩えだったが、その話ぶりもあって、とても説得力があった。

 転機となったのは1994年、この教会に滞在した日本人の牧師研修生を紹介されたことだった。現れたのは研修生というイメージとは掛け離れた、柔和で成熟した感じの國枝牧師(当時はインターン)。それまで日本語で宗教のことを話す機会がなく、堰を切ったように、自分の中にあった思いを話すようになった。一神教のキリスト教では、他の神を認めない、排他的なところがある。キリスト教社会のアメリカ生活が長くなり、自分の中の東洋的な背景と現実生活との間に、明らかな亀裂を生じていた。私は高校時代から、『荘子』の「万物斉同の哲学」に惹かれていた。國枝牧師と話す中で大きな気づきがあった。自分の中では、キリスト教社会の現実と、東洋的背景との対立構造があったが、それは、『荘子』がいう現実世界の対立差別を全て退ける(『荘子』金谷治 訳注、1971)ような境地に、自分はまだ達していないことを意味する。國枝牧師に、「そこが君の限界か?」と言われ、まさに、その通りだった。その年は、スウェーデンボルグが影響を与えたユングの提唱した「共時性」を感じる出来事もあり、一つの節目の年だった。

 さらに大きな節目の年となったのは、1996年。反発していたキリスト教だったが、夢に十字架が出てきて、運命的なものを感じ、バプティスト教会の牧師先生より、5月19日、洗礼を受けた。当時、言い知れぬ「死への恐怖」があり、太平洋での浸礼は、古い自分が死に、新しい命を授けられたと実感する儀式だった。そして受洗から二ヶ月余り、象徴する出来事が起こった。当時33歳だった私は、突然、脳出血で倒れた。幸い適切な手術で、普通の生活に戻ることができたが、脳出血と告げられた時、一瞬襲った不安も、神の愛を信頼し、全てを委ねよう、と思う内に、自然と平安が湧き上がってくるのを感じた。

ここまではSFでの出来事だが、1997年に帰国してから、京都、宮崎、そして再び東京と、生活の場を移しながらも、運命的な出来事を感じることが多々あった。ここからは、宗教と科学について、書いてみたい。スウェーデンボルグは、稀代の科学者として多くの先駆的な業績を残しながら、突如、霊への目覚めから、神秘主義思想家に変貌している。浅学な私は、ガリレオの宗教裁判などの断片的な知識だけから、宗教と科学は、相反するものと思っていたが、歴史的に自然科学の重要な発見をした多くの科学者が、「創造主」としての神を信じていた(『科学者はなぜ神を信じるのか』三田一郎、2018)。そこには、宇宙や生命といった「神の仕業」を「科学」で説明しようとする探究心があった。自然科学の発展により、自然の摂理の解明は進み、人類は過去の呪縛から解放され、その恩恵にあずかっている。一方で、神の領域と考えられていた事象も、人間が操作可能になりつつあり、「倫理」が改めて求められる。人間の傲慢で、旧約聖書にあるようなバベルの塔を再び築くようなことになってはいけない。

今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行により、時代の転換期にある。20世紀の終わり、新興感染症が人類への警鐘、と言われた。環境破壊とグローバル化が背景にある。奥地への開発で、これまで出会うことがなかった野生動物の病原体に人類が遭遇し、ウイルスの変異も加担して、グローバル化の波に乗った病原体は一気に世界にばら撒かれる。COVID-19も、行きすぎた経済優先や環境破壊に対する警鐘と捉え、レジリエントなポストコロナの社会を目指す必要がある。一方で、COVID-19はオンライン技術の急速な普及をもたらし、物理的距離が一気に縮まり、自動翻訳機能で言語の壁も低くなってきた。ニューノーマルのグローバル化は、以前と形を変えて、急速に進みつつある。それは素晴らしいことだが、ますます重要になるのは、多様性の尊重、すなわち異文化共生や相互理解である。科学では解明しきれない「霊的」な感覚や、愛の人と言われるスウェーデンボルクの思想に、ポストコロナへのヒントがあるかもしれない。