新しい道

新しい道      

        
亀島 義侑

 いつの間にか終活する歳になり、それとなく備忘手帳を読んでいるうち、新たな確信を得ました。それは「すべては御主の無限愛の力によって支えられている」ことを痛感し、思わず感謝にひれ伏しました。
 新教会(特定の教会ではありません)の教えは、人が想像だにしなかった新しい道だと思っています。まとまりのない備忘手帳から、その一端を左記に掲載させて頂きました、ご高覧いただければ嬉しいです。

主のご降臨・ご再臨がなかったら、何ぴとも救われ得なかった。(『真のキリスト教』3)

ご再臨は、主がご自身を親しく示した一人の人間(ス師)を通して行なわれた。(『真のキリスト教』779~80)

この「新しい教会」は、これまで地上に存在した凡ゆる教会の冠である。(『真のキリスト教』786~791)
教会は人間の中にあるのであって、人間の外にある教会は各自の中に教会を持った幾多の人間のもとにある教会である。(『聖書の教義』78)

地上の主の教会は心臓のようなものであり、そこから人類は、教会外に在る人たちも、生命を得ている。(『天界の秘義』637)

人間の生命は死後も変わることは出来ない。(『新エルサレムと教義』239)

すべて宗教は生活(生命)に関係するものである。宗教の生活は善を行なうことである。(『生命の教義』1)

すべての人は、天界へ行けるように予定されているが、地獄へ行くように予定されている人はいない。(『神の摂理』322、参考:『神の摂理』330、『真のキリスト教』486、487)

試練にあっては、その人間が戦っているように見えるが、主のみが人間のために戦っておられることを知らねばならない。『天界の秘義』8159)
知っていることはわずかでも、それに従って生活する者は他生で明るくされ天使となる。(『天界の秘義』1100)

だれでも新たに生まれなくてはならない。(『ヨハネ福音書』3・1~7)

主と結ばれることと再生することは同じことである。(『神の摂理』92)

人間は自分が再生しつつあることを、ほとんど知らない。(『天界の秘義』1909、3570)

人間は再生しないうちは必ず報酬を考えるが、再生後には考えなくなる。(『天界の秘義』8002)

人間は再生するためには、試練が無くてはならない。(『天界の秘義』8351)

人間の再生は、一瞬では行なわれない。(『真のキリスト教』610)

人間は再生されつつあるとき、その人はまったく別の人になりつつあり・・・(『天界の秘義』3212)

卑下の状態は礼拝の本質的状態である。(『天界の秘義』2327)

残れるもの (残果)とは、人間の内的な人の中に、幼少の頃からその生涯の終わりにかけて、主によって貯えられているあらゆる善と真理のことである。(『天界の秘義』2280、2284、5342)

主はどんな人の罪をも赦され、責任の追及もされないが・・・(『神の摂理』280、『真のキリスト教』409、539)

祈りの本質は仁愛に生きることである。(『黙示録講解』325)

「自分自身を愛するように、隣人を愛せよ」とは、(『生命の教義』73)

主と共に生きる人々(『黙示録啓示』951、『真のキリスト教』276)
人間が試練を受けている時は、(『天界の秘義』6829)

「石のナイフ」で行なわれた「割礼」の意味するもの(『天界の秘義』9087)

姦淫者は、単に天界の社会に近づくのみで、自分自身の悪臭に気付いて、自分自身を地獄に投げ落とす。(『天界の秘義』2733)

天界では、主以外にはいかなる父も知られておらず、主の王国または教会以外のいかなる母も知られていない。(『黙示録講解』966)

人間は世に生きている間はこの中間(天界と地獄の中間地帯)の地獄にいる。(『黙示録講解』1014)

救われたいと思う者は、自分の「罪を告白」して、「悔い改め」なければならない。(『天界の秘義』8387~9)

「主は愛そのものであられる」(『天界の秘義』1735)

 人生は長いようで短かい。私は学生時代に、御主への信仰に導かれながら自分の愚かさのため、人生の終盤になって再生の道を歩める人に加えて頂きました。無きにひとしい私に、ご恩寵を授けてくださった御主へ感謝の全てを捧げる者です。