自己肯定感と

自己肯定感と「われと汝」


林 昌子

1 日本の今—自己肯定感の低下と自意識過剰の交差
 成り行きで、昨年度より私は再び学生の身分に戻った。実に30年ぶりである。昨今の大学院生は、必ずしも学部卒からストレートに大学院に進級してくる人ばかりではなく、社会人を経て再び大学で学びの機会を得る院生も増えてきた。もしかしたらそれは、今の私の専攻である社会福祉学に特徴的であるかもしれない。そうはいっても、院生仲間の内では50代の私が最高齢である。
 1990年代と2020年代の学生を、学生の目線で比べることができる自分の立場がありがたい。最近の若者が、かつての若者と比べて優れているなあと思うところは多くある。たとえば、真面目さ。徹夜麻雀の末、翌日の授業をさぼるなど今では考えられない。また、女性やLGBT、マイノリティーに対する人権意識が高い。今の学生たちは、小ぢんまりとしていて、質素で素直だ。そして自分が傷つくことをもっとも恐れているが、その代わりに他人を傷つけるような粗暴さも少ない。
 昨今の若者の傷つきやすさについては私だけが感じているのではなく、会社の上司の若手従業員に関する悩みなどで、最近では一般的であろう。パワーハラスメントはじめ様々なハラスメントが糾弾されるようになったのは、確かに社会改良の成果である。だがそれとは別に、たとえば間違いを指摘するとか、ちょっとした冗談も、伝え方や状況を間違えると若者たちは予想以上に傷ついてしまうことがある。若者たちの異様に高い自意識への対処には、腫れ物に触るように神経を使うのだ。
 日本の若者は、他の先進国の若者に比べて「自分への満足感」が低いという結果が、内閣府「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」(2018年度)により示されている。「私は、自分自身に満足している」という問いに対して、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンの75%から85%の若者が「そう思う」と答えたのに対して、日本の場合は45%しか自分に満足していない。他にも「自分には長所があると感じている」「親から愛されている」「自分の考えをはっきり相手に伝えることができる」「うまくいくかわからないことにも意欲的に取り組む」といった自己肯定感の指標となる問いに対して、日本の若者の肯定的な回答は、諸外国よりも軒並み飛び抜けて低いという結果が示されている。
 当然、そのような意識はその持ち主である本人を追いつめ苦しめる。そしてそれは、「生きづらさ」といわれるような感覚に結びつきやすい。社会学者であれば、そのような意識を持つに至った社会的原因を追究するのがよいであろう。そしてそれが明らかになったならば、その原因の改善に働きかけるべきだ。しかしここでは、キリスト教の一宣教者として、また、スウェーデンボルグの読者の末席にある者として、自分の若い頃のある体験が、誰かの何かの参考になればと願い、拙文を以下に記す。

2 椎名麟三の「神のユーモア」
 若者の自己肯定感の低さ、自意識過剰は今に始まったことではない。それは時代を超えて、普遍的にある程度そういうものであろう。振り返ってみると、高校時代の自分も例外なく、その意識にさいなまれていたようだ。その証拠に当時の私は太宰治に夢中で、中でも彼の有名な「生まれてすみません」は、自分の心情にもっとも合う言葉だと感じていた。しかし大学一年生の夏、やがてそのような意識と決別する時を迎えることになった。実にきっぱりと、である。
 大学に入学した年の初学期に、全学部の学生が履修できる「共通基礎講読」という授業があった。その年の当科目担当が、私が所属していたキリスト教学科の野呂芳男教授であった。そこで師が選んだ教材が、椎名麟三の自伝的キリスト教入門書『私の聖書物語』である。キリスト教に馴染みのない、しかも大学一年生でも楽しく読める教材というわけだ。
 その本の中で、今なお私にとって最も印象深い箇所が、回心体験が語られた章、「神のユーモア」である。椎名自身の言葉によってことわっておくが、彼は決して立派な「クリスチャン」ではない。むしろ、「クリスチャン」の読者からの「叱責や忠告やらのたくさんの手紙に耐えてこなければならなかった」ような作家である。山陽電鉄の車掌時代に日本共産党に入党し、1931年に投獄され、獄中で転向し釈放された。(当時の共産党員への政府の弾圧と、その果ての「仲間への裏切り」、「転向」は、その後の椎名の作品でも重要なモティーフでもある。)その後、上原教会の赤岩栄牧師 より洗礼を受けた。
 椎名の作品の詳細を述べるには紙幅が足りないので、ここではごく簡単な紹介にとどめざるを得ない。昭和初期の労働者目線で描かれた椎名の作品全体に漂う雰囲気は、神学上の教理でいう「先行の恵み」と、その恵みを与える神とこの世との間の断絶を前提として、決して手に入れることのできない「ほんとうの自由」を求めないではいられない人間のおかしさ、滑稽さに満ちている。そして椎名自身がいう通り、彼は唯物論者にしてキリスト者である。20世紀半ば頃までは、彼のようなキリスト者は結構いたのである。
 教理や神学で説明しようとすると、どうしても難しい話になってしまう。ここは、椎名の体験を拝借させていただこう。
 独房からの解放後、雑役夫などの職に就くが相変わらず特高につきまとわれ、職場でアカという前科がばれては職を転々としていた。そのような中、「ドストエフスキーを信頼して」洗礼を受けた。しかし何度も「おかしな」自殺をはかっては失敗し、自殺もできない自分への絶望は続いていた。洗礼から一年後、突然回心の体験は起こった。ルカ福音書の復活のくだりを読んでいた時だった。それは「一瞬のうちにすべてがちがったふうに見えるという仕方で起こった」のである。
 ルカ福音書における復活の描写は、他の福音書に比べて復活のキリストの肉体性をことさら強調する。復活を信じようとしない弟子たちに焼魚を食べるところを見せたり、自分の両手足を見せつけたり、という具合に。しかしそのキリストは、十字架上で確実に死んだイエスである。弟子たちの前で焼魚を食べたりしてみせているその男は、死んでいて生きている。この、死と生の「共存の根拠となるものは、生にも死にもなく、生と死の外にあって、しかも生と死を超えたところのものでなければならない。私は、神は知らない。しかしそのようなイエスの存在から神を感じることはできるのだ。」 これが、椎名の回心の出来事であった。

  死ではあるが絶対的なものではなく、生ではあるが、それも絶対的なものではない。私たちの考える二つの絶対、生の絶対性と死の時間の絶対性を超えて[イエスは]存在しておられるのである。私たちの絶対的な必然性と考えている壁がここでは崩れ落ちている。しかしそれこそ「ほんとうの自由」というものではないか。

椎名のいう「ほんとうの自由」の「ほんとうの」は、「自由」を修飾する「本当の」という形容動詞ではなく、「本当」という名詞と、所有格にあたる助詞「の」の組み合わせであることにお気づきだろうか。つまり、「ほんとう」を「キリストの神」と言い換え、「(キリストの)神の自由」といえば分かりやすいかもしれない。椎名が「神」を使わないのは、その言葉には、神学や、教団・教会による手垢があまりにもついてしまったからであろう。絶対があるとすれば、それはわたしたちの世界とは断絶した自由にしか存在しない。私たちの世界における生も死も含め、すべてが相対的であると、イエスの死を通して伝えるために、「ほんとう」はそのひとり子を、なんと復活させてしまった。ご自身の愛を世に示すために、そこまで演じなければならなかったというのが、椎名のいう、「ほんとう」=「神」のユーモアである。

3 神の摂理—キリスト教とご利益宗教を分かつもの
 「感謝」、美しい言葉である。または「祈り」、誠実さを誇示する偽善に都合よく利用され易いからこそ、祈る時には人前で祈ってはいけないとイエスは「山上の説教」で説く(マタイ6章5節)。
 いわゆるご利益宗教においても、感謝や祈りがある。(この「ご利益宗教」には、キリスト教の教会・集団が含まれる場合も大いにある。)ご利益宗教とは、神との対話や応答のただ中においてではなく、人間の側からの一方的な願いを押し付ける形で感謝や祈りをその対象者に投げてよしとする宗教、と私は理解している。もちろん、そのような宗教への信心があってもキリスト者にとって一向に差し支えない。なぜならキリスト者にとっても、日々の小さな願い―商売繁盛、受験合格、心願成就、遅刻者に対して「その足を速めて下さるように」など―は生きる上で大切だからである。しかしこれらの願いは、キリスト教の本質的な宗教性であるところの「祈り」とは異なっている。
 キリスト教を、キリスト教たらしめている本質の一要素として「神の摂理」論がある。キリスト教における摂理とは、全知全能の存在が定めた設計図のようなものではない。キリストの父なる神は、仏教のいうダルマや、神智学的なアカシックレコードとは直接的に関係しない。では、スウェーデンボルグは神の摂理をどのように考えているのだろうか。
 「主はその神的摂理により人間の生命の愛の諸々の情愛を導かれると同時に、人間の深慮の発生する思考をも導かれる。」(イマヌエル・スエデンボルグ『神の攝理』柳瀬芳意訳、1960年、静思社。 192。)
 一八世紀を生きたスウェーデンボルグが言及する「神の摂理」を、現代の私たちはどのように理解できるであろうか。椎名の回心体験を共有することで、このスウェーデンボルグの言葉がぐっと身近になるのではないかと思うのだがいかがだろうか。
 椎名の『私の聖書物語』によって、私がどのようにして自己肯定感の低さと決別するに至ったのかについて、に戻ろう。椎名によって、そして椎名が取り上げられた大学初年度の授業によって、私はこの世の一切が、自分の生き死にも含めて相対であることに目を啓かされたのである。いや、正確には、以前から実は私はそれを知っていたのだが、大人になってやっとそれが言葉化されたことで、曇っていた視界が開けたという方が近い。
 幼児の頃、風呂に浸かっている時に自分の腕をみつめながら、自分の腕の皮膚と湯との境目は一体どこにあるのだろうと考え、ひょっとしたら自分と湯の間には境がないのではないかと思い、自分の存在の不確かさに怯えた。夜寝る前には、今ある自分と、翌朝目覚めた時の自分が同一人物であると、どうして断言できるだろうかと思うと寝つくことが恐怖だった。これらの存在に対する恐怖を、幼児時代に言葉にすることができなかったのはもちろんである。だからこそ私の記憶の奥底に残っていたのは、自らの存在の不安定さに由来する恐怖から救いを求めて祈っていたことと、「それでも私があなたを支えている」という、祈りの対象者からの励ましのメッセージであった。
 霧に覆われぼんやりとしか判らなかったその者の正体は、マルティン・ブーバーのいう「われと汝」の関係性において見いだされる、世と断絶した永遠の〈なんじ〉であったのだ。椎名麟三を若い学生たちに示した師は、「存在」や「絶対」の追求ではなくむしろ神との対話、関係性を重んじる実存論的神学の提唱者であった。椎名文学の他に、大学初年度において実存論的神学の洗礼を受けた私は、自分の存在がすでに神との関係の中で肯定されていたことに気づかされた。存在に先立って愛を贈られ肯定されていた自分の存在について、その価値が低いとか高いとか、悩む必要など最初からなかったのである。椎名麟三を読み、また、実存論的神学に夢中になった果てに、その後振り返ってみると、太宰の「生まれてすみません」が私にとっては全く無意味になってしまっていた。
 「自然と人間の深慮のみを承認したものは地獄を構成し、神とその神的摂理を承認した者は天界を構成する。」(スエデンボルグ、同。)
 太宰が入水した三鷹付近の玉川上水は、太宰の頃には相当の水量で流れも速かったが、今では浅くのどかな小川で、とても自殺できるようなところではない。昔の様子を知らずにそこを訪れる今の人は、ここでどうやって太宰が自殺できたのか不思議に思うであろう。太宰は死によって何かを得ようと自身の生を賭け、その時には自殺に成功してその賭けに勝ち、利益を得たかのようにみえる。言い換えれば、そこは当時の太宰にとってほんとうに死ねる場所、死による安寧を得られるはずの場所だった。それがどうだ。百年も経たないうちに、太宰の出来事を記した石碑は小さく目立たなくなり、そこは「生きる」人々の憩いの場になっている。その場所は、後の人々にとって生きながらにして安寧を得る場所となってしまった。
 私にとって玉川上水という場所は、この太宰の事件をきっかけとされた、生も死も含め、世の一切が相対的であることの象徴である。