新教会牧師への導き下

新教会牧師への導き(下)


國枝欣一

5 私の信仰歴
 父が死んだのは戦後の混乱期(昭21)。弟は乳飲み子で國枝の祖母に養育されていた。姉は小学校中学年。私はなんとか生活可能な年中組の頃。母は午前中は家事と畑仕事をこなし、午後から夜に掛けてピアノを教えることで生計を立てていた。この時期私は非常に不安定だった。怒りっぽく、殆ど毎晩オネショをするような子どもだった。今思うと愛情に飢えていたのだと思う。私が5才になった時、近所に保育園が出来、私は保育園が好きで、毎日2キロの道を通った。6歳になる前の秋(昭24)、激しく怒って園の窓ガラスを4、5枚割ったことがある。担任の美江子先生は無言で私を抱き上げ、園の外に連れ出した。園は小高い丘の上にあり、園の裏側は西側に開けた丘陵地帯になっていた。私の怒りは鎮まって行った。先生は何も言わず、ただそばにいてくれるだけだった。受け入れてもらえる喜びを心地よく感じていたのだと思う。
 小学校は走れば五分で教室までいける近さにある。1年生の春(昭25)の運動会の時、何が原因だったかは今となっては思い出せないのだが、怒り狂い、担任の高田テル先生に砂をぶつけて大騒ぎをしたことがある。六年の姉が家まで駆け上がって来て「大変!」と母に告げ、母も飛んで来たということがあった。高田先生は私を抱きかかえて講堂の裏側に連れて行き、「あなたは一体私に何を望んでいるの?」と涙を流しながら訊いてくださった。この時私の中から怒りが消えて行くのを感じた。
 美江子先生は「長い保育園経験の中で、あなたのような怒りを示した子はいなかった。」と70年経った今も言われ、高田先生は三日三晩眠れなかったと母に語ったと言う。これは私の尋常ならざる愛の原型なのである。
 中1の時に陸上競技を始めた。私たちのチームは学校のワルと言われるヤツばかり。でも真剣に付き合い、練習する事で一致して目標に向かうことができた。当時鎌倉市内を1周する中学駅伝があり、私たちは2年続けて優勝できた。
 安達君という知恵遅れの子がクラスにいた。級友はよく彼をからかって楽しんでいた。私はそれを見ているのに耐えられなかった。彼を守ろうとした級友がいた。私達は休み時間になると安達君と一緒にいて、彼がイジメられないように守った。
 高校での部活はJRC(青少年赤十字団)。私の高校は団の歴史も古く、先輩に日本赤十字社社員も何人かいた。奉仕活動としては母子寮、精神病院、盲人施設等の訪問、赤十字三法と言われる家庭看護法、救急法、水上安全法の習得、リーダーとしてのトレーニング等受けた。入部してから赤十字の理念を学ぶ機会があった。テキストは「赤十字の諸原則」(非売品)という本であった、私の哲学的理解の基本になる学びだった。人道、博愛、公平、平等等という概念を学んだ。この本は赤十字の行動基準、原則を示した本である。一方何故か大学に入ったら教会に行こうとも思っていた。

6 SCA(学生YMCA)と教会生活
 青山学院大に入学して、昭和38年(1963)4月から日本バプテスト同盟横浜教会の礼拝に参加するようになった。教会にすぐ馴染み、祈祷会に参加し、青年会活動にも積極的に関わって行き、やがて教会学校の教師を務めるようにもなった。
 キリスト教主義の学校に入り、キリスト教を学びたいとも思ってSCAに入部。入部して驚いた事は、先輩達だけでなく、新入生の仲間達も実にキリストを深く理解していたことである。また神学部はもちろん経済学部、文学部にはクリスチャン教授がいて、その先生方の多くが青年期に学生キリスト教運動に関わっておられた。私もそうした先生に感化された。SCAの活動は、部内での合宿、クリスチャン教授を中心とした読書会、江東区8号埋立地にあった蟻の町での奉仕、学内での「大学夏季学校」の開催などであった。私は学内の活動には積極的に参加した。
 従って、大学生の間は、夏休みなどの長期の休みの3分の1は、草島時介東京教育大学教授の始められていた重症心身障害児施設「海風学園」で過ごした。将来自分は社会福祉ないし教育機関で働くようになるのだろうと漠然と思っていた。
 私が通っていた教会は、東京山谷、大阪釜ヶ崎、横浜寿町という日本三大ドヤ街の一つ、寿町に接して立っていた日本で一番古いバプテスト教会だった。しかし教会と寿町は全く関連がなかった。牧師に聞いても、役員会で問いただしてみてもその理由の明快な答えは返ってこなかった。
 教会やSCAの活動に触れていくに従い、JRCで学んだ人道主義が揺らいできた。人道主義は人間を大切にすることである。いわば人間絶対主義である。ところがキリスト教は「わたしのほかに神があってはならない」と命じられる。神が絶対であって人は絶対ではない。この価値の転換がわたしにとって大きなつまずきになった。人間を最も価値のあるものとすることが神になってしまうということがわからなかった。この間多くの仲間や先生方に助けられた。矛盾を抱えつつも信仰は深まって行き、大学3年のクリスマスに信仰告白をし、洗礼を受けた。

7 「地の塩」として生きる
 卒業を目前に、自分は何をなすべきか迷った。教育職に就こうと思うようにはなっていた。推薦してくださる人がいてある有名私立女学校の初等部に決まった。決まってみると,ここが本当に自分の働く場なのか心配になった。自分の働く場でないような気がして推薦者にお詫びして採用辞退させていただいた。次は水上生活者の子弟が学ぶ日本水上学園だった。横浜港が不足していて沖合いに停泊した船に荷物を積んだり、荷降ろしをする艀に住んでいた子供達を預かり教育する施設だった。ところが港がだんだん整備されて来たことと、市の政策もあって陸地に住むように指導され、水上生活者がほとんどいなくなり、水上学園としての機能を終え、養護学校と養護施設へと衣替えするときでもあった。障害者施設での生活支援はしたことはあっても、障害を持っている子供の教育は別で、何も知らないで特殊教育の世界へ入っていってよいのだろうか不安になった。3月も半ばになってやっと横浜市の教員として雇ってもらえることになった。それもなんと赴任先は寿町を学区に含む学校だったのである。

8 信仰、教員、地域活動
 クリスチャンであり、地域活動家であり、職場の労働組合の分会長であり、教員であることは私にとって異質なことではなく、皆同一線上のことだった。教員仲間で「寿の子は宿題をしてこない」と話題になったことがあった。教員になりたてだったが、先生方があまりにも寿の様子を知らないことに驚いた。寿では昭和43年当時三畳一間に親子5人が住んでいるなどということはごく当たり前だった。帰宅して勉強する環境などなかった。そこで私は教会の青年会仲間四人で「寿勉強会」という会を立ち上げ、子供達の勉強の面倒を見ることを教会で始めた。70年安保改定に伴って学生運動も盛り上がり、ロックアウトで、近隣の学生たちが、ボランテイアとしてたくさん寿の町にやってきていた。彼らも加わり最盛期には48人の若者によって、72人の子供たちの面倒を見るようになった。初めは週二日の活動であったが、活動の規模は年々大きくなった。一方学生運動に呼応するような形で教会での改革運動も盛んになっていた。一方寿では、区のケースワーカーや町内会の役員とともに、日雇い労働者の生活支援のために夜間銀行を作る運動などもしていた。
 教会の青年たちとは教会の在り方を問い、教員としては教材研究に励み、子供たち支援のため動いた。寿の私の1Kのドヤは、多くの青年や、子供達の出入りする溜まり場でもあった。そんな中に新左翼の様々なセクトの活動家もいた。私は職業柄子供に関する活動に関わることがあったが、それに向けて一緒に働く働き手を必要としていた。私の勤務した学校は当時全国で三本の指に入る長期欠席児童の多い学校であった。まだ不登校児という言葉はなかった。

9 大きな挫折
 私は義憤にかられていた。教師に対して怒っていた。学校に怒っていた。社会に怒っていた。国に怒っていた。日本の経済成長の繁栄を最底辺で支えている労働者が最期にはアル中となり、肝硬変となって死んでゆくことに。その子供達が真っ当な教育を受けられないことに、その最前線にいる教師たちが、寿に触れることを避け得ていることに。
 特殊学級の教師が、職員会の席上、「地域の中学には特殊学級がないので、週に何日か半日でも良いから受け入れてくれないか」と提案した。6年担任の教師たちは「受け入れられない」と反対した。私には特殊学級の担任の要求はごく当然のことのように思えたのにである。
 そんなことが重なっていた頃、私は連合赤軍のメンバーとも関わりを持つようになった。しかし現実の変わらなさの中で、暴力革命もまた必要なのかとも考え始めていた。
 学生時代の海風学園でのボランテイアの時もそうだったが、週休も取らず連日子供の世話をしていると、肉体的にも精神的にも疲れて来て、食事介護をしながらウトウトしてしまうことがあった。こんな時自分は本当に社会福祉事業に向いているのか自信がなくなることがあった。寿でも同じことがあった。自分の教員としての勤務と教会闘争と寿の活動でくたびれ果てて自宅に戻った日があった。翌朝、洗面所の窓を開けて見ると、そこには秋の澄んだ青い空と黄色く染まったケヤキの梢が見え、心が洗われるように感じた。その直後悲しみが湧き上がってきて、歯を磨きながら泣いたことがあった。「私はこうして逃げることができる。でも寿の子供達は、逃げるところもない。自分は本当にこの子供達やその親と共に戦えるのか」と思った。
 これらのことも今から考えると影響していたのだろう、彼らのM作戦に協力することにした。昭和46年(1971)春のことである。私はこの件で昭和49年(1974)4月容疑者として逮捕、拘留された。接見禁止、差し入れも禁止された。許されたただ一冊の本が聖書だった。尋問のない日はずっと聖書を読んでいた。そこで学ばされたのは、人は暴力で変えることはできない。変えられるのは愛であるということであった。この事件以降私は非難や批判の中にあって、孤独だった。心の内を聴いてくれる人は皆無だった。職場はもちろんボランテイア仲間も、教会も助けにはならなかった。この期間、接見に来て下さったのは、バプテスト連盟と共闘して教会闘争をしていた時にお世話になっていた教会の牧師である葛生良一先生だった。
 裁判中私は一体何をやってきたのか、何を本当は願っているのかを考えていた。公判が進んでいく中で、自分は差別が嫌い、差別のない世の中を作りたいのだと気付かされた。

10 差別のない幼稚園づくりの5年
 裁判後、友人の勧めもあって、小さな商事会社の工場で働くことにした。1年ほど経って葛生先生がご自分の牧会をしておられた教会の付属幼稚園で働かないかと声をかけてくださった。丁度その時期、私は明治学院大の社会学部社会福祉学科に通っていた。世田谷区にあるいづみ幼稚園は好都合であった。年少、年中、年長各ひとクラスづつの小さな幼稚園だったが、男女二人でひとクラスを受け持つというユニークな幼稚園だった。私は前任校での失敗を悔いていたので、この幼稚園では積極的に障害のある子どもを受け入れようと話し合い、様々な障害のある子もいることが当たり前の幼稚園にした。保育内容も男性がいることでより豊かになり、園のユニークさが地域に受け入れられるようになった。多様性を受け入れる数少ない幼稚園の一つだった。

11 横浜 YMCAでの15年
 YMCAは伝統的に管理職は、大卒、男子、クリスチャンという職制を敷いてきた。採用は新卒のみであった。私は横浜YMCAで二人目の中途採用者であった。私の配属された先は、キャンプなどの野外プログラムを初め、様々なカルチャー講座を提供する部門であった。そこで年小の子供を扱うプログラムと、冒険クラブという年間を通して野外プログラムを提供する事業を担当した。3歳児プログラムはいづみ幼稚園での経験が生きた。冒険クラブでは中学時代一緒に虫取りをした青砥(理科の教員になり、丹沢自然を守る会の会長などの経験者だった)を頼り、彼の先生でもあり、日本自然保護協会の理事でもあった、自然保護教育のカリスマ的な先生から教えを受けることができた。結果として当時消えてしまう可能性のあった冒険クラブは息を吹き返し、大学生の若いリーダーを育成できた。目標達成が見えてきた時、英語専門学校に移動となった。当時の英語専門学校はYMCAという伝統の中でやっと生きているという状態だった。学生数はやっと100人を超えるくらいであった。
 移動してみると、学校にエネルギーが欠けていた。まず学生たちを厳しく管理した。中途退学者を減らすべく出席を厳しくした。高校の評判も良くなり学生数も徐々に増え始めた。ちょうど18歳人口がピークを迎える前でもあった。専門学校に赴任して3年目、成績上位の学生であったが、遅刻と欠席の多い学生がいた。職員室に呼んでなぜこんなに遅刻や欠席が多いのか叱った。すると彼女はこう言った。「先生、私が悪いのは分かってる。だから努力して起きて学校に来る。でも私は弱いから続けられない。先生は私が努力してまともに学校に来てもなにも言わない。休んだり遅刻したときばっかり怒る。だめだめって言われたら私は立ち上がれなくなっちゃう。」彼女は後半涙を流し、叫ぶように私に抗議した。私は、「はっ」とした。主観的には私は彼女を育てようと思ってきたけれど、彼女が立ち上がろうとする度に、足蹴を食らわしていたのだ。謝るしかなかった。これからどうするか先は見えなかったが、深く後悔した。
 そんな時、一人の学生が退学したいと言ってきた。彼女の主訴は、「恥ずかしい話なのですが、授業中おならが出るのです。それをこらえるのが辛くて仕方がないのです」だった。まだ心身症などという言葉も一般的ではなかった。このケースについて相談したのが非常勤講師としてきてくださっていた野田雄三先生だった。両親の許可も得て彼女を先生のセミナーに送った。セミナーは金曜日の夜から始まって、日曜日の夕方終わる。月曜日彼女は報告に来てくれた。彼女の声に張りがあり表情も明るくなっていた。そしておならも出ていないということだった。親子関係も良くなり、無事就職も果たして卒業して行った。
 彼女の変化を見て、私もセミナーを受けたいと思った。
参加してみると、それはまさに私が求めていたものだった。私は、教員になってからずっとカウンセリングを学んでいた。カール・ロジャースの来談者中心療法である。しかし自分にはどうしてもしっくりこなかった。先生は、神学校での学びを終えて、カリホルニアで様々な人間性心理学を学び、ヴィクトール・フランクルからはロゴセラピーを、直接学び指導資格も得ておられる。ある技法に固執するのではなく、様々な療法を、その人にあった技法を組み合わせ、クライエントに応じた方法をとるというものであった。
 同じ年の秋、学生のための就職準備講座としてIBMの副社長に来ていただいた。彼の話を要約すれば「今持っている専門性の他にもう一つ40歳までに他人に教えられるような専門性を持ちなさい。」というものであった。私はその時36歳だった。

12 野田雄三先生との出会い
 この講座は学生のための講演会だったが、一番触発されたのは私だったのかもしれない。私は残された4年を細く検討してみた。残された時間は、1400時間ほどだった。専門学校の学生たちが勉強する時間は年間1200時間である。彼らが一年間で伸びる能力はわかる。とすると私にはあれもこれも追う時間はない。一つに絞らなければならない。ひと月ほどあれこれ考えてみた。最後に決めたのは、ホライズンセンターに通い心理療法を極めること、だった。自分の自由になる時間はすべてホライズンでの学びに当てた。すると不思議なことに、40歳になった年から、病院や企業から職員研修を依頼されるようになった。有給休暇が毎年消化できなかったので、こうした研修依頼に有給休暇を当てた。野田先生は東大の石川中教授や九州大学の池見酉次郎教授たちと心身症の保険点数化に関わっておられた。そして野田先生は病気の患者さんを直す医療モデルではなく、予防医学的な見地から健康な成人を対象とするプログラム、成長モデルを開発されていた。私は先生から成長モデルを学び、学生対象の教育モデルを作る努力をしていた。学生数も順調に伸びてきていたため、新規の講師を募集し、採用していた。
 初めの頃は、20数名だった講師も既に80名になっていた。優秀な講師を集めるために、あえて子育て中の若い女性を講師として採用した。この講師たちが研修するときは保育室を設けて参加しやすくした。この講師に気づきを深めてもらうためであり、研修を通して非常勤講師同士が親しくなり、教科間の連絡を密にしやすくした。そうこうする内に就職内定も得やすくなり、学生の評判も良くなってきた。私も「ダメダメ!」と言うことは無くなった。
 この頃になると、野田先生のアシスタントをするようになり、部分的には研修を任されるようになっていた。自分の考えたワークをしたり、講義を先生の前で行い後で評価していただく時間を与えられるようになっていた。
 そんなある時、先生から一冊の本を紹介された。『霊感者スウェデンボルグ』ウィルソン・ヴァン・デユセン著、
今村光一訳日本教文社だった。この本を通して初めてスウェーデンボルグを知るようになった。教会の礼拝にも参加するようになった。

13 野田雄三牧師の働き
 野田先生の守備範囲は実に広かった。BMWや日産といった企業研修に、医療、看護教育関連、新教会関連と実に多岐にわたっている。それを企業研修は産能大の斎藤貞夫さんが引き継ぎ、医療面に関してはピースハウスの松島たつ子さん、そして教会と看護教育の面を私が引き継いだという形になった。先生の癌が発見されたのは昭和63年(1988)夏前だった。わずか1年半の闘病生活で平成2年(1990)10月25日に旅立って行かれた。享年47歳という若さであった。私はこれから誰に付いていったらよいか茫然自失状態だった。主が十字架につけられた時のお弟子達の様子がリアルなものとして感じられた。

14 召命を受ける
 葬儀が終わって3日後の未明、「あなたが、牧師になりなさい。」という声を聞いた。私にはまったくさからえない命令のように感じられた。それにしてもこれから大学を目指す子供達がいた。経済的にやっていけるのだろうか?妻は反対しないだろうか?国内で学ぶことはできない。英国に行くか、米国に行かなければ新教会の按手礼は受けられないということはわかっていた。
 横で寝ている妻に恐る恐る反論が飛んでくるのを予想しながら訊いてみた。「牧師になれ!っていう声を聞いたんだ。」返事は予想に反して「いいんじゃない」という簡単なものだった。これは後日談だが、妻は、カトリック系の学校に通っていた息子に「お父さんは仕事やめて牧師さんになりたいそうよ」と言ってみたら、「お父さんはそっちの方が向いているね」と言ったそうである。家族が応援してくれている。主に感謝であった。
 11月の礼拝後教会の皆さんが揃っているところで、「もしみなさんの賛成が得られるならば、私が仕事を辞め、神学校へ行って学び、按手礼を受けて帰ってきたいと思うが、どうであろうか」と伺うと、土居不二恵さんをはじめ野田明子さん、高田さん夫妻、遠藤 淑子さんの了解を得られたのでスウェーデンボルグ神学校への入学準備を始めました。
 私の過去の全ては牧師になるための準備であったように思い、導かれていることに感謝します。